【「老台北(ラオタイペイ)」にお会いしました】
4月26日「第17回李登輝学校研修団」に参加して台湾へ行ってきまし た。首都・台北(タイペイ)に着いて一休みして、夕方、蔡焜燦(さい こんさん)氏の講義がありました。『台湾と日本精神―日本人よ、胸を張りなさい』(小学館)『これが植民地の学校だろうか―母校「清水公学校」』(榕樹文化)など、日本でも本を何冊も出されているのでご存知の方も多いと思います。司馬遼太郎の『街道をゆく―台湾紀行』の中に「老台北」という愛称でしょっちゅう登場する方でもあります。
蔡焜燦さんは実業家で半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」=偉詮電子株式会社の名誉会長であり、「李登輝民主協会」会長でもあります。李登輝さんの右腕、と言っても良いでしょう。昭和2年(1927年)生まれということですから今、85歳。満面の笑顔で私たちを迎えてくださいました。講義のテーマは「台湾と日本の歴史―両国の友情の絆」、通訳はもちろん必要ありません。
去年、東日本大震災が発生した時、台湾が真っ先に救援隊を送る、と申し出てくれたことはまだ記憶に新しいできごとです。義援金の額も台湾はなんと世界一でした。蔡焜燦さんはそのことをとても「誇らしい」とおっしゃいました。そして、それは1999年9月21日(台湾では「921地震」と呼びます)、台湾で大地震が 起きたとき、日本から民間の救援隊が真っ先に駆けつけてくれたことを台湾の人々は忘れなかったからだ、と おっしゃいました。
日清戦争に勝って1895年、日本は清(しん)から台湾を割譲されました。その時、清側の代表だった李鴻章(りこうしょう)は台湾を「化外(けがい)の地」、つまり未開の土地、と呼びました。こんな野蛮な、荒れ果てた土地なんか日本にやるから勝手にしろ、という意味です。実際、当時の台湾はこれといった産業もなく、鉄道も道路もダムもなく、亜熱帯特有の風土病が蔓延する貧しい土地でした。台湾には3000メートル以上の山が258もあり、さまざまな民族が住んでいました。日本人はもともと台湾のことを「高砂(たかさご)」と呼んでいたので山岳民族のことを「高砂族」と呼びました。今でも結婚式の時に「高砂や~~」って歌いますよね?「高砂」は良い意味の言葉なのです。
当時、台湾には言葉も風俗・習慣もさまざまな民族がいました。中国大陸から来た者もいたし、原住民もいました。いくら日本が統治するようになったからといってある日突然、日本人になれと言ってもなかなか受け入れられないでしょう。そこで台湾の初代総督、樺山資紀(すけのり)は2年間の猶予を与えたそうです。2年経って、日本人になってもいいと思ったら国籍を取りなさい、と言ったそうです。
日本政府が台湾を統治する方針は「内地並みにする」ことでした。内地、つまり日本列島に住む日本人と同じぐらいのレベルの生活水準にする、ということです。1895年6月7日、台北城に無血入城した日本軍は6月9日、早くも「基隆(きーるん)病院」を開設、13日には伊藤博文を局長とした「台湾事務局」を設置して 医師1人、看護婦20人、薬剤師9人を送りこんでいます。第4代の児玉源太郎総督時代に内務省衛生局長をしていたのが有名な後藤新平です。後藤は台湾に医療衛生を普及させることに情熱を注ぎました。医療機関を充実させ、医師を養成し、今でも「台湾近代化の父」として尊敬されています。
日本人は台湾人に二つのことを教えた、それは「公」と「私」の区別、そして「モノ作りの精神」だ、と蔡焜燦さんはおっしゃいます。「東南アジアの経済は華僑が握っています。しかし華僑は金融にしか興味がありません。モノ作りの精神は彼らにはないのです。しかし台湾には世界一のメーカーがいくつかあります。これは日本人がモノ作りの精神を教えてくれたからです」。
昭和7年(1932年)、ロサンゼルスオリンピックで日本は金メダルを7つ、取ったそうです。当時、蔡焜燦さんはまだ5歳だったわけですが、その時の感激を今でも覚えているそうです。その時に歌った「あがる日の丸」という歌を最後に歌ってくださいました。蔡焜燦さんは包み込むような暖かーい雰囲気の方で、なにか田舎のおじいさんに会ったような気がして胸が熱くなりました。
花時計:岡真樹子

