

















日本の心を伝える会
メールマガジンNo.590
2012/10/6









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■□【1】日本とパラオ 歴史を越えた友情(3/3)
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※昨日からの続き
パラオについて、読者のNさんから、次のようなお便りをいただきました。
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最近あまりいい話がないと思いますので溜飲をさげる意味ということで、私がパラオ共和国に行ったときのお話しをしようと思います。
今から3年ほど前に新婚旅行でパラオ共和国に行ってきました。12月の中旬に成田からグァムへ行き、そこから乗り換えてパラオに着いたときは夜の8時過ぎでした。空港から出てバスに乗るとパラオの国旗の隣に日の丸が掲げられていました。
日中、観光でバスに揺られながらあちこちを廻ると、島と島を繋ぐ道路に必ず日の丸が刻まれたモニュメントがありました。それらを見る限り日本のODAが如何に正しく使われているかがよくわかります。街のあちらこちらにも日の丸が掲げられていました。
夜家内と外に食事をしましたが、いまいち食べ足りないと思い、散歩だてらに中心街を散策していると(中心街と言っても500mくらいのメインストリート)広い駐車場にハンバーガーの屋台があったので、早速注文をしてできたてのバーガーを家内とほうばりながら食べていると、さっきまで駐車場でギターの弾き語りをしていた初老の老人が近づいてきて
「君たちは日本人か?」と聞かれたので、イエスと答え新婚旅行で来たと家内が伝えると、老人は大粒の涙を流しながら私の肩を抱きました。
そのとき老人が言ったことは家内が言うに
「日本の人がこの国に来てくれて本当に嬉しい。ハネムーンの行き先にここを選んでくれて本当にありがとう」と言ってくれたそうです。
この出来事でパラオの人々が如何に日本の人たちに対して特別なものを持っているかよくわかりました。
私たちの血税がこういう風に役に立っているということを実感するためだけでもパラオには来る価値が十分すぎるほどあります。子供が大きくなったら後学のためにももう一度パラオに行こうと細々と貯金をしています。
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このメールと一緒に、Nさんが、下の2枚の写真を送って下さいました。
海に沈むゼロ戦
http://blog-imgs-46-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/20110613191135564.jpg
旧日本軍のトロッコ跡
http://blog-imgs-46-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/20110613191207414.jpg
上の写真は、島に散ったゼロ戦です。忘れてはならないのは、このゼロ戦に、日本海軍の優秀なパイロットが乗っていた、ということです。そのパイロットの命とともに、ここにゼロ戦が、当時のままに眠っている。
もうひとつのトロッコ跡は、ここで日本の軍人さんたちが、銅などの採掘していたときのものです。
すこし、パラオのことを書きます。
パラオが、白人の植民地となったのは、明治18(1885)年のことでした。スペインが植民地として支配したのです。
スペインの統治は、たいへん過酷なものでした。スペインによる統治は、明治32(1899)年に、ドイツの植民地になるまでのわずか14年ほどの間のことです。
けれどたった14年で、パラオの人口は、約90%も減少してしまったのです。
もともと、人口2万人くらいの島国です。そのうちの90%が命を奪われた。それがどういうことか、想像してみてください。
忘れてならないのは、植民地支配を受けた国々では、大なり小なり、同様のことが起きた、という事実です。南米では、文明そのものが滅び、いまでは昔の言語、習慣さえもわからなくなっている。ほんの200年に満たない昔が、まるで超古代文明のように、その痕跡しかなくなっているのです。
米国においても、先住民族であるインデアンが、もともとは北米大陸に800万人の人口があったのに、いまでは、わずか35万人。しかもその全員が、白人との混血です。
「植民地になる」ということは、そういうことなのだ。そのことを、私達はちゃんとわきまえる必要があります。
私達の先人が、日本が植民地とならないために、(なったら10人中9人が殺されるのです)、どれほどの犠牲と努力をはらい、日本を護り抜いてきてくれたか。
そのおかげで、いまの私達が生きています。日本という国があります。平和を満喫し、世界中のおいしい料理を食べることができ、エアコンの効いた部屋で過ごせるという豊かな生活を送ることができています。
それは他の誰でもない。私達の先人たちが、私達を守ってくれたおかげです。
そういうことを、私達は、ちゃんと知らなきゃいけないし、子供達に教えなきゃいけないと思います。
さて、スペイン統治によって、パラオは、人口の9割が失われたパラオは、もともと、産業のある国ではありません。スペインは、もうこれ以上パラオから収奪するものがなにもないとなったとき、わずか450万ドル(日本円で4億円くらい)で、パラオを含むミクロネシアの島々をドイツに売却してしまいました。
買ったドイツは、パラオの原住民を使役して、ココナッツの栽培などにチャレンジするのだけれど、あまり効率はあがらない。
同時に、ドイツもスペイン同様、現地の人々への教育や道路、流通の整備、産業の育成や法や行政諸制度の整備などは、まったく行っていません。
そのドイツが、第一次世界大戦で負けた後、パリ講和会議において国際連盟が結成され、戦勝国である日本が、ドイツ領であったパラオを含むミクロネシアの島々一帯の統治を委ねられることになったのが、大正8(1919)年のことです。
パラオが、日本の「委任統治領」となったのです。
日清、日露を戦い、西欧諸国に匹敵する強国となった日本は、第一次世界大戦のあとに行われたパリ講和会議で、新たに設置される国際連盟の憲章に、「人種の平等」を入れるように提案しました。けれど、これは英米の頑強な抵抗にあって、頓挫してしまいます。
代わりに日本に与えられたのが、ドイツが所有していたパラオを含むミクロネシア一帯の統治です。
これは、ひとつには、日本に資源のないミクロネシアを与えれば、さしもの日本も西欧諸国と一緒になり、植民地支配者としての収奪をはじめるであろう、よしんばそこまでなかったとしても、日本の支配地域を太平洋に大きく張り出させることによって、日本の海軍力を削ぐ効果を生むことができるであろうという見通しのもとに行われたものであったと言われています。
ところが、こうした西欧諸国の企図とは裏腹に、なんと日本はパラオ統治の委任を受けるとすぐに、パラオに南洋庁を設置し、パラオに、学校や病院、道路などを建設をはじめ、地元民の教育と、行政制度の確立、街のインフラの整備と産業振興をはじめたのです。
それまでの世界の委任統治というものは、収奪するだけのものです。ところが日本は「奪う統治」ではなく「与える統治」をはじめました。
その結果がどうなったかというと、日本が委任統治を開始した頃の、パラオの先住民の人口は、わずか6,474人です。それが、いまやパラオは、人口20,303人(2005年)、なんと人口が3倍にも増えたのです。
当時、パラオに新しくできた学校には、若き日の中島敦も赴任しました。中島敦といえば、「山月記」や、「李陵、弟子、名人伝」の著作で有名です。彼の文章は、漢語体のいわゆる名文調で、この世でもっとも美しい文章を書く人とまでいわれ、絶賛を浴びた人です。




