■6.「情において到底忍びがたいものがございます」

 必死に日本の将来を思い、道理を説く山岡の一言は、西郷の胸を貫いた。「先生がわざわざおいで下さったお陰で江戸の事情もよく判り申した。ご趣旨を大総督宮に言上しますから、しばらくここでご休息ください」と言って、出ていった。

 やがて西郷は戻ってきて、大総督宮からの申し付けとして五箇条の条件を記した書類を渡した。

 一、城を明け渡すこと
 一、城中の人数を向島へ移すこと
 一、兵器を渡すこと
 一、軍艦を渡すこと
 一、徳川慶喜を備前へ預けること

 山岡は4箇条には異存はないが、「慶喜を備前に預ける」という条は承服できないと言い切った。西郷は「朝命ですぞ!」と語気強く憤った。たいていの者なら、西郷の爛々たる巨眼に見据えられて、居すくんでしまったろうが、剣と禅で心を練ってきた山岡は微動だにしない。

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 それならば先生! 先生と私と立場をかえてお考え下さい。先生のご主人島津公が、もし誤って朝敵の汚名をきせられ、官軍が城下まで攻め寄せてくるというとき、このような朝命が下ったとしたら、先生は唯々諾々として、その命に服して島津公を他家に預けて平然としておられましょうか。

君臣の情というものを、先生はどうお考えでしょうか。私には情において到底忍びがたいものがございます。
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■7.「先生が死ぬつもりで来られたことは、おいどんにはよくわかり申す」

 山岡がこう急所をつくてと、西郷はしばし黙然としていたが、ややあってから決然としていった。

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 わかりました。先生のお説は至極ごもっともでごわす。徳川慶喜どののことは、吉之助一身に引き受け申した。先生、必ず心痛無用でござる。
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 西郷の一言は、泰山のような重みがあった。山岡は喜びの色を表して、「その点さえご承知下らば、他の条々は決して違背致しませぬ。鉄太郎、つつしんでお受け致します」と応えた。

 西郷は、つと進んで山岡を抱きかかえるようにして背を叩きながら、しんみりとささやいた。

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 虎穴に入って虎児を探るというが、先生が死ぬつもりで来られたことは、おいどんにはよくわかり申す。けれども一国の存亡は先生の双肩にかかっておりますぞ。どうか生命を粗末にせず、自重して下さい。
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 こうして両雄の誓約は成立した。両者はくつろいで、西郷が江戸からはどのようにやってきたかと問うと、山岡は「歩いてやってきましたが、たくさんの兵隊が並んでいて、なかなか立派でした」と答えた。

 さすがの西郷もいささか呆れたが、官軍の陣営を破って来られた以上、捕縛しなければならないが、「先生は強そうだから、一つ酔わせておいて縛りましょうか。ハッハッハッ。まあ一杯やりましょう」と酒を酌み交わした。


■8.「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ」

 こうして両雄の盟約により、官軍による江戸攻撃は避けることができた。このまま官軍が江戸に押し寄せたら、官軍と幕府軍との内戦で江戸は火の海になり、外国勢力の介入を許す隙を作って、わが国の独立を危うくしたであろう。両雄の心中に共有されていたのは「日本の将来」であった。

 3月13日、勝海舟と西郷が芝高輪の薩摩屋敷で会見した。用談の後、勝は近くの愛宕山に西郷を連れ出した。

 戦火から救うことのできた江戸の街を一望しながら、西郷は感無量の体で溜め息をついた。「さすがは徳川公だけあって、エライ宝をお持ちだ」と言った。どんな宝かと勝が聞くと、「いや、山岡さんのことです」と言って、こう語った。

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 イヤ生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、但(ただ)しあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓うわけに/