■5.鉄舟の覚悟
鉄舟は静かに次の間に引き下がり、粛然と控えていた。片岡侍従は、すぐに謝罪するのがよいと勧告したが、鉄舟は頭を振って応じない。
「いや、私には謝罪する筋はござらぬ」
「しかし、陛下が君を倒そうと遊ばされたとき、君が倒れなかったのはよくない」
その言葉に、鉄舟は決然と自説を述べた。
__________
何を言われるか。あのとき私が倒れたら、恐れ多くも私は陛下と相撲をとったことになる。天皇と臣下が相撲(すま)うということは、この上ない不倫である。だから私はどうしても倒れるわけにはいかなかったのだ。
もしまたあの場合、わざと倒れたとしたら、それは君意に迎合する侫人(ねいじん)である。
君は私が体を躱(かわ)したのを悪いといわれるかもしれないが、私の一身は陛下に捧げたものだから負傷などは少しもいとわぬ。
しかし、陛下が酒にお酔いになったあげく拳で臣下の眼玉を砕いたとなったら、陛下は古今希な暴君と呼ばれさせ給わなければなるまい。また、陛下自身、酔いのさめた後に、どれほど後悔遊ばされることか。
陛下が負傷遊ばされたことは千万恐懼に堪えぬが、誠に已むを得ぬ次第である。
君は私のこの微衷(びちゅう、本心)を陛下に申し上げていただきたい。それで陛下が私の措置を悪いと仰せられるなら、私は謹んでこの場で自刃してお詫び申し上げる覚悟でござる。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■6.「私が悪かった」
そこへ別の侍従が来て、「陛下はもうおやすみになったから、とにかく一応は退出されたがいいでしょう」と言ったが、鉄舟は「聖断を仰ぐまでは!」と動こうとしない。
侍従たちは持てあまして、侍従長に報告した。侍従長もやってきて説得したが、鉄舟は頑として受けつけない。
そのうちに天皇は眼を覚まされ、「山岡はどうしたか」とお尋ねになった。
侍従が鉄舟の言い分を奏上すると、天皇はしばらく黙然と考えておられたが、やがて、「私が悪かった。山岡にそう申すがいい」と言われた。
侍従はすぐに鉄舟にその旨を伝えたが、鉄舟は
__________
御聖旨は畏(かしこ)いきわみだが、ただ悪かったとの仰せだけでは、私はこの座を立ちかねます。どうか御実効をお示し下さるようお願い申し上げます。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
と、なお強硬に主張した。
そこで天皇は、「今後、酒と相撲をやめる」と誓われた。鉄舟は感涙にむせんで「聖旨のほど、ありがたく拝承し奉る」と言上して退出した。夜はもはや明けなんとしていた。
鉄舟はそれから一向に出仕しなくなった。侍従を差し向けて、出仕を促しても、ひたすら謹慎中と称して出仕しなかった。
一ヶ月ほど経ったある日、山岡は突然出仕し、御前へ伺候して葡萄酒一ダースを献上した。「もう飲んでもよいか!」と、天皇は非常なお喜びで、鉄舟の面前で早速、その葡萄酒を召し上がったという。
その後も、天皇の鉄舟に対する信任は厚かった。明治15(1882)年、47歳の時、西郷と約束した10年が経ってので、鉄舟は宮内省を辞した。しかし、その後も明治天皇の特別な思し召しで、生涯宮内省御用掛を仰せつけられている。
この10年間、鉄舟の禅と剣で鍛えた人格は、若き明治天皇に多大な人格的影響を与えたものと思われる。
■7.臣下の公、天皇の公
特に、この時の体験で、若き明治天皇は鉄舟から「公私の分別」を学ばれたのではないか、と想像する。
鉄舟は「私の一身は陛下に捧げたものだから負傷などは少しもいとわぬ」と言って、負傷という「私事」にはまったく構わない。
ただ、陛下が「古今希な暴君」と呼ばれるようになっては、侍従としての公の使命が果たせない。明治天皇から体をかわしたのは、あくまでも公的な使命のためで、自分の体を護ろうという私心からではないことを、鉄舟は明らかにした。
侍従から、この鉄舟の言い分を聞かれて、若き明治天皇はご自分のとっての公私とは何かを深く考えられたであろう。
侍従たちと酒を飲んで歓談するのは、君主にも許される「私」である。しかし、酒に酔って議論に負けたのを怒って、侍従の眼を砕いたとすれば、それは国民の信頼を裏切り、君主としての「公」をないがしろにする行為である。
わが国における君主とは、国家を私有財産のごとく見なして好き勝手に振る舞って良いという私的な存在ではない。ひたすらに民の安寧を祈るという公的な使命を持っている。
この点を「知らす」と「うしは(領)く」という言葉で、明らかにしたのが、大日本帝国憲法と教育勅語の起草に参画した井上毅であった。[c,d,e]
「うしはく」とは、君主が土地や人民を私有財産として領有し、権力を振るうことだ。一方、「知らす」とは天皇が鏡のような無私の御心に国民の思いを映し、その安寧を神に祈る、ということであった。
