

















日本の心を伝える会
メールマガジンNo.605
2012/11/3









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■□【1】天皇の料理番(1/2)
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「天皇(陛下)の料理番」と言われた、秋山篤蔵の話です。
昭和五十五年(1980年)に「天皇の料理番」という連続TVドラマがありました。
福井県に生まれた一悪ガキ小僧が、天皇陛下の料理長になるまでの話を、笑い/涙/ドタバタありの演出で仕上げたものです。
境正章扮する「秋山篤蔵」が料理/調理に目覚め、宮中の料理長になる迄の物語です。平成二十一年(2009年)と今年の十月(2014年)に再放送されましたので、観た方も多いと思います。
因に、修業時代の仲間、辰吉役の明石家さんまは、役者として全国に知られるようにもなりました。故渥美清の語り口も、視聴者の心に響いたようです。
原作は、杉森久英著の「天皇の料理番」です。TVドラマと原作とでは、多少なりとも内容が違っていますが視聴者のあることですので、いたしかたがなかったのでしょう。
日露戦争の最中、福井県から信玄袋ひとつを持って、東京へ出て来た少年がいました。カツレツの味に魅せられ、好きでたまらなくなった料理作りに生涯をこめて突進し、努力と経験によって得た知識で、ついには<天皇のコック長>宮内省大膳職主厨長(料理長)を務めた秋山篤蔵の青年期から主厨長期を描いた物語です。
ドラマでは、関東大震災/二・二六事件/太平洋戦争など実際の映像が放映され、時代背景を織り交ぜています。 最終回では、本編の最後に秋山篤蔵本人の墓が映し出され、故人を偲んでいます。
簡単な彼の略歴です。
明治二十一年(1888年)八月三十日、福井県南条郡武生町(現・越前市)高森家に生まれる。旧姓は高森。幼少期に禅寺に修行に出される。大正二年(1913年)秋山俊子(TV番組では、壇ふみが演じました)と結婚、秋山家へ入籍して秋山姓となる。
華族会館、駐日ブラジル公使館、築地精養軒の料理長を歴任。明治四十二年(1909年)から本格的な西洋料理修行のためフランスに渡航。
帰国後、東京倶楽部を経て大正二年(1913年)から宮内省大膳職主厨長を務め「天皇の料理番」と通称される。
昭和四十八年(1973年)に勲三等瑞宝章受章。フランス料理アカデミー名誉会員。昭和四十九年(1974年)七月、八十五歳没。
篤蔵がドラマの中で最初に修業を始めたのが、「華族会館」です。「華族会館」とは、宮内省に払い下げられた「鹿鳴館」のことです。
華族のための社交の場として、「鹿鳴館」をリニューアルしたのが「華族会館」です。明治維新とともに、国民/政府を挙げての文明開化に明け暮れる日々。
「鹿鳴館」での催しは、不格好な洋風の物真似との悪評をうけ、わずか三年で幕を閉じました。
「鹿鳴館」が「華族会館」に衣替えし、オランダ大使館の料理人であった渡辺謙吉が、初代料理長になりました。当時の日本人は、たいてい欧米崇拝に陥っており、欧米の食事は、古くから近代化されていたものと錯覚していたのです。実際には、明治期よりわずか百数十年ほど前迄は、欧米ではナイフもフォークもない手づかみの不作法ぶりであったのです。
当時の日本で、西洋料理を嗜む時の話です。テーブルマナーが解らずナイフとフォークを使う時には、まさに決死の勇気が必要でした。箸がないために使ったナイフとフォークで口の中を切り、血だらけになっての悪戦苦闘です。
スープの飲み方もわからないので、平皿を手に持ち、みそ汁のように皿から直接吸った所、胸から膝にかけて熱いスープを浴びてしまう。ナイフに肉片を指したまま口の中で頬張り、ナイフを引き抜いた時、唇を切って血を流すなどの珍事が毎日のように繰り広げられていたのです。
