話を戻そう。こうして大きな戦争を跨いでも植民地主義は断固変わらなかったが何百年間も続いた欧米の植民地支配の「マニフェスト・デスティニー」に、やっと楔を打ったのが「日本精神」だった。植民地体制を大きく変え戦後アジア・アフリカ諸国の独立という帰結を達成したのがまさに大東亜戦争だったのだ。そしてこの日本精神に基づき戦った240万人もの将兵が、世界各地で亡くなったのである。

2、遺骨収集事業について
 現在の遺骨収集事業は厚生労働省が主催して派遣を企画し、厚生労働省・日本遺族会・戦友会・学生ボランティアの四団体から参加者を得ている。派遣期間は2~3週間。事前に調査した場所から遺骨を発掘し、荼毘に付して遺骨箱に納骨し日本に戻ってくる過程が遺骨収集である。実際に現地に行くと、遺骨収集は年々困難になってきている。

 例えばニューギニアではご遺骨が売り物にされている地域がある。ギルワという村ではトタン板の上に遺骨や水筒、銃などが並べられていた。最初は祭壇のように祀られているのかと思ったが実際は売り物にされており、村長からは遺骨を購入するように求められた。私たちは倫理的な理由に加え、一度購入してしまうと今後購入なしではご遺骨を迎えられなくなることを懸念し要求を拒んだ。村長との交渉は5時間に及んだが折り合わない。厚生労働省の団長も悩んだ末、現地人が遺骨発掘のために農作業を1週間休んだ分の賃金補償として7キナ(日本円で1000円)を支払うこととなった。これは村の一家が数ヶ月間暮らせる大金である。

交渉が成立すると、現地の子供たちが遺骨を抱えて建物の裏に隠れてしまった。皆で覗くとそこでは遺骨を袋に入れて砕き、小さなビニール袋に分けていたのである。遺骨を分ければ貰える7キナが増えるというという計算なのであろう。日本人は、ご遺骨を大事にする民族である。遺骨がまるで商品のように扱われ砕かれている現実を見て悔しかった。厚生労働省の団長は激しく怒り、あくまでも1体分の7キガのみ支払うとして粉々になった遺骨を受領した。

しかし、これまでニューギニアを訪れた日本人遺族の中には遺骨受領のため、お金を払ってしまった人もいたという。おそらく日本から長い時間をかけて現地に到着し、ようやく肉親の遺骨に対面した遺族からすれば、お金を払ってでも遺骨と一緒に日本に帰りたいという気持ちがあったのだろう。このようにニューギニアでは金銭が絡む問題がある。

また、旧ソ連領内には「シベリア抑留」で亡くなった人々の遺骨が眠っている。大東亜戦争終戦直前のソ連参戦の結果、在満邦人55万人がソ連によって強制連行され、5万5千人が亡くなったと言われる。私は「シベリア抑留」という言葉は問題を矮小化した表現であると思っている。シベリアとは旧ソ連南部の比較的暖かい地域であり、強制連行された日本人の75%はさらに北方の寒い地域で亡くなっているからである。

収集のため訪れた現場は、バイカル湖付近のハハトイという村の日本人収容所跡地であった。夏でも気温が2度という寒い地域だ。ここでは軍人だけでなく、満鉄社員などの民間人も多く抑留され、軍人よりも先に民間人から死んでいき埋葬されていった。

最初は一つの墓に一体が埋葬されていたが、寒さが増すと土がコンクリートのように堅くなり、深く掘ることができず一つの場所に複数の遺体が埋葬されるようになったという。穴のあいた頭蓋骨も多く見られたが、これは木の伐採中に枝が頭蓋にめり込んで亡くなった人のものである。頭髪や皮膚の組織が残っている遺骨もある。

