

















日本の心を伝える会
メールマガジンNo.507
2012/5/30









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■□【1】大森今村両教授の信頼と絆(2/2)
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※昨日からの続き
今村君は、二つ年下の無給の研究員とはいえ、研究熱心で将来ある大事な後輩です。こんなことで予言が外れたと、世間から叩かれるようなことがあってはならない。それに、地震学という分野も、なんとしても守らなければならない。
大森教授は、今村を呼び、東京二六新聞に釈明と取消の記事を出すように命じます。今村も、自分の趣旨と異なる記事で周囲に迷惑をかけることは、決して本意ではありません。
素直に大森の指示に従い、記事の3日後には、「これはもともと雑誌掲載時に『震災被害を軽減することを目的として』寄稿したものであり、事前に地震に備える必要を述べたものに他ならない。該記事は、本来の趣旨である災害予防に関する提言を省いたうえ、単なる地震の予言として載せている。これは遺憾に堪えない」という記事を載せます。
きわめて常識的な意見です。今村の抗議は、その他の新聞社でも好感され、今村に同情的な記事が掲載になり、おかげでようやく事態は一段落していきます。これが、明治39(1906)年1月下旬のことです。
ところが、翌2月23日に、千葉沖でマグネチュード6.3の地震が起きてしまいます。さらに翌24日には、東京湾でマグネチュード6.4の強震が起きます。
この地震による被害は、煙突が倒れたとか些細なものにすぎませんでした。けれど、どこの馬鹿者がやったのか、「中央気象台が24日夕方、東京に大地震が起こると予報を出した」というとんでもないデマ情報を、病院や役所、図書館や大型商業施設などに電話で知らせまくった馬鹿者(おそらく不逞朝鮮人の犯行)がいたのです。
これには官憲まで出動して、犯人探しが行われる事態となり、おかげでせっかく沈静化しかけていた東京大震災のウワサが、再び再燃してしまったのです。大学には問い合わせが殺到する。大学側からは、責任者の大森教授に対して、ふたたび事態の沈静化をせよと、強い苦情が寄せられます。
やむをえず大森教授は民心鎮静のために、「東京に、今後何百年も安政地震のような大地震が来ることはないし、もし来たとしても大火災は決して起こらない。まして10万人も20万人も死人が出るなどということは、まったく学術的な根拠のない浮説にすぎない」と、新聞論説への寄稿や、講演を繰り返します。教授が、今村の予測を覆す内容の発表をしたのです。
大森房吉教授
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このことは、当事者である今村にとっては、とても辛いことです。巷では無給の今村が私利を求めるために浮説を流したと噂され、友人からは大法螺吹きと嘲けられる。大学に行っても、周囲からの白い目線は、今村の心をずたずたに引き裂きます。
後年、今村が書いた文章には、当時を振り返って次の記述があります。「翌年の夏に帰省した。自分に対する非難の数々を転載した地方新聞を読んだ老父から、いちいち弁解を求められた。一年余も老父を心痛せしめたかと思うと、情けなくなった」さぞかし辛い日々であったろうと思います。
今村明恒の偉いところは、これだけの中傷を浴び、ホラ吹きだの詐欺師だの金儲け主義者だのと中傷非難を浴びながらも、決して地震学への情熱を失わなかったことです。彼は明治44(1911)年には、大森式地震計を大幅に改良した「今村式地震計」を開発し、その設置普及にも努力を重ねます。
そうして新聞事件が起こってから17年後の大正12(1923)年9月1日、正午頃、関東大震災が発生します。震災は、大火災を起こし、東京も横浜も、まるで廃墟のような焼け野原となってしまいます。死者、行方不明者14万2800人、負傷者10万3733人、合わせて24万6,533人という未曾有の大災害が襲ったのです。まさに今村が予測した通りの結末となってしまったのです。
この地震で今村は、幸いなことに九死に一生を得ました。大森教授は、この地震のとき、学会でオーストラリアに出張していました。
地震の報に接して、急遽帰国した大森教授を、今村は横浜まで迎えに行っています。けれど大森教授は、おそらく心労からでしょう。帰国途中で脳腫瘍に倒れ、港に着いたときには、もはや息も絶え絶えの状態でした。
そして出迎えにきた今村に「今度の震災については自分は重大な責任を感じている。譴責されても仕方がない。ただ水道の改良について義務を尽くしたことで自分を慰めている」と告げると、言い終わらないうちに嘔吐を始め、意識を失います。興奮による発作でした。
大森教授は、そのまま意識混濁のまま、2ヶ月後に死亡してしまいます。
大森教授亡き後、東京帝大地震学の後任教授に、今村は就任します。そして6年後の昭和4(1929)年、解散状態になっていた日本地震学会を再興し、その会長に就任、昭和6(1931)年には、東大を定年退官しますが、その後も私財を投じて、地震の研究を続け、昭和23(1948)年、78歳で永眠されました。
今村教授は、その回顧録に次のように書いています。
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関東大震災において、その災害を軽減する手段があらかじめ講究されなかったことは、為政者の責任であったろう。関東大地震の災害の九割五分は火災であった。水道管はあまり強大でない地震によっても破損して用をなさないものであるから、大地震の場合に於いては全然破壊されるものと覚悟しなければならぬ。このことは大森房吉など科学者が最も力説したところだが、為政者は顧みなかった。
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また別の本でも、
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地震学の泰斗大森博士は、震災と消防の関係について深く憂い警告を発せられた。自分も大森博士の驥尾に付して、機会あるごとに・・・
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と書いています。
大森博士は、今村を新聞事件当時、名指しで非難しているのです。にも関わらず、今村は、生涯、先輩である大森博士を敬い続けています。
なぜでしょう。どうして今村は、自分を名指しで非難した大森教授を尊敬し続けていたのでしょうか。
これには理由があります。大森博士は、ちゃんと知っていたのです。今村の説が正しいことを、です。
知っていて、大森教授は今村の説を否定しました。なぜなら彼は、発展途上にある地震学を、なんとしても我が国に根付かせねばならなかったからです。そして同時に、首都圏を襲う地震被害の最大の問題は、地震そのものよりも、むしろ震災以後に起こる火災被害の方が、はるかに大きな問題であることをさえ、理解していました。
市井の人々の関心は、大地震が来るというなら、それがいつ来るのかです。けれど、それはわからない。今日来るかもしれないし、何十年も先に来るかもわからない。いつくるかは、天のみぞ知ることです。
それ以上に大切なことは、被害が最小に収まるように、人知を尽くすこと。震災による家屋の倒壊、火災の発生、そうした事態に備えて、防火対策を施すこと、避難所や避難経路を日頃から確立すること、そうした「人にできること」を、地震の研究を続けると同時に、根気づよく人々に訴え続けていかなければなならい。地震学を世に根付かせ、研究を続けていかなければならない。いっときの「予言が当たった、外れた」で、地震学という学問を失ってはならないのです。そのことを大森教授も、今村も、ともにちゃんと理解していた。
だからこそ今村は、世間からどんなに非難されても地震学教室から出ることはなかったし、その後も大森教授のもとで研究生活に打ち込むことができたのです。
今村が、生涯を通じてもっとも尊敬した人物、それが大森教授でした。世間の誰もがわかってくれなくても、師弟の間にちゃんと通じるものがある。絆だけじゃない。
