こうなると米軍が注意を払わなければならないのは、日本の航空機による爆撃と、艦砲射撃だけとなります。まだGPSによるピンポイント艦砲射撃などなかった時代です。揺れる海上から撃つ日本の艦砲射撃に対し、海面が静かで揺れない湾内と、陸上砲台から撃つ米軍の対艦攻撃の方が有利なのはあたりまえです。また日本の航空機による攻撃に対しては、大軍の戦闘機部隊を真珠湾に配備することで、十二分に対抗できたはずだったのです。
にも関わらず、日本が真珠湾攻撃で大戦果を挙げることができたのは、米軍がまったく予期しなかった航空機による魚雷攻撃という、当時の世界の常識ではありえなかった戦法を日本が行なったからです。
山口は、これを実現したのです。
さらに山口は、真珠湾にいる米艦隊の撃滅だけでは、国力のある米国を黙らせることはできないと考えました。米艦隊を完膚なきまでに叩くだけでなく、さらに真珠湾近郊にある米軍の補給施設や艦船の修理施設を破壊し、米太平洋艦隊を数年間、まるで役に立たないまでに、完全に無力化すること。そこまでしなければ、米国の開戦決意を鈍らせることができないということを、山口は主張し続けたのです。
前もって定められた軍議では、山口の徹底案は、退けられています。けれど山口は、それでもところ狭しと重油を積載し、戦いに勝つ道をつけようとしていたのです。
山口多聞は、平素は無口で、たいへんにおとなしい人だったそうです。学業優秀だから、いわゆる秀才で、とりわけ海兵四〇期というのは、粒よりの秀才ぞろいといわれた年次です。
しかし、ひとつまちがうと、なにごとによらず、たちまち烈火のごとく怒りまくる。体力にすぐれ、武道も強く、怒りだしたら始末におえない男であったそうです。
いまどきの日本男性は、怒らないことがまるで美徳のように育てられています。しかし、筋の通らないことに怒るというのは、むしろ男子の美徳なのではないかと私は思います。
さて、昭和16(1941)年12月2日、聯合艦隊は「ニイタカヤマノボレ、1208」との電報を受信しました。山本司令長官からの「12月8日に開戦と決す」という暗号電文です。
当日未明、空にはまだ月が残り、星も淡くまたたいていたそうです。六隻の空母の甲板上に、第一次攻撃隊全機が並びます。そしてエンジンに着火し、プロペラの爆音を轟かせます。
時刻到来。空母はいっせいに風上に艦首を向け、スピードをあげました。十分な速度になるとともに、飛行甲板のから、先頭の制空隊(零戦二一型)、水平爆撃隊(九七艦上攻撃機)、急降下爆撃隊(九九艦上爆撃機)、雷撃隊(九七艦上攻撃機)、合計183機が順に、飛び立ちます。
そして、空が明るさを増し、しばらくたったとき、攻撃隊総指揮官淵田美津雄中佐から、有名な「トラ、トラ、トラ」の暗号電報が飛び込んできます。「ワレ奇襲ニ成功セリ」です。
待ちに待った電報でした。このとき、喜びに湧く艦橋で、山口多聞二航戦司令は、旗艦赤城にある艦隊司令部に向けて、「ワレ 第二攻撃準備完了」と発光信号を送っています。これは「第二波攻撃の必要あり、許可を求む」というものです。
米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督が、戦後記した「太平洋海戦史」に、次のような記述があります。
~~~~~~~~~~~
攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設に事実上、手をつけなかった。日本軍は湾内の近くにあった燃料タンクに貯蔵されていた450万バレルの重油を見逃した。この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったろう。
~~~~~~~~~~~
実は、山口多聞は、真珠湾攻撃の二カ月前の「長門」での図上会議の席上でも、第三次攻撃までの企画をあげています。真珠湾における燃料タンク、修理施設まで攻撃対象とすることを主張したのです。このとき、南雲忠一司令長官は黙ったままだったといいます。
山口は、実際の真珠湾においても、第三次攻撃隊まで準備していました。しかしいくら待っても旗艦の「赤城」から応答がない。
双眼鏡を顔から離した山口多聞は、「南雲さんはやらんだろうな」とつぶやいたといいます。
唯物史観主義者にはまったく理解できないことかもしれないけれど、碁や将棋、あるいは武道をする方であれば、だれでもがご理解いただけると思う。先を読む、ということです。こうすればこうなる。ああやればこうなる。だから未来は築けるものです。見通せるものです。予期できるものです。
第二次、第三次の攻撃をしないことによって、先々の戦闘がどのように変化していくのか。それを合理的に見通せる力をもった山口が、このときどれだけ悔しく、情けない思いをしたか。
けれど、軍は命令がなければ動けません。独断専行は、決して許されない。このとき、南雲中将は機動部隊を無事に帰還させることを優先し、初めから第二波攻撃を考えていなかったのです。
さらに山口のあせりは募ります。攻撃後の報告で、真珠湾に米空母がいなかったことが判明したのです。
山口は、敵空母をさらに追い詰めるよう具申しました。けれど、南雲中将はこれも無視しました。そして艦隊に帰還を命じたのです。
