

















日本の心を伝える会
メールマガジンNo.629
2013/2/18









ホームページ
http://www.nippon-kokoro.com/









【転送歓迎】
日本の心をつたえる会です。
ねずブロメルマガ(有料版)のお申し込みは↓から。
http://www.mag2.com/m/0001335031.html




────────
■□【1】野蛮人
────────
左翼の人たちが讃える人物に、張作霖、張学良の親子があります。平和を愛するこの親子は、日本軍の侵略と戦い続けた民族の英雄なのだそうです。
ほんとうにそうなのでしょうか。
張作霖というのは、もともと匪賊(ひぞく・盗賊集団)の頭です。勢力を伸ばして軍閥となり、ついには、満洲国に軍事独裁政権を打ち立てました。
昭和4年、全満洲の歳入は、1億2千万元でしたが、そのうち9千500万元を、張作霖は自己の利益と自己の軍のために遣っています。なんと歳入の8割を私的に横領し他のでています。
そしてその張作霖が、民族の英雄、満洲の支配者となって行った政策の、一端が、次に示すものです。
1 財産家の誘拐、処刑
2 過酷な課税
なんと5年先の税金まで徴収し、農作物や家畜にまで課税しました。収税の名目はなんと130種類にもなりました。
3 通貨の乱発
各省が勝手に紙幣を乱発しました。当然満州の通貨は大暴落してしまいました。
4 請負徴収制度
税吏は、税額を超えて集金した分は、奨励金として税吏の個人収入になりました。
要するに張作霖は、満州国を勝手に私物化したのです。そして自身は「老虎庁」と呼ばれる大豪邸に住み、贅沢の限りを尽くしています。
多くの民衆が怒るのはあたりまえです。そんな折に起こったのが、張作霖の爆殺です。
この張作霖爆殺は、長く日本の河本大佐の仕業と言われ続けました。けれど、公開された旧ソ連の外交文書には、ソ連の陰謀であったと明記されています。
ただ、実際にソ連の陰謀であったとしても、実にソ連は日本人をよく研究していたと思います。
なぜかというと、張作霖は満州で農業や事業を営む日本人から蛇蝎の如く嫌われていたし、もし日本人が張作霖を殺害するなら、それは張作霖だけを殺害するという結果になっていたであろうことは、容易に想像がつくからです。日本人は、余計な殺生を嫌う民族だからです。
張作霖が爆死したとき、満洲の一般市民は、拍手喝采して大喜びしました。当然です。むごい税金の取り立てで、国内を泥沼のような混乱に陥れたのですから、その張本人がいなくなれば、そりゃあ、みんな喜びます。
けれど、禍根が残りました。息子の張学良が生き残っていたのです。
張学良は、親父が殺されると、親父の莫大な遺産を持って上海に逃れました。
そして上海にいる外国人記者などに法外な金をバラまき、満州で漢人たちが起こした数々の悲惨な殺生事件を、ことごとく日本人の犯行であるかのように仕立てた記事を、世界に配信させたのです。
そして支那国民党の蒋介石が、毛沢東率いる支那共産党の八路軍を追いつめ、いよいよ毛沢東に王手をかけたところで、ごくわずかな手勢を率いて蒋介石を拉致し、蒋介石の妻や愛人まで拉致したうえで、蒋介石に日本を標的とすることを約束させています。
このときまで、蒋介石にとっての敵は、あくまで支那国内にいる共産党でした。支那を統一して新国家「中華民国」を建国しようとする蒋介石にとって、まず必要なことは支那における統一政府の実現であり、日本はむしろそのためのよきパートナーであったのです。
ところが張学良の陰謀によって、共産党の主張する抗日戦線(その意図は、蒋介石率いる国民党と日本を対峙させ、両方を疲弊させる)に参画することを約束させられた蒋介石は、この日を境に反日に転じます。そして支那共産党への戦いを停止し、その兵力の矛先を、まるごと日本に向けたのです。
