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日本の心を伝える会
メールマガジンNo.550
 2012/7/28

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■□【1】永野修身元帥(1/2)
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※昨日からの続き


最終的には、山本五十六らが「太平洋に出て行くという作戦が通らなければ連合艦隊司令部一同が総辞職する」と永野に詰め寄り、結果とし永野も折れました。けれど彼は、むしろ南方資源地帯の確保と、本土防衛を主軸とした漸減邀撃作戦でいくべきとの考えであったといいます。

このことは、戦争が終わってみての結果論で見れば、永野案の正しさが歴然とします。なぜなら、大東亜戦争において、日本はあまりにも太平洋に戦域を広げすぎていたからです。

「南方資源地帯の確保と陸軍の活動の支援に徹していれば、日本はミッドウエーでの大博打もなく、資源の確保も確実に行え、制空権、制海権を失うこともなく、多くの将兵を飢え死にさせることもなかったのではないか。日本が負けたのは海軍があまりにも戦域を太平洋に広げすぎたためだ」というお話は、旧陸軍の関係者の方々からもよく聞かれることです。

実際に永野は、海戦にも太平洋エリアの広域防衛戦にも明確に反対をしました。けれど彼は、最終的に真珠湾攻撃並びに太平洋の島々への出撃を許可しました。

昭和16(1941)年9月6日、日本は昭和天皇の前で御前会議を開かれました。その席で昭和天皇は、「外交が主か、戦争が主か」と閣僚たちに尋ねられました。

及川海相が「重点は外交にある」と答えました。すると昭和天皇は、懐から紙片を取り出され、御自らお詠みになられました。

よもの海
 みなはらからと思ふ世に
など波風の
 たちさわぐらむ

明治天皇の御製です。
四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟であると思うのに、なぜ争いの波風が起こるのだろうか。

昭和天皇のこのお言葉に、列席した閣僚たちは、全員、ただうなだれるより言葉がなかったといいます。しばらくの間、誰もがうつむいてしまい、言葉を発することができなかったのです。言えないです。

陛下が平和を望むお気持ちを、閣僚たちは全員、痛いほどわかっているのです。
けれど、米国の日本に対する戦争への挑発は、もはや引き返すことのできない所まできている。それでも尚、平和を、和平を、外交による事態の好転をと昭和天皇はもとめられたのです。昭和天皇は、その万感の思いを、明治大帝のお歌に託されたのです。

陛下の前で「それでも戦争せざるをえないです」などと、誰が言えましょう。言おうとしたら、涙がとめどなくあふれてしまう。まともに言葉なんて話せなくなる。このとき、日本を代表する英才であり、すべての情報を知り尽くした日本の最高責任者たちが、陛下の御前で、声もなくうなだれ、涙をこらえるしかなかったのです。日本はそこまで追いつめられていました。

当時の閣僚たちは、いまの内閣のように、昨日までただの市民運動家だった者が、なにかの弾みで大臣や総理になったような人々とは、まるで異なります。申し訳ないが、いまの閣僚たちが、碁に例えるなら、いわば功名心だけのアマチュア棋士なら、当時の閣僚たちは、鍛え上げられた先の先まで読み通す力量を持ったプロの棋士たちです。

とりわけ軍の出身者は、日露戦争、第一次大戦、支那事変等を経由した実戦のプロであり、可愛い部下、愛する部下たちを直接失った悲しみの経験を持つ人たちでもあります。

当時の新聞は、「最早日米開戦止む無し!」「鬼畜米英」「進め!一億火の玉だ」などと特大の見出し文字で無責任に国民世論をあおっていましたが、兵学校から鍛え抜かれた軍人というものは、たいへん教養にあふれ、目先の利益確保などとはほど遠い、深い国家観をお持ちの方々でもありました。

戦うなら、勝たなければなりません。けれど、敵は世界最強の米英です。国力も軍事力も、当時の日本の百倍以上の力を持っている。そういう相手と戦い、日本は勝利を得なければならないのです。その決断をする苦しみと覚悟、幾度も検討を重ねた作戦と、部下を失わなければならない悲しみ、そういう諸々のことと、当時日本の置かれた厳しい現状という狭間の中で、彼らは苦しみ抜いていたのです。

この日、しばしの静寂あと、昭和天皇は海軍軍令部総長の永野修身(ながのおさみ)に発言を求められました。永野はしばしの沈黙のあと、ようやく重い口を開いて、答えました。そのときの言葉です。

~~~~~~~~~
アメリカの主張に屈服するというのは、日本が亡国の憂き目に遭うということです。しかし、戦うのもまた、亡国であるかも知れません。戦わないなら国が滅び、戦ったとしても国は滅びる。

けれど、戦わずに国が滅びるというのは、日本民族が、身も心も永遠に国を失うことになります。もし戦い、護国の精神に徹するなら、たとえ戦いに勝てなかったとしても、祖国を護るという日本精神が残ります。そうすれば、私たちの子孫は、必ず再起し、あるいは三起する。

統帥部としては、もとよりあくまでも外交交渉によって平和的解決を望んでいます。けれどもし、不幸にして開戦と決し、陛下の大命が発せられるようなことになるなら、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟でございます。」

(原文)
政府側陳述によれば、アメリカの主張に屈服すれば亡国必至であるとのことであったが、戦うもまた亡国であるかも知れない。すなわち戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう。統帥部としてはもとより先刻申したとおり、あくまで外交交渉によって目的貫遂を望むものであるが、もし不幸にして開戦と決し大命が発せられるようなことになるならば、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟である。
~~~~~~~~~

当時、日本が欧米列強に呑み込まれる、すなわち戦わず負けることを承諾するということは、日本人全員が、白人の奴隷となることを意味していたのです。そうなれば民族の誇りもなにもあったものではなくなります。

誇りどころか、日本人には一切の私権がなくなり、教育も奪われ、日本人は米英の植民地奴隷に成り下がる。それが当時の「世界の常識」だったのです。

そして永野軍令部総長は、とても大切なことをここで語られています。

それは開戦に先立ち、「たとい戦い勝たずとも、祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう」と述べたことです。ここでいう子孫というのは誰のことでしょう。いまの日本に生きる私たち、ひとりひとりに向けられた言葉です。

大東亜戦争で散華された英霊は236万柱です。なぜ「柱」というのかといえば、散華された英霊の皆様は、日本の神々となられたからです。「柱」というのは神を数える際の数詞です。

そしてその神々は、今を生きる私たちに、「俺たちは祖国を守るために死を選んだ。日本は亡国の危機に陥るかもしれないが、君たちは祖国護持の精神を持ち、必ず再起三起せよ」と語りかけてくれている。そのことを、永野修身の言葉は象徴しているのではないでしょうか。

戦後、東京裁判において永野はA級戦犯とされました。永野は、開戦に反対でした。それは事実です。ですから彼が東京裁判において「自分は当初から反対だった」と証言すれば、それは彼の裁判を、有利なものにする証言となったかもしれません。

けれど彼は、裁判を通じ、そうした「自らにとって有利になる弁明」を一切しませんでした。そればかりか、「真珠湾攻撃の責任の一切は自らにある」と明言しました。戦死した山本らに真珠湾の責任を押しつけるような発言さえも一切しませんでした。