目次
◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 364」
◎西村真悟 菊池千本槍と台湾の刀(台湾で、その4)
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◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 364」
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ところで、ミッドウェー海戦に至る前、つまり、海軍が真珠湾攻撃に成功し、陸海軍とも南方資源地帯攻略に一応の成果を収めたので、次の第2段作戦をどうするかで陸海軍が対立した。矢次氏はこれを「クモの巣論争」と称して、次のように書いている。
≪簡単に言うと、南方諸地域に、戦略基地網をクモの巣のように張り巡らし、反攻してくる米英艦隊を、クモともいうべき日本海軍が随所に引っ捕え、これを撃滅するということをもって、大方針としようというのであった。だから防御作戦第一であり、シンガポール攻略もすでに時間の問題となっていた十七年二月下旬、陸海軍の一〇課長(両軍の軍事、軍務、作戦、戦争指導、編成各課長)会議が、まずこれを取り上げた≫
つまり、今後どう作戦を指導するかについて、陸海軍の中堅責任者が話し合ったのだが、この席上で突如海軍側が「豪州作戦」を持ち出したので陸軍は驚愕したという。これは、緒戦の戦勝で勢いづいた海軍が、当初全く予定になかった豪州作戦を実施することで、「米艦隊をおびき出し、叩き潰そうというもの」だったが、陸軍側がまず「クモの巣」を張り巡らし、そのうえで反撃攻勢を行うべきだと激しく反対した。その根拠は、我が国の保有船舶量が不足していて、このような船舶事情の時に豪州作戦を行えば、陸軍だけでも新たに150万トンの徴用が必要で、国家の心臓がマヒしてしまう、というのである。
≪だから陸軍は、海軍に対して、真珠湾奇襲に成功し、更にマレー沖で英国戦艦レパルスとキング(プリンス)・オブ・ウェールスを撃沈したことで、有頂天になりすぎているのであろう、と反対するのである。そして陸軍の体質ともいうべき長期戦論と、海軍の体質である短期決戦論とが論争の花を咲かせるのであるから、容易に決着のつく問題ではない。なかでも石川信吾(海軍軍務課長・筆者注:海兵42期=砲術)の如きは、米太平洋艦隊撃滅のための豪州作戦と合わせて、英国屈服のためのインド洋作戦もやれ、という荒い鼻息であった。かくて数日論争してもまとまらず、ついに両軍作戦部長、両軍軍務局長が出て調整した結果、三月七日の連絡会議でようやく妥協が成立した。この妥協は海軍の初めの主張である「豪州作戦」と「インド洋作戦」、および「ハワイ占領作戦」もともに採用されなかったが、ただ米豪連絡遮断目的でフィジー、サモア、ニューカレドニアの攻略作戦(FS作戦)と、豪州からの反攻を制する意味でのニューカレドニア南岸の要衝ポートモレスビ
ー攻略を決定している≫
ややもすれば、今次大戦では“軍国主義にこり固まった”陸軍が「強硬意見の持ち主」であり、“視野の広い”海軍は「紳士的だった」かのような評価が一般的に定着しているが、この激しい論争を見れば、戦勝に酔った海軍若手の鼻息は、陸軍の若手参謀たちよりもはるかに強かったということが判る。
いずれにせよ、「意図しなかった」大東亜戦争に飛び込まざるを得なかったのだから国家戦略は確立しておらず、陸海軍間の摺合せがされていなかった以上、このような混乱はやむを得ないと言えばそれまでだが、その後戦中にかけて陸海軍間の意思疎通が図られることなく、場当たり的対応で国家の命運をかけた戦が継続されたのは、国家にとっては悲劇であったということができそうである。矢次氏は続ける。