支那事変はこうしてはじまりました。結果日本は、210万の陸軍兵力を持つ支那国民党に対し、全兵力を合わせてもたった25万しかいない戦力で、しかも支那国民党の支配地である支那大陸内での戦いを開始することを余儀なくさせられたのです。
210万に対して、たった25万です。日本が支那事変を、あくまで事変として戦争にまで発展させたくなかった意図もここにあります。なぜなら、戦いが辛く、苦しいものとなることは容易に想像がついたからです。
日本はやむなく国民党と干戈を交えました。そして連戦連勝し、国民党を支那奥地の重慶にまで追いつめました。
けれど、それは常に自軍に十倍する、完全武装した敵と、常に対峙しなければならないという、世界の戦史で考えられないほどのたいへんな戦いだったのです。これをなし得たのは、ひとえに日本軍の戦士達の責任感の強さです。
逆にいえば、日本がもし、悪辣な張作霖を早い段階で殺害していれば、あるいは張作霖が爆死したときに、それこそ支那朝鮮まがいに、張学良までまとめて殺害していれば、日本はそこまで追いつめられることはなかったし、日本人の将兵が死ぬこともなかったし、もしかすると大東亜戦争の開戦すらなかったかもしれないのです。
この「かもしれない」と書くと「歴史にIFは禁物」という言葉が返ってきそうですが、その「歴史にIFは禁物」という言葉自体が、戦後左翼のバラまいた虚飾です。
歴史は、過去を学び、それを現代に活かし、未来を築くために学ぶものです。ならば、「もしあのときこうしていたら、その後の歴史はどのようになっていたであろうか」とあれこれ想像してみるところに、歴史を学ぶ意義があることになります。あたりまえのことです。
日本人は、古来、人が人を殺すということを「穢れ」として忌み嫌ってきました。
そんなことはない。戦国時代があったではないかという人がいるかもしれません。けれど、その戦国時代においてすら、罪を憎んで人を憎まずだったのが日本人です。
戦いが済めば、敵味方とも遺体を丁寧に埋葬し、両軍の兵士をしっかりと弔っています。戦いの理由も、その多くは戦のない国をつくるため、民の安全を図るためです。単純に領土的野心のために兵を起こし、庶民まで虐殺するという歴史は、日本にはありません。
また十一世紀最大の暴君といわれる平清盛でさえ、女性たちの献言をいれ、源氏の嫡子たちを殺害せず流刑にしています。このため後年頼朝や義経が挙兵して平家は倒されますが、熾烈を極めたとされる平家の落人狩りにしても、ウワサだけは熾烈を極めたものの、実体はそれほどまでの追跡はされず、ために現代社会においてまで平家の家系に連なるという家はたくさんあります。
縄文時代は日本で約1万7000年というとほうもない長い期間続いた文化文明ですが、全国に数万カ所ある縄文時代の遺跡から、すでに数百万点の遺物が発掘されているけれど、いまだに対人用の武器は見つかっていません。これはつまり、日本人は縄文の昔から、戦うことよりも作ること、殺すことよりも和して協力することを選択し続けてきた民族である、ということです。
武家は刀を大切なもの、自己の命としましたが、戦いのためなら刀よりも槍や長刀のほうが、柄が長い分だけはるかに有利です。にもかかわらず武士が刀を魂として大切にしたのは、その刀が、いざというときに相手ではなく、自分の命を奪うものだからです。
ですから逆にいえば、日本人が武器を手にして「戦う」というときというのは、よほど追いつめられたとき以外にはありません。我慢して我慢して我慢しぬいて、どうしようもなくなったとき、初めて剣を抜く。その「我慢」という自己との戦いが、日本人にとっての究極の戦いです。
このメルマガで、通州事件の悲惨さを伝える記事を何度かアップさせていただいていますが、そうした史実を目の前に突きつけられてさえ、「だから復讐しよう」などとは誰も考えず、むしろ、二度とそうした悲惨さに遭わないために、我々はこれからどうしたら良いのだ、という、むしろ建設的なものの考え方を自然としてしまう。それが日本人です。