南雲中将の判断も、それはそれで正しいものです。真珠湾を叩き、そのうえで外交交渉によってできるだけ早期に和解する。そのためには、過度に米国を刺激するのは決して良い選択とはいえないし、万一戦闘が長引くことになったとき、すこしでも多くの艦隊余力を温存しておかなければならない。
しかし、すでにイクサは始まってしまっているのです。中途半端な攻撃は、かえって米国民の怒りを募らせ、日米の戦闘が泥沼化する可能性が高い。そうとわかれば、再起不能なまでに叩かなければ、日本に勝機はなく、和平の道も開けない。
このとき山口は、地団太ふんで悔しがったといいます。歴史というものは皮肉です。南雲中将は、水雷畑の出身で「水雷の権威」で「航空戦」にはズブの素人です。それをいきなり航空艦隊の総帥に任じられたのは、年功序列を重んじる海軍の平時の人事の発想だったかもしれない。航空戦にズブの素人の南雲中将が上官で、プロの山口がその指揮下に甘んじていた。
もし、山口多聞少将が真珠湾機動部隊を指揮していたら、おそらく歴史は違っていたことでしょう。山口は、ハワイの軍事施設を徹底的に叩き、米空母艦隊を求めて決戦を遂行したことでしょう。真珠湾攻撃で、米太平洋艦隊は、すでに戦艦を失っています。陸上の軍事施設も、山口司令の指揮で、完膚なきまでに米軍は喪失したことでしょう。
そうなれば、米軍空母はまる裸です。まる裸となった空母は、日本艦隊の、あるいは日本の航空機のただのマトでしかありません。こうして米国太平洋艦隊が一夜にして壊滅し、米国がハワイという太平洋への足がかりを完全に失ったとき、はたして歴史はどのように動いたか。
そもそも戦争というものは、平時とは異なるものです。やるからには下手な情け無用で徹底的に相手を壊滅させなければなりません。そうしなければ、結果としてこちらがヒドイ目に遭い、多くの同胞のかけがえのない命が失われてしまうのです。明治以降の日本の戦史を見ると、そのことをいやというほど思い知らされます。
古来、日本人は平和を愛する民です。しかし、戦時における下手なやさしさは、かえって事をややこしくし、結果として多くの日本人の命を奪う。そのことは、いまを生きる日本人が歴史から学ぶ教訓として、しっかりと再認識すべきことではないかと思います。
平素はやさしくて温和だが、ひとたび怒らせたら徹底した報復を行う。残念ながら、これが国際政治において最も求められる国家としての資質です。そして、いまの日本は、むしろその「徹底してやられる側」にクビまでどっぷりと浸かってしまっているということを、あらためて認識しなければならないと思います。
※明日のメルマガに続く




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にも関わらず、日本が真珠湾攻撃で大戦果を挙げることができたのは、米軍がまったく予期しなかった航空機による魚雷攻撃という、当時の世界の常識ではありえなかった戦法を日本が行なったからです。
山口は、これを実現したのです。
さらに山口は、真珠湾にいる米艦隊の撃滅だけでは、国力のある米国を黙らせることはできないと考えました。米艦隊を完膚なきまでに叩くだけでなく、さらに真珠湾近郊にある米軍の補給施設や艦船の修理施設を破壊し、米太平洋艦隊を数年間、まるで役に立たないまでに、完全に無力化すること。そこまでしなければ、米国の開戦決意を鈍らせることができないということを、山口は主張し続けたのです。
前もって定められた軍議では、山口の徹底案は、退けられています。けれど山口は、それでもところ狭しと重油を積載し、戦いに勝つ道をつけようとしていたのです。
山口多聞は、平素は無口で、たいへんにおとなしい人だったそうです。学業優秀だから、いわゆる秀才で、とりわけ海兵四〇期というのは、粒よりの秀才ぞろいといわれた年次です。
しかし、ひとつまちがうと、なにごとによらず、たちまち烈火のごとく怒りまくる。体力にすぐれ、武道も強く、怒りだしたら始末におえない男であったそうです。
いまどきの日本男性は、怒らないことがまるで美徳のように育てられています。しかし、筋の通らないことに怒るというのは、むしろ男子の美徳なのではないかと私は思います。
さて、昭和16(1941)年12月2日、聯合艦隊は「ニイタカヤマノボレ、1208」との電報を受信しました。山本司令長官からの「12月8日に開戦と決す」という暗号電文です。
当日未明、空にはまだ月が残り、星も淡くまたたいていたそうです。六隻の空母の甲板上に、第一次攻撃隊全機が並びます。そしてエンジンに着火し、プロペラの爆音を轟かせます。
時刻到来。空母はいっせいに風上に艦首を向け、スピードをあげました。十分な速度になるとともに、飛行甲板のから、先頭の制空隊(零戦二一型)、水平爆撃隊(九七艦上攻撃機)、急降下爆撃隊(九九艦上爆撃機)、雷撃隊(九七艦上攻撃機)、合計183機が順に、飛び立ちます。
そして、空が明るさを増し、しばらくたったとき、攻撃隊総指揮官淵田美津雄中佐から、有名な「トラ、トラ、トラ」の暗号電報が飛び込んできます。「ワレ奇襲ニ成功セリ」です。