ドラマの中で「華族会館」の料理長を務め、後に築地精養軒のグランシェフになった財津一郎演ずる宇佐美シェフは、西尾益吉1)をモデルにしているといわれています。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/n412493/kit/art/nishio.html
西尾はフランスへ留学し、フランス料理の最高峰「ホテルリッツ」で、エスコフィエから料理を学びました。帰国後、彼は築地精養軒の四代目シェフとなります。その精養軒時代の弟子が、秋山篤蔵です。
秋山篤蔵が活躍した大正初年から昭和初期にかけては、日本の西洋料理がようやく花開いてきた、いわば成熟の時でもありました。
篤蔵も、フランスへ料理の修行に行きます。フランス人から日常的に行われる差別と侮辱のにもへこたれず、パリや南仏のホテル・レストランで修行したのです。
その間、「フランス料理の王様」と呼ばれた、エスコフィエとも面会。当時、エスコフィエは、近代フランス料理の技術と理論を確立した名料理人として、すでに世界的名な名声を博していたのです。彼の確立した技術と理論は『ル・ギード・キュリネール(料理解説書)』にまとめられ、戦前戦後を通じて日本のフランス料理人が、その原点に絶えず立ち返るバイブルとなり必携書となっています。
彼から大きな影響を受けた篤蔵は、自分の全知識を、後年「仏蘭西料理全書」として、大正十二年(1924年)にまとめあげたのです。
1652ページにも及ぶ大著は、専門書として我が国の西洋料理界に大きく貢献しています。
エスコフィエの教えを受けた秋山は、フランス料理の芸術性を感得し、オードブルからメイン、デザートに至るまでの完璧性とその真髄である料理の香りを重視するという基礎を徹底的に学びました。
明治四十年(1907年)頃に直接フランスに渡って修業した人々(精養軒の西尾益吉、東洋軒の林玉三郎など)が持ち帰ったエスコフィエの仕事も、この時代になってようやく、新しい料理を積極的に取り入れようとする宮内省の料理人たちによって、日本の西洋料理の本流となりました。
篤蔵はパリ滞在中に、宮内省の大膳科取り仕切る料理人を探していた宮内省のお眼鏡にかない、帰国しました。このとき秋山は、若干25歳であったのです。やがて、宮内省大膳職主厨長として、「天皇の料理番」を勤めることになりました。
宮内省で天皇陛下主催の祝宴が行われる時には篤蔵がメニューを作り、その調理には、当時名だたる西洋料理店であった中央亭、宝亭、富士見軒、精養軒、東洋軒などから選ばれた料理長が当たりました。これらの料理店は、大正・昭和を通じて名料理人の登竜門といわれた名店です。
料理界に睨みをきかせた篤蔵は、「料理の神様」として日本におけるフランス料理人の大きな目標であり牽引車になっていたのです。
小柄の彼は、穏やかな物腰ながら眼光は鋭く、仕事に対する誇りは強烈なものがありました。他方では下の者の意見にも耳を傾け、自分から頭を下げる事もあったといいます。後に「天皇の料理長」になった谷部金次郎も、『自分から頭を下げる主厨長に恐縮したことがあった』と述べています。
因に、谷部金次郎は、昭和天皇陛下の最後の食事を作った料理人です。篤蔵の跡を継いだ、中島伝次郎の同僚、渡辺誠は、「昭和天皇のお食事」(文春文庫)の書籍をのこしています。
これによると、皇室で作られる料理の厳しさは想像以上であったようです。贅沢な素材を使っているのではなく、その作り方があまりにも贅沢であったのです。
例えば、すべて同じ大きさで切らなければならないため、野菜は真ん中の部分しか使用しない。すべて同じ食感が求められるため、同じ食感になるよう厚みをその都度変えるなど、技の贅沢のオンパレードなのです。
そして、これが日本人の料理の真髄なのだなと結んでいます。
篤蔵は、料理一辺倒の頑固者と思われるかもしれませんが、彼には茶目っ気もあったようです。本人著の_「舌」では、「食べるとあっちが元気になる料理」、滋養強壮の話が沢山出てきます。