≪戦後、軍事評論家の伊藤正徳は、この時の「妥協」を批判した記述を残しているが、確かにそのとおりであり、国運を賭した作戦計画に「二で割るような」妥協はあり得ず、この場合、両軍幹部は取っ組み合ってもよいから、徹底的に論議を重ね、統一した作戦方針を立てるべきであった。しかし海軍は終始、強気一方であり、陸軍は、腹を立てながら、対米戦は海軍が主役だからと、遠慮したり、妥協したり、という態度であり、この点では、剛毅で、独裁者と言われた東条首相といえども例外ではなかったのである。したがって、以後の戦争は、これが最大の禍根になっているし、突如としてその後に持ち出され、両軍激論の末、ついに海軍が陸軍を引き摺った形で強行した、五月二七日のミッドウェイ大作戦など、空母四隻を含む致命的大打撃を受け、以後の海軍を「しゅん」とさせてしまった如き、自業自得とはいうものの、すべてこの「禍根」の故である≫
「海軍の自業自得」で済めばいいが、それが国家の敗北につながるのだからたまらない。「北進か南進か」で混乱していた時も、突如として海軍は「東進」して強大な敵を本気で怒らせた。そして一段落後の第二弾作戦でも、陸海軍間で大揉めに揉め、「妥協の産物」的作戦で準備を始めた矢先に、ドウリットルが仕掛けた「博打」に引っかり再び陸海軍間の激論の末に、山本提督は強引にミッドウェー作戦を強行して大敗北を喫した。
山本は以前、桑原虎雄少将に対して、日本が大幅に譲歩すれば講和への希望はあるような話をしているが、「結局、斬り死にするほかなかろう」と政治への失望も語っているから、どこかに“自暴自棄”的様子が嗅ぎ取れる。他方、藤井茂参謀によれば、山本には「第一線指揮官ではなく、中央に戻って軍政で活躍して欲しい」との熱望が諸方面から寄せられており、藤井も山本の資質を軍政向きと見ていたのだが、遂に実現することはなかったという。偉大なる提督として戦死後元帥に叙せられた山本だが、やはり大海軍の実力部隊を率いる人材ではなかったいうべきではないのか?矢次氏は、「ここで、少しばかり山本五十六について寸評を加えておきたいと思う」として、次のように山本元帥を批判している。(元空将)
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◎西村真悟 菊池千本槍と台湾の刀(台湾で、その4)
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掲載済み
◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 364」
◎西村真悟 菊池千本槍と台湾の刀(台湾で、その4)
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◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 364」
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ところで、ミッドウェー海戦に至る前、つまり、海軍が真珠湾攻撃に成功し、陸海軍とも南方資源地帯攻略に一応の成果を収めたので、次の第2段作戦をどうするかで陸海軍が対立した。矢次氏はこれを「クモの巣論争」と称して、次のように書いている。
≪簡単に言うと、南方諸地域に、戦略基地網をクモの巣のように張り巡らし、反攻してくる米英艦隊を、クモともいうべき日本海軍が随所に引っ捕え、これを撃滅するということをもって、大方針としようというのであった。だから防御作戦第一であり、シンガポール攻略もすでに時間の問題となっていた十七年二月下旬、陸海軍の一〇課長(両軍の軍事、軍務、作戦、戦争指導、編成各課長)会議が、まずこれを取り上げた≫
つまり、今後どう作戦を指導するかについて、陸海軍の中堅責任者が話し合ったのだが、この席上で突如海軍側が「豪州作戦」を持ち出したので陸軍は驚愕したという。これは、緒戦の戦勝で勢いづいた海軍が、当初全く予定になかった豪州作戦を実施することで、「米艦隊をおびき出し、叩き潰そうというもの」だったが、陸軍側がまず「クモの巣」を張り巡らし、そのうえで反撃攻勢を行うべきだと激しく反対した。その根拠は、我が国の保有船舶量が不足していて、このような船舶事情の時に豪州作戦を行えば、陸軍だけでも新たに150万トンの徴用が必要で、国家の心臓がマヒしてしまう、というのである。