待ちに待った電報でした。このとき、喜びに湧く艦橋で、山口多聞二航戦司令は、旗艦赤城にある艦隊司令部に向けて、「ワレ 第二攻撃準備完了」と発光信号を送っています。これは「第二波攻撃の必要あり、許可を求む」というものです。
米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督が、戦後記した「太平洋海戦史」に、次のような記述があります。
~~~~~~~~~~~
攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設に事実上、手をつけなかった。日本軍は湾内の近くにあった燃料タンクに貯蔵されていた450万バレルの重油を見逃した。この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったろう。
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実は、山口多聞は、真珠湾攻撃の二カ月前の「長門」での図上会議の席上でも、第三次攻撃までの企画をあげています。真珠湾における燃料タンク、修理施設まで攻撃対象とすることを主張したのです。このとき、南雲忠一司令長官は黙ったままだったといいます。
山口は、実際の真珠湾においても、第三次攻撃隊まで準備していました。しかしいくら待っても旗艦の「赤城」から応答がない。
双眼鏡を顔から離した山口多聞は、「南雲さんはやらんだろうな」とつぶやいたといいます。
唯物史観主義者にはまったく理解できないことかもしれないけれど、碁や将棋、あるいは武道をする方であれば、だれでもがご理解いただけると思う。先を読む、ということです。こうすればこうなる。ああやればこうなる。だから未来は築けるものです。見通せるものです。予期できるものです。
第二次、第三次の攻撃をしないことによって、先々の戦闘がどのように変化していくのか。それを合理的に見通せる力をもった山口が、このときどれだけ悔しく、情けない思いをしたか。
けれど、軍は命令がなければ動けません。独断専行は、決して許されない。このとき、南雲中将は機動部隊を無事に帰還させることを優先し、初めから第二波攻撃を考えていなかったのです。
さらに山口のあせりは募ります。攻撃後の報告で、真珠湾に米空母がいなかったことが判明したのです。
山口は、敵空母をさらに追い詰めるよう具申しました。けれど、南雲中将はこれも無視しました。そして艦隊に帰還を命じたのです。
南雲中将の判断も、それはそれで正しいものです。真珠湾を叩き、そのうえで外交交渉によってできるだけ早期に和解する。そのためには、過度に米国を刺激するのは決して良い選択とはいえないし、万一戦闘が長引くことになったとき、すこしでも多くの艦隊余力を温存しておかなければならない。
しかし、すでにイクサは始まってしまっているのです。中途半端な攻撃は、かえって米国民の怒りを募らせ、日米の戦闘が泥沼化する可能性が高い。そうとわかれば、再起不能なまでに叩かなければ、日本に勝機はなく、和平の道も開けない。
このとき山口は、地団太ふんで悔しがったといいます。歴史というものは皮肉です。南雲中将は、水雷畑の出身で「水雷の権威」で「航空戦」にはズブの素人です。それをいきなり航空艦隊の総帥に任じられたのは、年功序列を重んじる海軍の平時の人事の発想だったかもしれない。航空戦にズブの素人の南雲中将が上官で、プロの山口がその指揮下に甘んじていた。
もし、山口多聞少将が真珠湾機動部隊を指揮していたら、おそらく歴史は違っていたことでしょう。山口は、ハワイの軍事施設を徹底的に叩き、米空母艦隊を求めて決戦を遂行したことでしょう。真珠湾攻撃で、米太平洋艦隊は、すでに戦艦を失っています。陸上の軍事施設も、山口司令の指揮で、完膚なきまでに米軍は喪失したことでしょう。
そうなれば、米軍空母はまる裸です。まる裸となった空母は、日本艦隊の、あるいは日本の航空機のただのマトでしかありません。こうして米国太平洋艦隊が一夜にして壊滅し、米国がハワイという太平洋への足がかりを完全に失ったとき、はたして歴史はどのように動いたか。
そもそも戦争というものは、平時とは異なるものです。やるからには下手な情け無用で徹底的に相手を壊滅させなければなりません。そうしなければ、結果としてこちらがヒドイ目に遭い、多くの同胞のかけがえのない命が失われてしまうのです。明治以降の日本の戦史を見ると、そのことをいやというほど思い知らされます。
古来、日本人は平和を愛する民です。しかし、戦時における下手なやさしさは、かえって事をややこしくし、結果として多くの日本人の命を奪う。そのことは、いまを生きる日本人が歴史から学ぶ教訓として、しっかりと再認識すべきことではないかと思います。
平素はやさしくて温和だが、ひとたび怒らせたら徹底した報復を行う。残念ながら、これが国際政治において最も求められる国家としての資質です。そして、いまの日本は、むしろその「徹底してやられる側」にクビまでどっぷりと浸かってしまっているということを、あらためて認識しなければならないと思います。
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