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日本の心を伝える会
メールマガジンNo.530
 2012/7/2
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■□【1】名将山口多聞(1/3)
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山口多聞中将は、旧日本海軍でも「提督の中の提督」として、世界中のファンを魅了している人物です。こういう史実を子供達が学んで育ったら、日本は変る。そう思います。

生まれは東京・文京区小石川で、明治25年、旧松江藩士・山口宗義の子で、れっきとした武家の家柄です。多聞というのは、すこし変わった名前ですが、実は、楠木正成の幼名、多聞丸から、命名されています。

山口家の仕えた松江藩というのは、出雲一国の藩です。もともとは毛利領でしたが、幕末時の藩主は松平家で、山口家は出雲松平家の家臣でした。

この出雲松平家というのは、江戸中期以降、全国の大名が年貢米に頼って藩の財政をひっ迫させた中で、唯一といっていいほど豊かだった藩でもあります。なぜ豊かだったかというと、実は、タタラによる製鉄事業を藩の産業として育成し、同時に藩の財政を徹底的に改革したのです。おかげで寛政年間には八万両もの蓄財をしています。つまり、非常に合理性を尊ぶ気風があった藩であったというわけです。

この出雲松平藩の合理主義は、幕末にも活かされます。出雲松平藩は、徳川家の親藩でありながら、はやくから時代の変遷を予測して、幕府方にも新政府側にもつかず、藩の中立、独立を保ったのです。

こうした合理主義、客観主義の家風は、山口多聞の海軍兵学校生活で、さらに磨きがかかります。

ちなみに山口多聞は、いまでも進学校として名高い開成中学(現開成高校)を卒業したのち、海軍兵学校第40期生となりました。入学時の成績は、150人中21番です。卒業時の成績は、144名中2番です。同期には特攻隊生みの親・大西瀧次郎がいます。

旧日本軍の将校の物語になると、必ずこうした「成績何番」という話がでてきます。卒業時の成績が生涯ついてまわります。戦後は、このことによる弊害ばかりが強調されている風がありますが、当時の成績順というのは、もちろん単に学業の成績が良ければ事足りるというものではありません。なにせ、ひとりの生徒に、教師が4人も5人もついて、徹底的に鍛え上げるというのが当時の兵学校です。すべてを見極めた上で、先任順が決められる。人間を鍛錬し、厳しく鍛え上げるという気風があればこそ、成績順が大事なものとして扱われたのです。そこに甘ったれた精神はない。

昨今では、日教組が平等教育をうたい、成績の公表すらしない学校が増えていますが、これは間違いです。いいものはいい。悪いものはわるい。人に上下の差別はあるのです。それは区別であって差蔑ではない。俺は成績は悪いが、ケンカでは負けない!でも良いのです。人はそうやって競争していくことで、人間は負けない心、くじけない心が養成され、強くなるのだと思う。

山口多聞は、第一次世界大戦時には欧州派遣艦隊に所属しました。もともと水雷、砲術出身の士官であり、本来の専門は潜水艦です。

そして軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任するのだけれど、海兵同期の大西瀧治郎の薦めで、当時発展途上だった航空関係に転向しました。

船舶や陸戦は、水平運動です。潜水艦は、水平運動に垂直運動が加わります。つまり、動きが上下左右の三次元行動です。潜水艦の専門であった山口多聞にとって、三次元運動をする飛行機は、非常に入りやすかったのかもしれません。

山口多聞は、昭和9(1934)年に在米大使館付武官として2年間、米国で暮らしました。山口多聞といえば、山本五十六の秘蔵っ子、米内光政のラインとも言われていますが、山口は学生時代にプリンストン大学に留学した経験をしています。ちなみに、山本五十六はハーバート大学で学んでいます。そして両者とも、駐米武官を経験した国際派です。またたいへんな愛妻家、子煩悩家としても知られています。

