◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 366」
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前回、藤井茂参謀が山本には「第一線指揮官ではなく、中央に戻って軍政で活躍して欲しい」との熱望が諸方面から寄せられており、藤井も山本の資質を軍政向きと見ていたのだが、遂に実現することはなかった、と書いたが、このような海軍人事の欠点については、「勝つ司令部、負ける司令部」の著者、生出寿氏も、第一線部隊である連合艦隊司令部内における山本長官の人事采配についてこう書いている。
≪宇垣(参謀長)は山本に疎外され、そのために参謀たちからも浮いてしまっていたようである。それが何を意味するかといえば、山本は徹頭徹尾、「大鑑巨砲」による作戦を嫌っていたということであろう。島村速雄(日露戦争時代の指揮官)と違い、宇垣は剛毅で、自分の意見を強く主張し、他人の意見を注意深く聞こうとしない人物であった。人が頭を下げると自分は反らすというのがかれの返礼の仕方であったらしい。このようなことも、山本や多くの参謀と合わない原因になっていたようである≫宇垣参謀長の性格がどうであれ、国家挙げて戦をしている時、このような一致団結を阻害するような人事を発令する海軍のやり方には納得できないところがある。
生出氏は、宇垣長官が、終戦当日の昭和20年8月15日夕刻、彗星艦爆11機を率いて大分基地から沖縄特攻に向かったことを「終戦後でなかったならば、宇垣は名将として名をとどめたに違いない。終戦後ならば、やはり兵学校同期の大西瀧治郎中将のように、一人で自決するべきであった」としているが、宇垣中将は「われもまた、いつかは彼ら若人の後を追うものと覚悟しある…」と日誌に書いている。もちろん、生出氏が言うように、若者を道連れにすることなく、一人自決すべきであったと私も思う。しかし、彼が随伴を命じたのは5機であったにもかかわらず、11機、22人が整列していたということから、当時の雰囲気を知るに十分であろう。宇垣が書き残した「戦藻録」には、連合艦隊司令部に着任したころ、大鑑巨砲主義者の宇垣を山本が嫌い、黒島亀人先任参謀を重用したことに対する激しい怒りが書かれている。生出氏はこう書いている。
≪先任参謀の黒島亀人大佐は、宇垣とは反対に、東郷(平八郎)が作戦主任参謀に秋山眞之を見込んで指名したように、山本がその奇才にほれこみ、作戦主務の先任参謀に指名した。しかし、作戦家としての秋山と黒島の一番のちがいは、秋山の作戦計画が「現実にマッチする極めて合理的で堅実なもの」であったのにたいして、黒島のは「相手の意表を突く奇想天外なもの」というものであった。それは、東郷が合理的な戦法を好むのに対して、山本が「桶狭間とひよどり越と川中島を併せ行ふ」というような超合理的な戦法を好むことから、それに合う黒島が選ばれたといえそうである≫
超大国・米国との戦いなのだから、通常の戦法では無理だ、という状況は理解できる。しかしながら、大軍を動かす場合には、相当な事前の摺合せが肝心であるのもまた常識であろう。最高指揮官の頭脳に、末端の兵士がついていけるのかどうか?ハワイ奇襲作戦の場合には、世界を驚嘆させた我が兵士の一致協力と努力のたまものが功を奏したのであって、この奏功した戦法が、相手がある戦争で、どこまで通用できるのかは、いつに状況による。柳の下にいつまでも泥鰌はいない。怒りに燃えた米軍が、ありとあらゆる手法で反撃してくることが予想されるとき、「奇襲戦法」が通じるわけはない。奇襲戦法は、基本的には「相手が対応できない場合」にはハワイの様に成功の公算は高いが、相手が目覚めて、「正確に対応してくる場合」には功を奏さない。ハワイ作戦の大成功は、むしろ『ルーズベルトの仕掛けた罠』に連合艦隊が嵌ったというべきであり、事後の戦闘は、ほとんど成功の見込みはなかったはずであった。もちろん、正々堂々と横綱相撲が取れない我が方としては、黒島参謀のように「相手の意表を突く奇想天外なもの」を適度に採用しなければ成り立たなかったことも理解できる。
黒島参謀と同期(海兵44期)の松田千秋が「黒島君はアイデアはいいんだが、実行性があまりない」と言っていることを受けて、生出氏は「つまり堅実な思考力の持ち主ではないということだろう。奇策は、うまく相手の意表をつけた時は大成功するが、つけなかったばあいには大失敗する。しかし山本と黒島は、そういうものを好む性格だった。なにしろ山本はバクチが好きで、マージャン、トランプ、花札、将棋、ルーレットなどに目がなく、暇さえあればバクチをやっていて、それもブラフ(はったり)の手が多かったという」と書き、昭和17年11月、ガダルカナル島をめぐる戦いで、大和の作戦室で起きた出来事をこう書いている。
≪黒島と作戦参謀の三和義勇が激論となった。そこへ山本が入ってきて二人をしずめ、三和にいった。「黒島君が作戦に打ち込んでいるのは誰もがよく知っている。黒島君は人の考えおよばぬところ、気がつかぬところに着眼して、深刻に研究する。ときに奇想天外なところもある。しかも、それを直言して憚らぬ美点がある。こういう人がなければ、天下の大事は、なしとげられぬ。だからぼくは、だれが何といおうと、黒島を離さぬのだ(後略)」≫
まるで他の作戦参謀が無能であるかのような口ぶりである。これでは黒島は山本に“心酔”するだろうが、他の参謀はしらけるだろう。天下の大事には、司令部幕僚が一丸となって知恵を絞ることができるような雰囲気を作り、実力以上の力を出させるのが将たる者の務めではないか?(元空将)
