

















日本の心を伝える会
メールマガジンNo.532
2012/7/4









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■□【1】名将山口多聞(3/3)
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※昨日からの続き
さて、開戦から半年後、昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦が起きました。海戦に先立ち、山口は、戦艦大和の艦上で行われた研究会で次のように述べています。
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ミッドウェーは、日米両海軍の決戦場である。そのために、これまでの艦隊編成を抜本的に改め、空母を中心とする機動部隊を編成すべきである。空母の周辺に戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、敵機の襲来に備え、少なくとも三機動部隊を出撃させるなければならない。
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しかし、山口多聞の提案はうやむやされてしまいます。しかもアリューシャン作戦で戦力は分断され、ミッドウェーには真珠湾作戦よりも二隻少ない四隻の空母での出撃となってしまっています。
ミッドウエー海域で、敵の機動部隊接近の報を得た山口は、すぐに各艦の艦載機を発進させるように南雲司令部に進言しました。進言の時点で、各空母の攻撃機はミッドウェー空襲のために、陸用爆弾を抱いて装備していました。
船は魚雷でなくては沈みません。しかし、山口は攻撃機の爆弾を魚雷に変える時間を惜しみます。だからまず、陸用爆弾で敵空母の甲板を破壊して動きを封じ、海戦の主導権を握るべきだと主張しました。
すくなくとも敵空母の甲板に穴が空いたら、敵航空部隊は出撃できないのです。仮に出撃していたとしても、敵航空機は、最早着陸することができない。敵航空機は、燃料切れとともに海に没するしかなくなるのです。
しかし、南雲艦隊司令部は、魚雷による攻撃と、護衛戦闘機の準備ができていない事を理由に、艦載機の発進を見合わせてしまいます。
これが仇になりました。初動対応を遅らせてしまったのです。敵に先手を許してしまう結果となりました。
午前七時すぎ、雲間から突如襲来した敵爆撃機によって、聯合艦隊は、瞬時に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の3空母を失ってしまったのです。
7時10分、三空母が黒煙と焔を噴出したことを知った山口は、搭乗艦の「飛龍」から艦隊司令部に「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と電文を打ちます。「飛龍」は、この時点で、奇跡的に無傷だったのです。
山口は、即座に第一次攻撃隊(艦爆18機、艦戦6)を発進させました。このとき、搭乗員に向かって彼は次のように述べています。「ひとつ体当たりのつもりでやってくれ。俺も後から行く」すでにこの時点で、山口は死を決意していたのです。
第一次攻撃隊を発進させた山口は、護衛艦の到達もまたずに、空母「飛龍」を単独で爆走させました。米空母をめざしたのです。そして進撃しながら、艦隊司令部に「各損害空母には駆逐艦一を付け、主力部隊の方向 に向かわしめられたく」と要請しました。この時点で、これは要請とというより命令です。部下が上司に命令した。
カタチはどうあれ、この時点でもはや他に選択肢はないのです。生き残った聯合艦隊は、飛龍のあとを追います。
9時10分、「飛龍」を発進した第一次攻撃隊が、敵空母「ヨークタウン」を発見しました。敵空母からは、猛烈な対空砲火があったけれど、第一次攻撃隊は砲火をかいくぐって爆弾を投下し、これを命中させた。
10時30分、山口の指揮する「飛龍」は第二次攻撃隊の雷撃機10、 艦戦6を発進させ、同時に第一次攻撃隊を収容します。このとき生還できた機は、発進した24機中、わずか6機でした。いかに激戦であったかがわかります。