≪だから陸軍は、海軍に対して、真珠湾奇襲に成功し、更にマレー沖で英国戦艦レパルスとキング(プリンス)・オブ・ウェールスを撃沈したことで、有頂天になりすぎているのであろう、と反対するのである。そして陸軍の体質ともいうべき長期戦論と、海軍の体質である短期決戦論とが論争の花を咲かせるのであるから、容易に決着のつく問題ではない。なかでも石川信吾(海軍軍務課長・筆者注:海兵42期=砲術)の如きは、米太平洋艦隊撃滅のための豪州作戦と合わせて、英国屈服のためのインド洋作戦もやれ、という荒い鼻息であった。かくて数日論争してもまとまらず、ついに両軍作戦部長、両軍軍務局長が出て調整した結果、三月七日の連絡会議でようやく妥協が成立した。この妥協は海軍の初めの主張である「豪州作戦」と「インド洋作戦」、および「ハワイ占領作戦」もともに採用されなかったが、ただ米豪連絡遮断目的でフィジー、サモア、ニューカレドニアの攻略作戦(FS作戦)と、豪州からの反攻を制する意味でのニューカレドニア南岸の要衝ポートモレスビ
ー攻略を決定している≫
ややもすれば、今次大戦では“軍国主義にこり固まった”陸軍が「強硬意見の持ち主」であり、“視野の広い”海軍は「紳士的だった」かのような評価が一般的に定着しているが、この激しい論争を見れば、戦勝に酔った海軍若手の鼻息は、陸軍の若手参謀たちよりもはるかに強かったということが判る。
いずれにせよ、「意図しなかった」大東亜戦争に飛び込まざるを得なかったのだから国家戦略は確立しておらず、陸海軍間の摺合せがされていなかった以上、このような混乱はやむを得ないと言えばそれまでだが、その後戦中にかけて陸海軍間の意思疎通が図られることなく、場当たり的対応で国家の命運をかけた戦が継続されたのは、国家にとっては悲劇であったということができそうである。矢次氏は続ける。
≪戦後、軍事評論家の伊藤正徳は、この時の「妥協」を批判した記述を残しているが、確かにそのとおりであり、国運を賭した作戦計画に「二で割るような」妥協はあり得ず、この場合、両軍幹部は取っ組み合ってもよいから、徹底的に論議を重ね、統一した作戦方針を立てるべきであった。しかし海軍は終始、強気一方であり、陸軍は、腹を立てながら、対米戦は海軍が主役だからと、遠慮したり、妥協したり、という態度であり、この点では、剛毅で、独裁者と言われた東条首相といえども例外ではなかったのである。したがって、以後の戦争は、これが最大の禍根になっているし、突如としてその後に持ち出され、両軍激論の末、ついに海軍が陸軍を引き摺った形で強行した、五月二七日のミッドウェイ大作戦など、空母四隻を含む致命的大打撃を受け、以後の海軍を「しゅん」とさせてしまった如き、自業自得とはいうものの、すべてこの「禍根」の故である≫
「海軍の自業自得」で済めばいいが、それが国家の敗北につながるのだからたまらない。「北進か南進か」で混乱していた時も、突如として海軍は「東進」して強大な敵を本気で怒らせた。そして一段落後の第二弾作戦でも、陸海軍間で大揉めに揉め、「妥協の産物」的作戦で準備を始めた矢先に、ドウリットルが仕掛けた「博打」に引っかり再び陸海軍間の激論の末に、山本提督は強引にミッドウェー作戦を強行して大敗北を喫した。
山本は以前、桑原虎雄少将に対して、日本が大幅に譲歩すれば講和への希望はあるような話をしているが、「結局、斬り死にするほかなかろう」と政治への失望も語っているから、どこかに“自暴自棄”的様子が嗅ぎ取れる。他方、藤井茂参謀によれば、山本には「第一線指揮官ではなく、中央に戻って軍政で活躍して欲しい」との熱望が諸方面から寄せられており、藤井も山本の資質を軍政向きと見ていたのだが、遂に実現することはなかったという。偉大なる提督として戦死後元帥に叙せられた山本だが、やはり大海軍の実力部隊を率いる人材ではなかったいうべきではないのか?矢次氏は、「ここで、少しばかり山本五十六について寸評を加えておきたいと思う」として、次のように山本元帥を批判している。(元空将)
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◎西村真悟 菊池千本槍と台湾の刀(台湾で、その4)
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