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前回、藤井茂参謀が山本には「第一線指揮官ではなく、中央に戻って軍政で活躍して欲しい」との熱望が諸方面から寄せられており、藤井も山本の資質を軍政向きと見ていたのだが、遂に実現することはなかった、と書いたが、このような海軍人事の欠点については、「勝つ司令部、負ける司令部」の著者、生出寿氏も、第一線部隊である連合艦隊司令部内における山本長官の人事采配についてこう書いている。
≪宇垣(参謀長)は山本に疎外され、そのために参謀たちからも浮いてしまっていたようである。それが何を意味するかといえば、山本は徹頭徹尾、「大鑑巨砲」による作戦を嫌っていたということであろう。島村速雄(日露戦争時代の指揮官)と違い、宇垣は剛毅で、自分の意見を強く主張し、他人の意見を注意深く聞こうとしない人物であった。人が頭を下げると自分は反らすというのがかれの返礼の仕方であったらしい。このようなことも、山本や多くの参謀と合わない原因になっていたようである≫宇垣参謀長の性格がどうであれ、国家挙げて戦をしている時、このような一致団結を阻害するような人事を発令する海軍のやり方には納得できないところがある。
生出氏は、宇垣長官が、終戦当日の昭和20年8月15日夕刻、彗星艦爆11機を率いて大分基地から沖縄特攻に向かったことを「終戦後でなかったならば、宇垣は名将として名をとどめたに違いない。終戦後ならば、やはり兵学校同期の大西瀧治郎中将のように、一人で自決するべきであった」としているが、宇垣中将は「われもまた、いつかは彼ら若人の後を追うものと覚悟しある…」と日誌に書いている。もちろん、生出氏が言うように、若者を道連れにすることなく、一人自決すべきであったと私も思う。しかし、彼が随伴を命じたのは5機であったにもかかわらず、11機、22人が整列していたということから、当時の雰囲気を知るに十分であろう。宇垣が書き残した「戦藻録」には、連合艦隊司令部に着任したころ、大鑑巨砲主義者の宇垣を山本が嫌い、黒島亀人先任参謀を重用したことに対する激しい怒りが書かれている。生出氏はこう書いている。
≪先任参謀の黒島亀人大佐は、宇垣とは反対に、東郷(平八郎)が作戦主任参謀に秋山眞之を見込んで指名したように、山本がその奇才にほれこみ、作戦主務の先任参謀に指名した。しかし、作戦家としての秋山と黒島の一番のちがいは、秋山の作戦計画が「現実にマッチする極めて合理的で堅実なもの」であったのにたいして、黒島のは「相手の意表を突く奇想天外なもの」というものであった。それは、東郷が合理的な戦法を好むのに対して、山本が「桶狭間とひよどり越と川中島を併せ行ふ」というような超合理的な戦法を好むことから、それに合う黒島が選ばれたといえそうである≫
超大国・米国との戦いなのだから、通常の戦法では無理だ、という状況は理解できる。しかしながら、大軍を動かす場合には、相当な事前の摺合せが肝心であるのもまた常識であろう。最高指揮官の頭脳に、末端の兵士がついていけるのかどうか?ハワイ奇襲作戦の場合には、世界を驚嘆させた我が兵士の一致協力と努力のたまものが功を奏したのであって、この奏功した戦法が、相手がある戦争で、どこまで通用できるのかは、いつに状況による。柳の下にいつまでも泥鰌はいない。怒りに燃えた米軍が、ありとあらゆる手法で反撃してくることが予想されるとき、「奇襲戦法」が通じるわけはない。奇襲戦法は、基本的には「相手が対応できない場合」にはハワイの様に成功の公算は高いが、相手が目覚めて、「正確に対応してくる場合」には功を奏さない。ハワイ作戦の大成功は、むしろ『ルーズベルトの仕掛けた罠』に連合艦隊が嵌ったというべきであり、事後の戦闘は、ほとんど成功の見込みはなかったはずであった。もちろん、正々堂々と横綱相撲が取れない我が方としては、黒島参謀のように「相手の意表を突く奇想天外なもの」を適度に採用しなければ成り立たなかったことも理解できる。
黒島参謀と同期(海兵44期)の松田千秋が「黒島君はアイデアはいいんだが、実行性があまりない」と言っていることを受けて、生出氏は「つまり堅実な思考力の持ち主ではないということだろう。奇策は、うまく相手の意表をつけた時は大成功するが、つけなかったばあいには大失敗する。しかし山本と黒島は、そういうものを好む性格だった。なにしろ山本はバクチが好きで、マージャン、トランプ、花札、将棋、ルーレットなどに目がなく、暇さえあればバクチをやっていて、それもブラフ(はったり)の手が多かったという」と書き、昭和17年11月、ガダルカナル島をめぐる戦いで、大和の作戦室で起きた出来事をこう書いている。
≪黒島と作戦参謀の三和義勇が激論となった。そこへ山本が入ってきて二人をしずめ、三和にいった。「黒島君が作戦に打ち込んでいるのは誰もがよく知っている。黒島君は人の考えおよばぬところ、気がつかぬところに着眼して、深刻に研究する。ときに奇想天外なところもある。しかも、それを直言して憚らぬ美点がある。こういう人がなければ、天下の大事は、なしとげられぬ。だからぼくは、だれが何といおうと、黒島を離さぬのだ(後略)」≫
まるで他の作戦参謀が無能であるかのような口ぶりである。これでは黒島は山本に“心酔”するだろうが、他の参謀はしらけるだろう。天下の大事には、司令部幕僚が一丸となって知恵を絞ることができるような雰囲気を作り、実力以上の力を出させるのが将たる者の務めではないか?(元空将)
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