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 読者の声 どくしゃのこえ 読者之声 パート?
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(読者の声1)特許の出願件数が日本をぬいて中国がトップになったという衝撃的なニュースがありました。技術大国日本が、まさか技術を盗むばかりの中国に追いつかれ、追い抜かれるなんて。宮崎先生は『日米先端特許戦争』(ダイヤモンド社)を1983年頃、かかれて、いち早く特許技術戦争に警鐘を鳴らされた。今回の中国の特許大躍進に関してどう考えておられますか?(HK生、千代田区)


(宮崎正弘のコメント)出願件数と特許成立件数を間違えていませんか。
 日本は特許を出願すると同時に審査請求する方式が主流で、出願の技法もベテラン、成立に自信を持っているのです。つまり精密に厳選したものを出願しているので、効率が良い。
 かたや中国はダボハゼ型。なんでもかんでも出願して「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」という姿勢のやりかたでは、まったく違います。出願件数はいくら多くても、それは問題ではなく、いや問題は審査に時間がかかりますからシステムそのものの障碍にもなりかねない。
 『クレヨンしんちゃん』の問題、「こまち」とか「軽井沢」とか勝手にブランド名を登録する遣り方。特許に関しても、中味が問題です。
 ただし日本の企業が訴訟をさけて、国際法務に通暁する特許弁理士、弁護士を育てずにきたことは、中国のようにすぐに訴訟をおこし、相手を陥れる術に長けたところと国民性がまるで異なる、つまりは文化の違いです。
 というわけで現段階は、中国の訴訟の遣り方に注意が必要。中味で日本が中国の脅威に晒されるのは、まだかなり先のことですよ。
  (読者投稿欄は下段につづきます)
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 755回】            
 ――戦闘遺址碑文が語る「不都合な真実」


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車窓から眼を遣ると輸送管の列が右に左に続き、かつての?緬公路を近くに遠くに眺めながら進むと、?町への街道沿いに「?西抗日戦争 黒山門戦闘遺址」が建っている。裏に廻ると碑文には、「1944年末、芒市失陥の後、残敵2000人余を黒山門に集め、回龍山一帯で陣地を構築し頑強な抵抗を試みた。

中国遠征軍は兵をと方面に分散して敵に接近し、1945年1月1日から18日の間、外囲の残敵を掃蕩し、19日21時に黒山門守備兵に総攻撃を仕掛ける。凡ての砲は一斉に火を吹き、黒山門は忽ちにして火の海と化した。砲火が止んだ後、我が軍兵士は敵陣に突入し日本軍と白兵戦を戦い、殺し尽くした。翌日午前10時、敵は戦線を支えられず、?町に向け壊走した。我が軍は勝利に乗じて追撃し、国門の?町を奪還した」と記されていた。

いまここで?西、つまり雲南省西部における日中両軍の戦闘の詳細を論ずることは控えるが、この地域における日本軍の情況を時間の経過を追って確認しておく必要はありそうだ。たとえばビルマから?緬公路を北上した日本軍の龍兵団が国境の?町から雲南省に入ったのが昭和17(1942)年5月3日。以後、龍陵(5月5日)、拉孟(5月6日)、騰越(5月30日)と快進撃を続け、かくて雲南省西部を流れる怒江(ビルマ領に入りサルウィン河となる)の西岸一帯、つまり?西を制し、重慶の蒋介石政権に圧力を掛けていった。

ところが昭和19(1944)年夏前後から蒋介石の信頼する衛立?将軍率いる中華民国側の雲南遠征軍が怒江を渡河し日本軍に襲いかかる。「師団司令部管理部衛兵隊」の「重機分隊のビリッケツの弾薬手」として戦線に赴いた古山高麗雄は『龍陵会戦』(文春文庫 2005年)で、日本軍に較べ「兵員は十五倍以上、火力は何十倍」の「雲南遠征軍は、蒋介石軍で、あのころ私たちは、米式重慶軍と言っていた」と綴っている。

ここでいう「十五倍以上」の兵員は中国兵で「何十倍」の火力は米軍の供与だ。前線であれ後方であれ、作戦全般は米軍主導の下で行われ、「米式重慶軍」とは米軍にとっての捨石でしかなかったのだ。

かくして日本軍は「兵員は十五倍以上、火力は何十倍」の「米式重慶軍」に立ち向かい、「陸の硫黄島」とまで形容されるほどに悲壮な死闘を余儀なくされる。龍兵団は拉孟(昭和19年9月7日)、騰越(9月14日)と玉砕を重ね、9月23日には拉孟南方の平戞を失い、11月5日に龍陵を、年が明けた昭和20(1945)年1月15日に国境の?町から撤退し、かくて2年9//