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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
  平成25(2013)年3月31日(日曜日)
  通巻第3912号 
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(書評特集)

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 衝撃の歴史証言がシロニー教授から飛び出した
 あの杉原千畝はソ連との二重スパイだったという鬱勃たる疑惑

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ベン・アミー・シロニー『日本の強さの秘密』(日新報道)
  (青木偉作、上野正訳)
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 シロニー教授と言えば、その昔、『天皇陛下の経済学』で颯爽と日本の論壇にデビューされ、山本七平氏らが絶賛した。後年には勲二等瑞宝章にも輝くイスラエルきっての日本通だ。
その生涯を通じて日本の強さ、その精神に学問的関心が集中し、日本の底力と、その復活への見通しを多様な角度から検討する。
 この本は日本通のユダヤ人学者シロニー教授の完熟された日本及び日本人論である。
 議論は広範囲にわたり、天皇家の歴史、三島由紀夫の諫死事件などにも鋭角的な論究があるが、評者(宮崎)が俄かに注目したのは下記の一節だった。
 あの「人道的配慮」からユダヤ人に日本通過ヴィザを発給した美談の持ち主、元外務官僚の杉原千畝が、ソ連のスパイではなかたのか、という歴史の疑惑にシロニー教授が挑戦したことである。
この一点だけでも本書を読む価値がある。
 
バルト三国の南端、リトアニアのカウナス日本領事館にいた杉原は六千人のユダヤ人に日本を通過し、カリブ海のオランダ領キュラソー島へ行くという名目でヴィザを片っ端から発給し、近年では人道的支援をなしたと等とする美談に飾られた。外務省は後日、杉原の名誉を回復し、記念碑が岐阜に建立された。イスラエルからは1985年に名誉賞が贈られた。
ところがその美談の裏側に信じられない本質の顔が潜んでいた。
杉原の未亡人は「外務省の指示に反してヴィザを発行し、それによって自分の身とその立場を危険にさらした」などと証言し、その妻が書いた伝記では「戦後、外務省から罰せられ、解雇された」と叙述されていた。
 これらが事実に反することは既に多くの研究によって明るみにでている。
杉原は、外務省の指示にしたがってヴィザを発給したし、その後も彼は外務省内で出世階段を駆け上がった。ましてユダヤ人を人道的に救援することは当時の日本の国策であり、トップの決定は東条英機、土肥原将軍らである。

 そうした前提のうえで、シロニー教授は次のように活写する。
 「外交官としての任務は、単に表向きだけのことだった」
「杉原氏が1939年にリトアニアに送られたのは、ヨーロッパにおけるドイツとソ連の軍隊の動きを偵察し潜入調査して、日本政府に報告することであった。スターリンとヒトラーの間の不可侵条約の継続は、ロシア人の東に日本に対する攻撃を可能にするものであ」り、そのうえ「日本の軍隊をソ連との国境から等安アジアへと移動させることを可能にした」
これが事態の背景である。そのうえ、同教授は書いていないが、当時に日本の知識人にはコミンテルンシンパがやまのようにいた。
或る研究に拠れば、杉原氏はリトアニアでポーランドの地下組織と接触し、情報を得たのだが、それと引き替えに「日本の商用パスポートを与え、日本の外交郵便を使って彼らの郵便物をロンドンにあるポーランド亡命政権に移送していた」

その経緯にあって杉原はヴィザを亡命希望のユダヤ人に発給し続け、その行為にドイツは反対しなかった。当時、反対したのは英国だけだった。
 だから杉原の行為は「人道的に素晴らしい行為」だがと前置きしつつもシロニー教授は「英雄視する必要はない」と言う。
「もし外務省の指示に反しての行為なら、杉原は「すぐに解雇されるか、または日本に送還され刑務所送りになっただろう(ドイツやソ連だったら、殺されていたに違いない)」。
ところが、逆に杉原はその後、プラハ領事館に勤務し、1942年には公使としてブカレストへ赴任するのである。

 重要なのはその後日譚である。
 「赤軍によってブカレストが占領されると、杉原氏とその家族はロシアの捕虜となった」。捕虜生活の時間は謎のまま、1947年に帰国したが、米軍の占領下にあって、外務省そのものがなくなっていた。だから解雇ではないのである。
「戦時中に『枢軸国』の諜報員だった杉原氏のような人物はいわずもがな(中略)、ミステリアスな側面は「ソ連との特別な繋がり」である。彼はロシア語に通じており、ソ連専門家であったばかりか、「ロシア正教会に改宗し、一時的にではあるがセルゲイ・パブロヴィッチというロシア名まで名乗り、クラウディアというロシア人女性とハルビンで結婚し、彼女とは十一年間を共に暮らした」のだ。
 この衝撃の人生の軌跡はほとんど語られていない。
 だからロシアの捕虜となっても、杉原は特別待遇を受け、はやくも1946年に釈放された。にも関わらず釈放から数ヶ月間も杉原氏は日本に帰国しないで、ロシア国内を旅行している。
あまつさえ、杉原は1960年代に「モスクワへ移住し、そこで十五年間、日本のビジネスマンとして働くという、冷戦時代には非常に稀な生き方をしている。杉原氏は二重スパイだったのだろうか?」という疑問を直截に読者に投げかけている。
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 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 883】     
 ――「愈々支那は気に食わない」(芥川の中)
 『支那游記』(芥川龍之介 改造社 大正14年)


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芥川は、「支那」に対する怒りの矛先を豚、それも死んだ豚にまで向けている。
 長江を遡行して訪れた景勝地の廬山で「若葉を吐いた立ち木の枝に豚の死骸がぶら下がっている。それも皮を剥いだ儘、後足を上にぶら下がっている」。そこで「一体豚を逆吊にして、何が面白いのだろうと考え」た芥川は、「吊下げる支那人も悪趣味なら、吊下げられる豚も間が抜けている。所詮支那程下らない国は何処にもあるまいと考えた」。 

 ここまで考えたら、後はもう一瀉千里である。
 廬山を見ては、「廬山らしい気などは少しもしない。これならば支那に渡らずとも、箱根の山を登れば沢山である」。

連れて行かれた有名な料亭の庭を眺めては、「洪水後の向島あたりと違いはない。花木は少ないし、土は荒れているし、『陶塘』の水も濁っているし、家の中はがらんとしているし、殆御茶屋と云う物とは、最も縁遠い光景である」。

 「さすがに味だけはうまい支那料理を食った」にもかかわらず、「この御馳走になっている頃から、支那に対する私の嫌悪はだんだん逆上の気味を帯び始めた」。そして遂に、「私は莫迦莫迦しい程熱心に現代の支那の悪口を云った。現代の支那に何があるか? 政治、学問、経済、芸術、悉堕落しているではないか? 殊に芸術となった日には、嘉慶道光の間以来、一つでも自慢になる作品があるか? しかも国民は老若を問わず、太平楽ばかり唱えている。・・・私は支那を愛さない。愛したいにしても愛し得ない。この国民相腐敗を目撃した後も、なお且支那を愛し得るものは頽唐を極めたセンジュアリストか、浅薄な、支那趣味のしょう?者であろう」とまでいい切るのであった。(尚、「しょう」の漢字は、「口」へんに「尚」)

 「莫迦莫迦しい程」と正々堂々と綴っているが、さて、どの程度までに「熱心に現代の支那の悪口を云った」のか。その程度を知りたいものだが。