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天皇の御陵
No.737 平成24年 5月28日(月)

 現内閣では、総理大臣は天皇に任命され、閣僚は天皇に認証されて、各々その職に就いているにもかかわらず、天皇の万世一系という意味も、今上陛下が第何代の天皇陛下であるかも知らない閣僚がいるようだ。これは、親の名も知ろうとしない者が、自分は立派な大人だと思い込み、親孝行を説いているに等しい風景である。
 斯様に、我が国の政治家は劣化している。しかし、これは日本国憲法と称する文書の狙った結果である。
 この原因を放置してこの結果を嘆いても仕方がない。
 そもそも、三年前の夏、国民の大半が、この内閣を造っている集団を与党に選んだ。その結果が、今目に見えている。このことを忘れてこれからの「国家の再興」はあり得ない。

 さて、我が国の形は、抽象的にあるのではなく具体的な「歴史的風土」として存在している。
 昭和天皇は、大東亜戦争の末期に、連合国からのポツダム宣言を受諾するに当たり、数名の皇族を招集され、手分けして天皇の名代として歴代百二十三代にわたる天皇陵に赴き参拝し、我が国が、降伏という未曾有の事態に至る旨ご報告するよう指示されたという。
 このようにして、昭和天皇は、國を肇められた皇祖皇宗の霊に祈られた。
 ここで注目すべきは、我が国の運命を決するポツダム宣言受諾そして降伏という「御聖断」をされるに際し、歴代天皇陵は、「遺跡」ではなく、今に生きる国家の形、国体を体現する具体的存在として機能していたということである。

 先日、堺泉州の地方誌に、時事問題を投稿するよう依頼されたので、特に我が国では、国土を護ると言うことと郷里を護ると言うことは別個の問題ではなく、不可分一体のことだとする論を投稿した。
 即ち、郷里無き国民は存在しない。国土は国民の郷里である。従って、支那中共の侵略から尖閣諸島と周辺海域を護るということと、堺に存在する歴代天皇陵を戴く歴史的風土を護ることは不可分一体なのだ。
 堺から尖閣まで遠く離れているから関係がないのではない。
 同胞である国民が北朝鮮に拉致されても無関心な国民の国家はいずれ滅びるように、領土が支那に奪われることを放置する国民はいずれ郷里を失う。
 特に、我が日本という国家においては、国土は単なる物理的存在ではなく、歴史的風土であり精神的存在だ。

 そこで、尖閣の防衛と、郷里の歴史的風土を護ることが不可分であり、郷里を語ることは、何もローカルなことではなく、全国民的なことだ。それ故、本稿では、我が郷里の天皇陵について語りたい。

 まず概略から、
 我が郷里である旧国名で言えば、泉州、河内そして摂津の地には、まず、日本武尊(やまとたけるのみこと)の皇子にして三韓征伐の最高指揮官である神功皇后を后とする第十四代仲哀天皇の御陵が造営され(藤井寺)、以後、その皇子である八幡さんの祖である第十五代応神天皇の御陵(羽曳野)、その皇子である第十六代仁徳天皇の御陵(堺)が造営されてゆく。
 第十六代仁徳天皇の三人の皇子は第十七代履中天皇(堺)、第十八代反正天皇(堺)、第十九代允恭天皇(藤井寺)である。
 第二十代の安康天皇の御陵は、奈良に造営されるが、第二十一代の雄略天皇陵は藤井寺、第二十六代継体天皇は茨木、第三十三代推古天皇陵と聖徳太子廟は太子町、そして、南北朝時代の第九十七代後村上天皇陵(河内長野)までが泉州、河内そして摂津の天皇陵である。