もともと合理主義の家系に育った山口多聞が、海軍兵学校でその合理主義にさらに磨きをかけ、そして駐米武官として米国の大学で学んだのです。その合理主義的頭脳に、いっそうの磨きがかかったであろうことは、容易に想像がつきます。

その山口多聞が、駐米武官として最も関心を抱いたのが、日米の国力の違いだったそうです。なにせ開戦前の昭和15年当時、米国の原油の生産量は日本の150倍です。

日本は石油消費量の90%を輸入に頼り、しかもそのうちの70%を米国から輸入していたのです。石油の備蓄量は、聯合艦隊の2年分だけです。米国と開戦するということは、日本海軍は艦船を動かすための石油を失うということです。

石炭の問題もあります。石炭の産出量は、米国は日本の約9倍です。もっというと、戦艦を建造するための鉄鋼産出量は、米国は日本の13倍です。

日本は資源輸入を米国に頼っていたのです。その日本が、米国との関係を悪化させるということは、日本は「資源を失う」ということです。当時、日本国内では、メディアがさかんに鬼畜米英などといって米国との開戦を煽っていましたが、これが現実なのです。

もし日本が米国と開戦するとなれば、日本は資源を南方の東南アジア諸国に求めざるを得なくなります。開戦相手は米国だけでなく、東亜諸国を植民地として支配するオランダや、フランス、英国などとも戦争をしなければならなくなる。

しかも日本は、国際連盟から委託された南方の島々の平和を守る責務を負っています。つまり日本は、太平洋の島々から東南アジア諸国にまで戦線を拡大しなければならなくなる。

すでに、支那ではイクサがはじまっています。これをさらに我が国が戦線を拡大するということは、我が国の国防力を分散させます。国防力の分散は、すなわち国防力の弱化です。ですから、米国の現状をつぶさに見聞した山口は、米内、山本らとともに、日米開戦に反対したのです。

この時期、多くの日本の陸海軍人が、日米開戦に反対だったことは注目に値することです。

すこし脱線します。文民統制(シビリアン・コントロール)という言葉があります。武人は戦争を起こすから、武人は文人が制御すべしという議論です。

なるほど明治維新の戊辰戦争を戦ったのは、武人たちです。明治27年の日清戦争も、武人によって開戦が行なわれました。ロシアの南下に対して必死の努力でこれを阻止しようとしたのです。この日清戦争が、国際的にみて「やむを得ない戦争」であったことは、歴史が証明しています。けれどこの戦争は、国力からしたら数十倍の国力を持つ清国との戦いだったのです。

日本は、からくも日清戦争に勝利しました。そしてこの戦争で、日本はロシアの南下を阻止することに成功しました。

ところが、です。この日清戦争による戦果、すなわちロシアの南下をまるで無駄にして、あらためて日露戦争を起こさざるを得ない情況を引き起こしたのは、軍人ではありません。文人政治家です。

さらに軍人が多大な命を犠牲にして日露戦争に辛勝すると、これに浮かれて軍縮などとわかったようなことを言いだし、あげく支那を蹂躙する蒋介石に付け入る隙を与えて、支那事変に至らしめたものも、結局は幣原喜重郎内閣の「平和外交」、すなわち文人政治家です。

平和を愛する「文人統制」といえばいっけん聞こえはいいけれど、要するに「腰ぬけ平和主義者」に外交をやらせると、かえって被害が大きくなることを、歴史は証明しています。

大東亜戦争開戦時、山口多聞は海軍少尉で、第二航空戰隊司令官でした。日米開戦が決定すると、山口は航空母艦「飛龍」に乗って、真珠湾攻撃に出撃しました。日米避戦論者であっても、ひとたび開戦が決意されるや、命をかけて戦い、国家を護らなければならない。それが軍人の使命です。

開戦前の昭和16(1941)年10月中旬から11月中旬、山口多聞は、航空部隊に猛訓練を施しました。