明治天皇は、天皇としての最も大切な「公私の分別」をこのような体験を通じて学ばれていったのだろう。
■8.ひたすらに国と国民を思われる御心が支えた日本の躍進
その後の明治天皇は、その長き御一生の間、ひたすらに国のため、国民のために御心を砕かれた。その一端が日露戦争時の御歌に窺われる。
寝覚めしてまづこそ思へつはもの(兵士)のたむろ(集まっている所)の寒さいかがあらむと
目が覚めて、朝の寒さにまず気づかわれるのは、満洲の地での兵士らの宿営の寒さであった。
いたで(戦傷)おふ人のみとりに心せよにはかに風のさむくなりぬる
風が寒くなると、即座に思われるのは、戦傷をおった兵士らの看取り、看病であった。
明治天皇は生涯で9万3千余首の御製(御歌)を残されたと言われているが、日露戦争が勃発した明治37(1904)年だけで7,526首。一日20首以上も詠まれた。
それは、朝目覚めては兵士等の寒さを思いやり、風が急に寒くなっては傷病兵らの看護を気遣うという日々だったのである。
日露戦争は明治日本が臨んだ最大の国難であったが、明治天皇のひたすらに国と国民を思われる御心が、政治家や軍幹部を通じて、将兵、国民の間に広く伝わり、それが国民一丸となって国を護ろうとする気概に繋がったのだろう。その気概なければ、わが国は日露戦争に敗北し、ポーランドやフィンランドのように、ロシアの属国になっていたに違いない。
明治天皇が御一代の間に、「その国民ならびに世界人類のため、かく宏大にしてかつその必要かくべからざる進歩発展を成就し給いたる」と英国議会で称賛される業績を上げられた一因は、若き頃に山岡鉄舟のような偉大な人物の薫陶を受け、君主としての公的な使命を深く自覚された所にあると考える。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(267) 変革の指導者・明治天皇 ~ ミカドから立憲君主へ
崩御された明治天皇を世界のマスコミは日本の急速な変革の中心者として称賛した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h14/jog267.html
b. JOG(772) 国史百景(1) ~ 山岡鉄舟と西郷隆盛
「生命もいらぬ、//
鉄舟は静かに次の間に引き下がり、粛然と控えていた。片岡侍従は、すぐに謝罪するのがよいと勧告したが、鉄舟は頭を振って応じない。
「いや、私には謝罪する筋はござらぬ」
「しかし、陛下が君を倒そうと遊ばされたとき、君が倒れなかったのはよくない」
その言葉に、鉄舟は決然と自説を述べた。
__________
何を言われるか。あのとき私が倒れたら、恐れ多くも私は陛下と相撲をとったことになる。天皇と臣下が相撲(すま)うということは、この上ない不倫である。だから私はどうしても倒れるわけにはいかなかったのだ。
もしまたあの場合、わざと倒れたとしたら、それは君意に迎合する侫人(ねいじん)である。
君は私が体を躱(かわ)したのを悪いといわれるかもしれないが、私の一身は陛下に捧げたものだから負傷などは少しもいとわぬ。
しかし、陛下が酒にお酔いになったあげく拳で臣下の眼玉を砕いたとなったら、陛下は古今希な暴君と呼ばれさせ給わなければなるまい。また、陛下自身、酔いのさめた後に、どれほど後悔遊ばされることか。
陛下が負傷遊ばされたことは千万恐懼に堪えぬが、誠に已むを得ぬ次第である。
君は私のこの微衷(びちゅう、本心)を陛下に申し上げていただきたい。それで陛下が私の措置を悪いと仰せられるなら、私は謹んでこの場で自刃してお詫び申し上げる覚悟でござる。
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■6.「私が悪かった」
そこへ別の侍従が来て、「陛下はもうおやすみになったから、とにかく一応は退出されたがいいでしょう」と言ったが、鉄舟は「聖断を仰ぐまでは!」と動こうとしない。
侍従たちは持てあまして、侍従長に報告した。侍従長もやってきて説得したが、鉄舟は頑として受けつけない。
そのうちに天皇は眼を覚まされ、「山岡はどうしたか」とお尋ねになった。
侍従が鉄舟の言い分を奏上すると、天皇はしばらく黙然と考えておられたが、やがて、「私が悪かった。山岡にそう申すがいい」と言われた。
侍従はすぐに鉄舟にその旨を伝えたが、鉄舟は
__________
御聖旨は畏(かしこ)いきわみだが、ただ悪かったとの仰せだけでは、私はこの座を立ちかねます。どうか御実効をお示し下さるようお願い申し上げます。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
