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国柄探訪: 歴史教科書読み比べ(3)
~ 渡来人から教わった稲作で弥生時代が始まった?

 近年の考古学の進展をまったく無視した東京書籍の歴史教科書。

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 韓国系米人が、「全米22カ所に慰安婦の碑」を建てようとしています。関連記事:
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120515/plc12051522070020-n1.htm
 米大統領への撤去請願の署名をお願いします。説明付き
http://www.nipponkaigi.org/wp-content/uploads/2012/05/whi-H-Syo01.pdf
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■1.「大陸(おもに朝鮮半島)から渡来した人々によって」

 東京書籍版(以下、東書)の歴史教科書は、弥生時代の始まりについて、こう述べている。

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 紀元前4世紀ごろ、大陸(おもに朝鮮半島)から渡来した人々によって、稲作が九州北部に伝えられ、やがて東日本にまで広まりました。[1,p19]
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 さらに銅剣、銅鏡などの青銅器、武器や農具の鉄器などの金属器も伝わった。「弥生土器という、新しい上質の土器」も作られるようになった。

 すなわち稲作、鉄器、弥生土器という新しい文明が、「大陸(おもに朝鮮半島)から渡来した人々」によって、もたらされたという。
 この歴史教科書を読むと、幕末・明治の日本人が渡来した欧米人によって西洋文明を学んだように、日本列島の遅れた縄文人が朝鮮半島からの渡来人に新しい文明を学んだ、というように思ってしまうが、それは正しい理解なのだろうか?


■2.両書の記述の食い違い

 一方、育鵬社版(以下、育鵬)の歴史教科書は、弥生文化の始まりを次のように記述している。

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 わが国には、すでに縄文時代末期に大陸からイネがもたらされ、畑や自然の湿地で栽培が行われていました。その後、紀元前4世紀ごろまでに、灌漑用の水路を伴う水田での稲作が、大陸や朝鮮半島から九州北部にもたらされると、稲作はしだいに広がり、東北地方にまで達しました。[2,p24]
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 細かく比較してみると、両書の記述はかなり食い違っている。

・稲作はいつ始まったのか?

 東書:「紀元前4世紀ごろ」(紀元前400-300年)
 育鵬:「稲作は縄文末期から」(紀元前1300 - 800年)
「水田での稲作は紀元前4世紀までに」(紀元前400-300年)

・稲作は、どのように伝えられたのか?

 東書:大陸(おもに朝鮮半島)から渡来した人々によって
 育鵬:大陸や朝鮮半島から

 さらに育鵬では、「水田稲作の伝来ルート」と題して、地図上に、朝鮮半島経由の他に、江南(長江下流部)から直接、北九州へのルート、台湾から沖縄経由で九州へのルートが図示されている。その上で「複数の説があり、山東半島から朝鮮半島経由のルートが最も有力とされている」と説明している。

 それぞれ、わずか数行の記述だが、両書の説くところはこれだけ違っているのである。


■3.稲作はいつ始まったのか?

 たとえば、最新の歴史全集である小学館の「日本の歴史シリーズ」第1巻で、サントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞した『列島創世記』(松木武彦)には、こんな一節がある。

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 かつて、弥生時代の開始を告げるもっとも明確な指標と考えられていたイネは、西日本ではすでに縄文時代後半から存在していた可能性が高いことがわかってきた。

土器の表面にイネ籾(もみ)の圧痕(あつこん)がついた確実な例は、約4500年前の縄文中期のものが今のところ最古だ。[3,p160]
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 またWikipediaの「稲作」の項では、次のように述べられている。
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 日本列島における稲作の歴史は長きに亘って弥生時代に始まるとされてきた。しかし、近年になって縄文後期中葉に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内からイネのプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が有力となってきた。[4]
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 これだけ見ても、東書の「紀元前4世紀ごろ、・・・稲作が九州北部に伝えられ」という一節が、こういう研究成果を無視していることが分かる。

 東書の著者はこの稲作を「水田での水稲耕作」という意味で使っており、陸稲は別の話と言い逃れることもできようが、文面ではあくまで「稲作」としか書いていないし、縄文時代に陸稲栽培がなされた史実にも触れていない。

 育鵬の「稲作は縄文末期」(紀元前約1300-800年)」という表現は、最近の学説まではいかないが、それでも稲作が縄文時代に遡ることは明記している。


■4.二つのまったく異なる縄文像

 東書の歴史教科書で学んだ中学生たちは、次のように理解するだろう。

東書: 縄文時代の日本人は農耕を知らず、紀元前400-300年頃、朝鮮半島から渡ってきた渡来人によって、ようやく稲作を教わった。
 一方、育鵬は縄文時代の項でも「クリやクルミ、あわやひえなども栽培しており、原始的な稲作も始まっていました」と紹介している。[a]

 すなわち、農耕技術はすでに縄文時代から発生しており、そこに外来種である稲が伝わってきて、新たな農耕の対象品目の一つとして加えられたのである。これと合わせ読めば、以下のように中学生たちは理解するだろう。

育鵬: 縄文時代の日本人はすでに様々な作物の農耕を行っていたが、紀元前1300-800年には大陸から伝わった稲を耕作に取り入れ、紀元前400-300年頃までには、灌漑用の水路を伴う水田での稲作が伝わって、全国に広まった。

 東書と育鵬の二つの縄文像がまったく異なることに注意したい。


■5.東北地方に伝わった水田技術

 すでに「クリやクルミ、あわやひえ」などの農耕を行っていた縄文人たちにとって、水田稲作を新しい技術レパートリーの一つとして取り入れることは、それほど大きな変化ではなかったようだ。この点は、『列島創世記』の中で紹介されている東北地方での最古の水田の記述から、窺うことができる。

 紀元前600-500年頃、東北でも北端に近い津軽平野に最初の水田が営まれている。青森県弘前市の砂沢遺跡である。なだらかな斜面に幅7~9メートル、長さ10メートルほどの6枚の水田と、水を引くための溝が作られていた。

 日本海の対馬暖流に乗って、海沿いに水田耕作技術が伝わってきた可能性が高いが、西日本の稲作につきものの石包丁や伐採用の大型石斧が見当たらない。また武器や青銅器もない。逆に、石剣や土偶など縄文風の文物が多数、見つかっている。

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イネそのものと、イネを栽培するという知識だけが、本来それに伴うべき道具のセットや、それを中心的な生業とする社会の形などから切り離されて、単独で伝わっているのだ。

おそらく、その知識を手がかりに、手持ちの道具を用いて、なかば自己流に開田・耕起・収穫などの作業を行ったのだろう。[3,p224]
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 縄文時代から地域間の交流・交易は、我々の想像する以上に進んでいた。[b]で述べたように、紀元前3500年頃から栄えた青森県の三内丸山遺跡では、新潟県のヒスイ、秋田県のアスファルト、岩手県のコハク、北海道の黒曜石などが見つかっている。

 したがって、日本海の対馬暖流を利用した交流を通じて、西日本のイネと水田耕作の知識が東北に持ち込まれて、そこで水田耕作が試みられたのであろう。そんな事が可能なのも、そもそも基盤となる農耕技術そのものが、確立していたためである。

 すなわち縄文人にとって、水田耕作の技術はそれまでの農耕技術の自然な発展の一段階ではあっても、従来の生活や社会を根底から覆すように革命的なものではなかった、と言えよう。


■6.イネのDNA分析で実証された大陸からの直接伝来ルート

 もう一つ、稲がどのように日本列島に伝わったかについても、先に述べたように、二つの教科書の記述は微妙な違いがある。