海行かば 水漬く屍

  山行かば 草生す屍

  大君の 辺にこそ死なめ

  かへり見は せじ

 我々は、こうした丈夫(ますらお)の清く明けきその名を太古の昔から今現在にまで伝えて来た祖先の末裔(まつえい)である。大伴氏と佐伯氏は、人代の祖先が「子孫は祖先の名を絶やさない」という誓いを立て、「大君(天皇)に服従するものである」と言い継いできた官職なのだから、そうした言葉に恥ずかしくないようにせよ。
梓(あずさ)弓を手に取り持ち、剣太刀を腰に佩(お)びて、「朝の守りも夕の守りも、大君の御門の守りこそは、我らをおいて他に代わる人は無いのだ」と心に誓えば、その思いはますます奮い立つ。恐れ多くも大君の詔(みことのり)を拝聴すれば、誠に尊くも有り難いことである。

【解説】これらの歌は、奈良朝末期の貴族・大伴家持(718年~785年)が、久米氏とともに我が国における武人の遠祖であった名門・大伴氏の名を曇らすことがないようにせよと一族に訴えたものである。中央と地方の諸官を歴任し、晩年は中納言・東宮太夫にまでなった家持であるが、藤原氏の権勢が強まるに中にあって藤原氏暗殺計画への関与を疑われ、薩摩に左遷されたり、一時的に解任されて都を追放されるといった苦難に満ちた人生ながらも、その生涯を通じて神ながらの日本の伝統精神を守ろうとした。

 大伴家持は、天孫降臨に供奉した天忍日命(アメノオシヒノミコト)より伝わる武人の魂を、剣太刀を研きながら自らの心に清らかさ・明らかさを磨きだすことにより末永く保持させようとしたのである。剣太刀という「武器」は、人を斬り殺す道具であるとともに、邪悪・穢れを祓い、清明さを回復する神聖なものでもある。
この思想こそが、後の世においても刀が「武士の魂」として尊ばれ、名誉・誇りの象徴とされてきた原点であった。武士には魂の籠(こ)もった刀を身に帯びるのにふさわしい人格が求められたのであり、それを後々まで伝えようとしたものこそが、いわゆる「武士道」である。

 研ぎ澄まされた日本刀は、単なる「武器」を超えて、その発する光も姿形も清らかで気高く美しい。しかも、その切れ味は世界中の刀剣でこれに及ぶものがない。こうした日本刀を見ると身も心も引き締まる思いがするのであるが、ここに日本の「武」の本質がある。

▽ 防人の歌(『万葉集』から)

  今日よりは 顧(かへり)みなくて 大君の

   醜(しこ)の御楯(みたて)と 出で立つ吾は

       火長今奉部與曾布(かちょういままつりべのよそふ)

(現代語訳)防人という大任を仰せつかった今日からは、私事の一切を捨て去って顧みる事なく、不束ながらも栄えある「大君の御楯」すなわち天皇が統治あそばされる日本の国土を守る兵士として私は出発致します。

 *注:火長とは、十人の兵士を指揮する役職

  大君の 命(みこと)かしこみ 磯に触(ふ)り

   海原わたる 父母を置きて

       丈部造人麻呂(はせつかべのみやつこひとまろ)

(現代語訳)天皇のご命令を謹んで受け、その栄えある務めを果たすために磯から磯へと伝いながら海原を渡って行こう。故郷に父母を残したままで。

  水鳥の 立ちの急ぎに 父母に

   物言(は)ず来(け)にて 今ぞ悔しき

       有度部牛麻呂(うとべのうしまろ)

(現代語訳)水鳥が飛び立つようなあわただしい出発だったので、父母に何の言葉も交わさずに来てしまったことを、今になって悔やんでいる。

  父母が 頭(かしら)かき撫(な)で 幸(さ)くあれて

   言ひし言葉(けとば)ぜ 忘れかねつる

       丈部稲麻呂(はせつかべのいなまろ)

(現代語訳)父母がこれから出発する私の頭をなでながら「元気でな」と言った言葉が忘れられない。

  わが母の 袖持ちなでて わが故に

   泣きし心を 忘らえぬかも

     山辺郡上丁物部乎刀良(やまべのこほりかみつよぼろもののべのをとら)

(現代語訳)私の母が、溢れ落ちる涙を袖で拭(ぬぐ)っていた。私との別れを惜しんで泣いていた心をどうしても忘れることができない。

 *注:山辺郡とは、今日の千葉県東金市付近

  父母も 花にもがもや 草枕

   旅は行くとも ささごて行かむ

       丈部黒當(はせつかべのくろまさ)

(現代語訳)父母が花であったらいいのになあ。こうした長旅に行くにしても、その花をしっかり手にもっていくのになあ・・。

  忘らむて 野行き山行き 我来れど

   わが父母は 忘れせぬかも

       商長首麻呂(あきのおさのおびとまろ)

(現代語訳)あまりのつらさにいっそ忘れてしまおうと思いながら野や山を歩きつつここまで来たのだけれど、どうしても父母を忘れることができない。

  葺垣(あしがき)の 隈処(くまど)に立ちて 吾妹子(わぎもこ)が

   袖もしほほに 泣きしぞ思ほゆ

       刑部直千國(おさかべのあたいちくに)

(現代語訳)家を出るときに、葦の垣根の奥まったところに立ったままの妻が、袖もしぼるばかりに濡らして泣いていたのを思いだす。

  唐衣(からころも) 裾(すそ)に取り付き 泣く子らを

   置きてぞ来(き)ぬや 母(おも)なしにして

(現代語訳)私の服の裾を小さな手でにぎりしめて「行っちゃいやだ」と泣いていた子供たちを置き去りにして来てしまった。嗚呼、あの子らに母はいないのだ・・。

【解説】ここに紹介したのは『万葉集』巻二十に収められている「防人の歌」である。これらの歌の作者は皆、久米氏や大伴氏のような武門の氏族とは全く無縁の庶民たちである。

 防人は、大陸及び朝鮮半島との緊張関係から唐・新羅による侵攻に備えるために置かれた「国境警備兵」であり、その主体をなすのは兵士として選抜された東国(現代の静岡、長野から関東の全域)の農家の若者達であった。
この東国の人々とは、太古の昔、大君にまつろわなかった(服従しなかった)夷人の末裔たちであるが、純朴で戦(いくさ)に強く、忠勇剛健の気風に満ちていた。彼らは東国から遠路を徒歩で難波(現在の大阪)に集結し、さらに船で瀬戸内海を渡って筑紫、壱岐、対馬などの国境最前線に向かったが、皆、生きて再び故郷へ帰ることはないだろうとの覚悟を固めて旅立ったのであった。

 こうした防人の歌を『万葉集』に収めたのが大伴家持であった。天平勝宝6年(754年)35歳で兵部少輔となって防人の選抜業務に関わった家持は、防人となる庶民の心情をよく理解していた。そこで、諸国の部領使たちに命じて防人たちの歌を収集し、大君の命令をかしこみ出征する勇ましい心を詠んだ歌も、親を思い、愛する家族との離別を悲しむ心を詠んだ歌も分けへだてなく尊重し、『万葉集』に収めたのであった。

(「古の武人たちの歌」終り)


(家村和幸)


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