 このうち、仁徳天皇と履中天皇と反正天皇の親子三人の御陵は、堺の中心部の三国ヶ丘に南北に並んでいる。そして、その周辺には多くの倍塚(家臣の墳墓)があり、東側には御廟山、にさんざい、いたすけなどの巨大古墳が並んでいる。
 このうち、御廟山古墳は、近くに百舌鳥八幡神社があることから応神天皇の御陵ではないかと古くから言われている。
 この古墳群を抱える田園の丘陵が、子供達の遊び場だった。
 三国ヶ丘とは、泉州、河内、摂津の三国の堺にあるからそう呼ばれるようになった。
 古代、船が西から明石海峡を抜けて茅渟の海(大阪湾)に入ってくると、正面に丘の上の巨大な仁徳天皇陵が遠望できる。そこが進路である。そして、神功皇后が朝鮮から帰着した現在の住吉神社の南の津に着いた船から揚げられた物資と人は、仁徳天皇陵と反正天皇陵の間の竹内街道を通り、御廟山古墳の側を通り聖徳太子廟のある太子町を抜け二上山の竹内峠を越えて奈良の明日香に入ってゆく。
 墳丘の面積では世界一の広さである仁徳天皇陵は南北に囲む皇子である履中天皇陵と反正天皇陵とともに正確に南を向いており、空から見ても宇宙から見ても絶好の目印になる。八尾にある陸上自衛隊航空基地の隊員に聞くと、仁徳天皇陵は、おそれおおいので真上は飛ばないが絶好の目印だと言っていた。
 航空機のない古代には、仁徳天皇陵を空から目印とした人はいないが、海からは絶好の目印だった。
 但し、竹取物語には、月から来た姫もいる。当時の人が、空からの目印の為に仁徳天皇陵を造形したのかも知れない。誰が、このことを否定できようか。

 現実に戻る。
 私の子供の頃(昭和三十年代)、三国ヶ丘の巨大天皇陵と巨大墳墓は、ほぼ田園に囲まれていた。その墳丘の森には数千羽の白鷺が舞っていて、彼等の餌であるドジョウやモロコやフナは、付近の田園で生息していた。
 しかし、現在、白鷺はカラスに変わり、彼等の餌である人間の残飯は、住宅街と繁華街が提供している。
 そして、土地開発により、多くの倍塚が破壊された。今でも、三国ヶ丘駅近くの巨大な前方後円墳がブルトーザーで一挙に破壊されたときの無惨な情景を思い出す。
 仁徳御陵の東側の田園は宅地で覆い尽くされ、家庭排水とガソリンスタンドの廃油は、仁徳天皇陵の堀に流れ込み、僕たちが「キンタイ」と呼んでいたすばらしく綺麗な小さな魚はいち早く姿を消し、コイやフナ、ナマズや台湾ドジョウまで姿を消した。
 そして、履中天皇の堀沿いにあった空き地は、分譲されて、仁徳天皇と履中天皇の親子の御陵を結ぶ緑の空間は建ち並んだ新築住宅によって分断された。

 その上で、堺市は何をしているのかというと、仁徳天皇陵を中心とする百舌鳥古墳群と応神天皇陵を中心とする古市古墳群をあわせてユネスコの「世界遺産」に申請しているのである。
 一体全体、天皇陵を囲む歴史的風土を破壊されるに任せている堺市に、天皇陵を「世界遺産」にと申請する資格があるのか。
 断じてない。
 その理由は、「天皇陵を囲む歴史的風土」が「世界遺産」にふさわしいのであり、「天皇陵」それ自体は「遺産」ではないからである。
 冒頭に述べたように、天皇陵は、我が国が万世一系の天皇を戴く国家である限り、「現在に生きている我が国の聖域」であり、「世界遺産」として外国の学者が掘り起こして「学術調査」をしたり、観光客がソフトクリームを舐めながら墳丘を歩き回るなど許されない地域なのだ。
 このこと、諸兄姉の先祖の墓のことを思えば分かるであろう。自分のご先祖の墓を大切にするように、天皇陵を大切にしなければならない。いや、天皇陵を大切にすることが自分のご先祖の墓を大切にすることにつながるのだ。
「かくの如きは、独り朕が忠良の臣民たるのみならず、また以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん」(教育勅語)

 万世一系の基に断絶することなく今に生きており尊ばれるべき存在としての天皇をいただく国家。これが、我が国の国柄であり、この国柄と不可分であることに天皇陵の本質がある。
 従って、天皇陵は「遺産」ではなく、「天皇陵を戴く周辺の歴史的風土」こそが遺産なのだ。
 ここがエジプトのピラミッドと我が国の天皇陵とが決定的に違うところだ。ピラミッドの被葬者と現在のエジプトは無関係である。しかし、天皇の御陵は、万世一系の現在の天皇と不可分である。
 従って、「世界遺産」申請は、まさに、この決定的違いを前提にして為されねばならないのだ。
 しかるに、堺市は、周辺の「歴史的風土」を破壊させながら、「天皇陵」を「世界遺産」として申請している。