凍土から日光の下に移すと組織が溶けていき臭いを発する。するとブヨやハエ、蚊といった虫が私たちにたかってくるが、ご遺族は払いもせず嬉しそうにしている。そして「この虫は死んだ父ちゃんの体を食べて育った虫の子孫や。そのDNAはこの虫たちにも受け継がれとる。父ちゃんが自分が来たのを喜んどるんや」と愛おしそうに虫を見つめるのだった。
しかし、ご遺族と戦友会の間には悲しい確執もある。シベリアで遺骨収集をしていた際、ご遺族の方が戦友会の3人を指さしながらこっそり「私はあいつらが許せない」と言った。旧ソ連では一日の作業ノルマがあり、一本の木を伐採することになった場合、細い木ならば数時間程度で終わるが、太い木だとより長い時間がかかる。太い木を切る疲労により、枝の落下事故も絶えない。

その遺族は、「あいつらは最初に細い木に飛びつき、生きて帰ってこられたんだ。うちの父ちゃんは太い木を切らされ、疲れて死んだんだ。あいつらは父ちゃんの屍を踏んで帰って来おったんだ」と。本来収集団は日本人同士で協力し、かつご年配の戦友を敬わなければならないのに悲しい現実だ。
本当に恨むべきは戦友ではなくソ連ではなかろうか。

硫黄島では大東亜戦争末期に多くの将兵が亡くなった。米軍はマリアナ諸島と日本本土の中間に位置する硫黄島を飛行場として利用するため、同島を攻略しようとした。これに対して日本側は2万人の将兵を守備隊として配置したが、その大半は高齢であるなどの理由で徴兵を免除されていた第二国民兵と呼ばれる兵士であった。当時米軍は5日間で硫黄島を攻略できると予測していたが、日本側は36日間も守り抜いた。栗林忠道中将は2万人の将兵に訓示をしていた。「どうせ自分たちが死ぬならば一日でも長く島を守ろう。そうすれば、米軍が飛行場を作り本土を爆撃することを遅らせることができる。本土にいる女性や子供は助かり、多くの日本人が生まれる」と。米軍上陸前、硫黄島守備隊は持久戦のため島内にトンネルを掘っていた。掘る道具が使えなくなると指で土を掘り続けたという。

遺骨の中には本当に指先がボロボロに欠けているものもあった。あるご遺族は硫黄島の慰霊碑を巡りながら当時のことを話してくれた。
父親の出征時、村の人々は万歳で送り出してくれた。しかし戦後は一変する。村内では戦死した父親が「悪いことをした」と冷たい扱いを受け、親戚をたらい回しにされた上、就職の際も父親がいないことで差別を受けたという。「親父が戦死してからは、俺は親戚中の厄介もんよ」と悲しそうに語った。戦死した父親は息子が戦後にこうした扱いを受けることを分かっていたならば、あのように戦うことができたのであろうか。私は戦後の日本の価値観が極端に憤りを感じる。東京裁判後、「従軍慰安婦」に代表されるように日本の将兵は悪だったという歴史に書き換えられている。だがこの状況を私たちの手で変えなければ、大東戦争で亡くなった240万の英霊に申し訳ない。

遺骨収集の場であっても、現存する元兵士の方への失礼な光景を目にすることがある。インパール作戦の野戦病院跡地では遺骨が発見できず、元兵士たちは当時の戦友が好きだった軍歌を土に向かって歌っていた。
すると厚生労働省から来た団長は「軍国主義を思い起こす歌を歌わないでください。現地の人々が嫌な歴史を思い出す」と注意した。このため、元兵士の方たちは休み時間に団長の聞こえない場所で、囁くように軍歌を歌っていた。日本のために戦った兵士が人目をはばかるようにして軍歌を歌わなければならないという現状を変えていかねばならないのである。すでに多くの戦争体験者が亡くなる中、まだ存命の元兵士たちに対して感謝の気持ちを伝えられる機会は今しかない。

3.自虐史観の払拭のために
実際に戦争を戦った人々の気持ちを受け継いでいるのが自衛隊である。しか//