11時45分、第二時攻撃隊が敵空母に到達します。そして日頃の訓練の成果を遺憾なく発揮して、魚雷2本を命中させます。
山口は、これで二隻の敵空母をやっつけた、残りは空母一隻と判断します。
けれど実際には、第二次攻撃隊が魚雷を撃ち込んだのは、最初に爆撃を成功させた空母「ヨークタウン」だったのです。つまり、米空母はこの時点で、まだ二隻が無傷でした。
12時20分、山口は、司令官、第三次攻撃の実施を、夕方に延期することを決定します。第二次攻撃隊の被害も大きく、残存の飛行機がほとんど底をついてしまっていたのです。乗員の疲労も極限に達していました。
午後2時、疲れ果てた「飛龍」に、敵爆撃機13機が飛来します。敵は、上空から、太陽を背にして急降下してきた。
このときの「飛龍」艦長、加来止男大佐の操艦は、歴史に残る名操艦といわれています。「敵機来襲!」と絶叫する見張員の声に、即座に回避運動に移り、敵の爆弾をなんと7発まで躱(かわ)してしまったのです。しかしそこまでででした。見張員が叫び声をあげたのが2時1分、そして2分後には4発の爆弾が、「飛龍」に続けざまに命中したのです。
最初の命中弾は、前部の昇降機(飛行機を甲板に上げるエレベーター)にまともに当たりました。昇降機をひきちぎって、空高く放り上げました。そして舞い上がった昇降機が、艦橋の前面に激突します。艦橋は、前面ガラスが粉みじんに割れ、その破片が山口司令官や加来艦長の頭上に降りそそぎました。
このため「飛龍」は、一時的に操艦不能になります。しかしエンジンは動いている。機関部にいた船員たちは、次々と爆弾が着弾する中、必死の努力でエンジンを回し続けたのです。
「飛龍」は、走りつづけます。しかし、機関部に海水が流れ込む。船員たちは、油まみれになって必死の努力で海水を掻い出すのだけれど、日暮れどきになって、ついに「飛龍」はエンジンが停止してしまいます。
海面が静かな月光に照らされていました。海上は、夕凪で、波ひとつない静けさです。その洋上を、「飛龍」が漂う。
浸水がはじまり、艦が左に傾き始めます。深夜になって、艦橋の艦長加来大佐は、側に立つ司令官山口多聞少将に、「残念ながら、飛龍の運命もこれまでと思います。総員退去の許可を求めます」と申し出ます。
山口と加来大佐は、二人揃って、黙って飛行甲板の左舷部に降りました。そこはまだ火の手が回っていなかったのです。
そこに、汗と煤煙に汚れた800名の乗組員たちがいました。彼ら乗組員たちは、山口と加来を取り巻きます。
このときの様子を、当時飛龍飛行長だった川口益(すすむ)氏が語っています。
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月のせいで、そんなに暗くなかった。艦は30度くらい傾いていたのではなかったか。山口司令官の訣別の訓示は、「皆のお陰で、他の三空母(赤城、加賀、蒼龍)の分もやった。敵空母二隻と巡洋艦一隻をやつけた(と、我々はそのときそう信じていた)どうもありがとう。しかし、飛龍をみて分かるとおり内地に帰還するだけの力ははすでにない。艦長と自分は、 飛龍とともに沈んで責任をとる。戦争はこれからだ。皆生き残って、より強い海軍を作ってもらいたい」と訓示した。
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その場にいあわせた生存者全員が泣きました。声はあげません。人間、ほんんとうに辛いとき、声など出して泣かないものです。みんなが声もたてずに、ただただ涙をポロポロとながしていました。みんなが泣いていました。
そしてみんなで、日本の方向を向いて、山口長官の音頭で万歳をとなえました。「飛龍」に高らかに掲げられていた軍艦旗と将旗を降ろしました。退艦儀式を手順どおり進ませました。
主計兵曹がまず、御真影(天皇・皇后両陛下の額入りの写真)を背におぶり先頭にたちました。そして、負傷者、搭乗員、艦内勤務者の順に退艦しました。日本の駆逐艦二隻が接近してきて、短艇をくり出してくれました。
そのときです。山口を師と慕う主席参謀伊藤清六中佐が、「司令官!」と大きな涙声で呼んだのです。「何か頂く物はございませんか」
