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日本の心を伝える会
メールマガジンNo.595
 2012/10/13

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■□【1】大和からのメッセージ(1/2)
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今日は、大和の出撃には、後世に残すものすごく大きなメッセージが込められていたのではないか、というお話をしてみたいと思います。よく、古代の遺跡などに隠された「暗号」みたいなヤツです。

考えてみれば、ねず一等兵が、銃剣振りかざして敵陣に単身で突きかかって撃たれて死ぬ、というのと、戦艦大和という世界最大のバトルシップが片道切符で突撃するのとでは、そこに込められたメッセージ性は、天地ほどの開きがあります。しかも艦長は航空機による戦艦攻撃のプロなのです。

その意味を、考えないプロはいない、というです。

一時的には、もちろん勝った勝ったと大喜びでしょう。世界最大級の戦艦を沈めたとなれば、そりゃ嬉しいことでしょう。けれど、倒した者の熱に浮かされたような狂喜が過ぎ去り、破れた者の悲しみにも、ある一定の時が経ち、両当事者が、互いに事実を冷静にみたり考えたりできるようになったとき、あるいはその当時においても物事を冷静にみれる人にとって、大和出撃の意味や意図を必ず考える人が出て来る。

大和の出撃は、そんな日のためにあったのではないか。そんなふうに思うのです。

よく「戦艦大和は、航空機によって沈められた。時代は航空機主体の時代に変わっていたのに、日本は空母を作らず大艦巨砲主義で、ために巨大戦艦である大和を作り、結局、米航空隊によって大和は沈められた」などという人がいます。

実はかくいう私自身が、学生時代、学校の先生から、そう教わりました。そしてこのお話には、だから「要するに大本営がアホだったのだ」というオチがつきます。

けれどそうなんでしょうか。そんなに簡単なことなのでしょうか。

「時代が変わっていたのだ」といいますが、そもそも世界で最初に航空機で戦艦を沈めたのは、日本なのです。真珠湾のことを言っているのではありません。マレー沖海戦です。しかも当時の士官学校卒のひとたちの優秀さといったら、現代社会では比類できるひとがいないくらいです。


マレー沖海戦は、大東亜戦争開戦の2日後である昭和16(1941)年12月10日、マレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)と英国東洋艦隊との間で行われた戦闘です。

この戦闘で、日本軍は航空兵力をもって、英国海軍が東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈しました。

飛行機で戦艦を沈めた先例としては、他にタラント空襲、真珠湾空襲などがあるのだけれど、それらはいずれも「停泊中の艦船を飛行機で沈めた」戦いです。いってみれば、スイッチを切った状態の戦艦を航空機で叩いたわけで、スイッチが入った状態、つまり作戦行動中の戦艦を航空機で沈めたのは、これが世界初のできごとです。それまでの世界の常識は「不可能」というものだったのです。

ちなみに、現代までの世界の戦史において、航空部隊が作戦行動中の戦艦を沈めた事例は、このマレー沖海戦と、終戦間際に圧倒的な航空機をもって沈められた戦艦大和(昭和20年4月7日)、同様に大多数の航空機をもって沈められた武蔵(昭和19年10月24日)の3例しかありません。

言い換えれば、戦艦(バトル・シップ)というものは、それだけ強力かつ圧倒的な存在なのです。

まして、マレー沖海戦が、世界で最初に戦艦を航空機で叩くという作戦だったということは、前例のない不可能への挑戦だったということであり、何事も、はじめてのことというのは、たいへんな緊張と決断力をようすることということを考えあわせれば、日本が、どれだけ凄かったかがわかろうというものです。

そもそも、マレー沖海戦は、日本がシンガポール上陸作戦を実施する上での海上補給路を確保するために、どうしても勝たなければならない戦闘でした。勝って制海権を確保しなければ、マレー半島に進出した日本陸軍への補給ができず、日本は、何万という将兵を孤立させてしまうのです。だから、なにがなんでも勝たなければならない。

一方、英国軍にしてみれば、日本を追いつめ、開戦に踏み切らせたわけですから、すでに何ヶ月も前から日本がやってくることを見越して、準備万端整えて、日本軍を待ち受けています。マレーの海域で、英国海軍は、100%確実に勝利できる体制をひいていたのです。

開戦の6日前の12月2日に、英国の誇る最新鋭の巨大不沈戦艦である「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦レパルス、その他駆逐艦4隻からなるG艦隊をシンガポールのセレター軍港に入港しました。

旗艦であるプリンス・オブ・ウェールズは、14インチ(35.56cm)砲を10門装備した巨大戦艦です。搭載する対空砲はポムポム砲と呼ばれ、1分間に6000発もの弾丸を発射するというすさまじいものです。

プリンス・オブ・ウェールズのこの対空装備は、英国が2年前のヨーロッパ戦線で、ドイツ・イタリアの航空機に空襲された際の経験から装備されたもので、いかなる航空機であれ、すべて撃ち落とすことができるだけの訓練も十分に積まれていたのです。

そしてこの大英帝国誇る巨大不沈戦艦は、当時の国王ジョージ6世の兄王である、エドワード8世の即位前の王太子プリンス・オブ・ウェールズの名前を冠していたのです。いかに英国がこの戦艦に自信をみなぎらせていたかがわかります。

英国艦隊のもうひとつの戦艦レパルスも、建造年月はウエールズより古いものの、装備はウエールズと同じです。それまで航空機による爆撃を完全に撃破してきている経験豊富な戦艦です。

そして英国東洋艦隊司令長官は、実戦経験の豊富な英国の誇る最強の士官、トーマス・フィリップス海軍大将です。英国は、日本のマレー上陸部隊の輸送船団を攻撃するために「Z部隊」を編成し、12月8日17時過ぎに、全艦シンガポールを出撃しました。まさに最強の布陣です。

これに対し、日本が対抗して派遣できたのは、金剛と榛名の二隻です。両艦とも近代化の改装こそ受けていたものの、艦齢は27年。兵装・装甲の厚さも巡洋艦程度の実力しかありません。

これはどういうことかというと、陸上にたとえれば、爆走する大型ダンプの集団に、たった二台の原チャリで棍棒持って挑むようなものなのです。普通に考えたら、無茶としかいいようがないのだけれど、日本海軍というのは、そういう戦いでもかつての日清、日露で勝利したという実績を持つ軍隊です。決して侮れない。だからこそ、英艦隊は必勝の布陣を敷いたのです。

一方日本は、英艦隊に敗れれば、シンガポール攻略を図る日本陸軍への支援を絶たれ、下手をすれば全滅の憂き目を持ちます。マレー沖海戦は、それだけ重要な海戦なのです。にもかかわらず、さける艦船は、金剛と榛名しかない。

しかも事前の情報によって、日本は、英艦隊が、世界最強戦艦のウエールズまで投入していることを掌握しています。それでも勝たなきゃならない。そういう状況にあったのです。

英国艦隊出撃す。この情報をもとに、日本はサイゴン(いまのホーチミン)にある航空基地から、航空機(九六式陸攻59機、一式陸攻26機、計85機)を出撃させます。

後の坊ノ岬海戦(大和)、レイテ沖海戦(武蔵)のときのような何百という航空機部隊ではありません。数の上でもごく少数です。しかも航空期部隊は、それぞれに散開し、全機が殺到できるわけでもない。

そうしてはじまったのが、マレー沖海戦です。