と、なお強硬に主張した。
そこで天皇は、「今後、酒と相撲をやめる」と誓われた。鉄舟は感涙にむせんで「聖旨のほど、ありがたく拝承し奉る」と言上して退出した。夜はもはや明けなんとしていた。
鉄舟はそれから一向に出仕しなくなった。侍従を差し向けて、出仕を促しても、ひたすら謹慎中と称して出仕しなかった。
一ヶ月ほど経ったある日、山岡は突然出仕し、御前へ伺候して葡萄酒一ダースを献上した。「もう飲んでもよいか!」と、天皇は非常なお喜びで、鉄舟の面前で早速、その葡萄酒を召し上がったという。
その後も、天皇の鉄舟に対する信任は厚かった。明治15(1882)年、47歳の時、西郷と約束した10年が経ってので、鉄舟は宮内省を辞した。しかし、その後も明治天皇の特別な思し召しで、生涯宮内省御用掛を仰せつけられている。
この10年間、鉄舟の禅と剣で鍛えた人格は、若き明治天皇に多大な人格的影響を与えたものと思われる。
■7.臣下の公、天皇の公
特に、この時の体験で、若き明治天皇は鉄舟から「公私の分別」を学ばれたのではないか、と想像する。
鉄舟は「私の一身は陛下に捧げたものだから負傷などは少しもいとわぬ」と言って、負傷という「私事」にはまったく構わない。
ただ、陛下が「古今希な暴君」と呼ばれるようになっては、侍従としての公の使命が果たせない。明治天皇から体をかわしたのは、あくまでも公的な使命のためで、自分の体を護ろうという私心からではないことを、鉄舟は明らかにした。
侍従から、この鉄舟の言い分を聞かれて、若き明治天皇はご自分のとっての公私とは何かを深く考えられたであろう。
侍従たちと酒を飲んで歓談するのは、君主にも許される「私」である。しかし、酒に酔って議論に負けたのを怒って、侍従の眼を砕いたとすれば、それは国民の信頼を裏切り、君主としての「公」をないがしろにする行為である。
わが国における君主とは、国家を私有財産のごとく見なして好き勝手に振る舞って良いという私的な存在ではない。ひたすらに民の安寧を祈るという公的な使命を持っている。
この点を「知らす」と「うしは(領)く」という言葉で、明らかにしたのが、大日本帝国憲法と教育勅語の起草に参画した井上毅であった。[c,d,e]
「うしはく」とは、君主が土地や人民を私有財産として領有し、権力を振るうことだ。一方、「知らす」とは天皇が鏡のような無私の御心に国民の思いを映し、その安寧を神に祈る、ということであった。
明治天皇は、天皇としての最も大切な「公私の分別」をこのような体験を通じて学ばれていったのだろう。
■8.ひたすらに国と国民を思われる御心が支えた日本の躍進
その後の明治天皇は、その長き御一生の間、ひたすらに国のため、国民のために御心を砕かれた。その一端が日露戦争時の御歌に窺われる。
寝覚めしてまづこそ思へつはもの(兵士)のたむろ(集まっている所)の寒さいかがあらむと
目が覚めて、朝の寒さにまず気づかわれるのは、満洲の地での兵士らの宿営の寒さであった。
いたで(戦傷)おふ人のみとりに心せよにはかに風のさむくなりぬる
風が寒くなると、即座に思われるのは、戦傷をおった兵士らの看取り、看病であった。
明治天皇は生涯で9万3千余首の御製(御歌)を残されたと言われているが、日露戦争が勃発した明治37(1904)年だけで7,526首。一日20首以上も詠まれた。
それは、朝目覚めては兵士等の寒さを思いやり、風が急に寒くなっては傷病兵らの看護を気遣うという日々だったのである。
日露戦争は明治日本が臨んだ最大の国難であったが、明治天皇のひたすらに国と国民を思われる御心が、政治家や軍幹部を通じて、将兵、国民の間に広く伝わり、それが国民一丸となって国を護ろうとする気概に繋がったのだろう。その気概なければ、わが国は日露戦争に敗北し、ポーランドやフィンランドのように、ロシアの属国になっていたに違いない。
明治天皇が御一代の間に、「その国民ならびに世界人類のため、かく宏大にしてかつその必要かくべからざる進歩発展を成就し給いたる」と英国議会で称賛される業績を上げられた一因は、若き頃に山岡鉄舟のような偉大な人物の薫陶を受け、君主としての公的な使命を深く自覚された所にあると考える。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(267) 変革の指導者・明治天皇 ~ ミカドから立憲君主へ
崩御された明治天皇を世界のマスコミは日本の急速な変革の中心者として称賛した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h14/jog267.html
b. JOG(772) 国史百景(1) ~ 山岡鉄舟と西郷隆盛
「生命もいらぬ、//