

















日本の心を伝える会
メールマガジンNo.492
2012/5/10









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■□【1】静御前の舞(1/2)
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今日明日と、二日連続でお届けするのは、静御前のお話です。いまから600年ほど前に書かれた義経記に登場する、この静御前のお話は、日本女性の素晴らしさを象徴しているようにも思います。
ちなみに、静御前は「薙刀(なぎなた)」の名手としても有名です。江戸時代、武家の女性たちは好んで薙刀の稽古をしましたが、そこには静御前へのあこがれがあったともいわれています。
さて、時は、いまから800年前の、文治二(1186)年4月8日です。当時、鎌倉に幽閉されていた静御前は、この日頼朝の指示で舞を舞いました。
場所は鎌倉、桜が満開の鶴岡八幡宮です。舞台の前には、正装した鎌倉の武士達が、場内を埋め尽くしていました。
全員が、頼朝の配下たちです。静御前は、義経方です。つまり、敵です。静御前は、鶴岡八幡宮を埋め尽くす満座の敵の武将たちの中に引き出された、たったひとりの女性だったわけです。
静御前は、大和の吉野山まで逮捕され、厳しい取り調べのあと、鎌倉へ護送されました。牢に入れられ、毎日厳しい取り調べを受けました。
静御前は、前年の飢饉の際に「雨乞い神事」を行い、ただひとり雨を降らせる事ができた「神に届く舞」を舞う白拍子として、後白河法皇から「都一」のお墨付きをいただいている女性でもあります。当時は、文化の中心地は京の都でしたから、「都一」は、当代随一、日本一の舞を舞う女性とされていたのです。だから鎌倉で行われる鶴岡八幡宮の花見の席で「舞え」と命じられました。御前にしてみれば、できる相談ではありません。
「私は、もう二度と舞うまいと心に誓いました。いまさら病気のためと申し上げてお断りしたり、わが身の不遇をあれこれ言う事は出来ません。けれど、義経の妻として、この舞台に出るのは、恥辱です」
八幡宮の廻廊に召し出された静御前は、舞うことを断りました。
静御前が、舞わないと聞いた将軍の妻北条政子は、たいへん残念に思いました。
新興勢力である鎌倉幕府記念の鶴岡八幡宮での大花見会なのです。
「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なこと」政子は頼朝に、再度、静御前を舞わせるよう頼みます。
頼朝は、「舞は八幡大菩薩にお供えするものである」と静御前に話すよう指示しました。
単に、花見の見せ物として舞うのと、鶴岡八幡宮に奉納するのとでは、意味が違います。神への奉納となれば、これは神事だからです。神に捧げる舞を持つ白拍子として静御前は、そう言われれば断ることはできません。
静御前は、着替えを済まし、舞台に出ます。あたり一面を埋め尽くした鎌倉武将達の前です。
静御前は、一礼すると、扇子をとります。そして、舞を舞いはじめる。
曲目は、「しんむしょう」という、謡曲です。歌舞の伴奏には、畠山重忠・工藤祐経・梶原景時など、鎌倉御家人を代表する武士たちが、笛や鼓・銅拍子をとる。
満員の境内の中に桜が舞います。その桜と、春のうららかな陽光のもとで、静御前が舞う。素晴らしい声、そして素晴らしい舞です。
ただ、ものたりない。何か心ここにあらず、です。
続けて静御前は「君が代」を舞います。舞に、いまひとつ心がこもらない。
ちょっと脱線しますが義経記には、ここでたしかに静御前が「君が代」を舞ったという記載があります。
日教組に代表される戦後左翼は、ずっと「君が代」は軍国主義のための天皇礼賛、戦争礼賛の曲であると主張し続けているけれど、とんでもないいいがかりです。大東亜戦争よりも800年以上前に、静御前がこうして君が代を舞っています。君が代が我が国に歌として登場するのは、醍醐天皇が勅命で編纂した「古今和歌集」(延喜5(905年)が初出です。この巻7、賀歌の初めに「題しらず」「読み人知らず」で掲載されています。
もっといえば、君が代の「きみ」とは、漢字で書いたら「君」ですが、そもそも日本語は、一音一音に深い意味を込める言語で、「き」は男性、「み」は女性を表す言葉です。ですからイザナ「キ」、イザナ「ミ」、おきな(翁)、おみな(嫗)だし、そもそも「おんな(女)」は、「おみな→おうな」が「おみなご」→女子となったものです。
つまり「きみがよ」の「きみ」とは、き(男)み(女)であり、貴方と私、君とボク、の意ととることもできます。ですから、「君が代は千代に八千代に」は、「貴女と私の世は、未来永劫に」と読めるわけで、だからこそ君が代は江戸時代から明治初期にかけて、婚礼の際の祝い歌として歌い継がれてもきたのです。
さて、話がだいぶ脱線しました。鶴岡八幡宮です。
場内から声が飛びました。
「なんだ、当代随一とか言いながら、この程度か?」「情けない。工藤祐経の鼓がよくないのか?それとも静御前がたいしたことないのか?」会場が騒然となります。
敵の中にたったひとりいる静御前にとって、そのざわめきは、まるで地獄の牛頭馬頭のたちのうなり声のようにさえ聞こえたかもしれない。
二曲を舞い終わった静御前は、床に手をつき、礼をしたまま舞台でかたまってしまいます。そのまま、じっと動かない。
「なんだ、どうしたんだ」
会場のざわめきが大きくなります。けれど静御前は動かない。
このとき御前は何を思っていたのでしょう。遠く、離ればなれになった愛する夫の義経。二度と逢えない義経。自分は、もうすぐ殺されるかもしれない。これが最後の舞となる。逢いたい、逢いたい。義経さまに、もういちど逢いたい。
舞台でピクリとも動かなくなった静御前のこのときの脳裏には、愛する義経の姿が、はっきりと浮かんでいたのかもしれません。
「義経記」ではこのくだりを、「詮ずる所敵の前の舞ぞかし、思ふ事を歌はばやと思ひて」とあります。
どうせ敵の前じゃないか。
いっそのこと、思うことを歌ってやろう!
そう心に決めた静御前は、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと立ち上がります。
それまでざわついていた鎌倉武士たちが、何が始まるのだろうと、徐々に静まりかえって行きます。
そして、しわぶきひとつ聞こえなくなったとき、静御前が手にした扇子を、両手で前に差し、歌いはじめます。
いつも私を、静、静、
苧環(をだまき)の花のように美しい静
そう呼んでくださった義経様
幸せだったあのときに戻りたい
吉野山で雪を踏み分け
山に去って行かれた愛する義経様
残されたあのときの義経様の足跡が、
いまも愛しくてたまらない。
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♪しづやしづ
しづの苧環(をだまき)繰り返し
むかしを今に なすよしもがな♪
吉野山 嶺の白雪 ふみわけて
入りにし人の 跡ぞ恋しき
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歌いながら、舞う。舞いながら歌う。
まさにその姿は、神です。
美しい。あまりにも美しい。
まさに おだまきの花が舞っているようです。
苧環 (をだまき)の花
4月から5月にかけて咲く花です。
http://blog-imgs-46-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/20120422075409a7f.jpg
この「しづやしづ」を、静御前が白拍子だったから賤(しず)である、などと書いている最近の学者さんの本があるけれど、とんでもない話です。義経は、静御前を「苧環(おだまき)の花」に例えているのです。
映画やドラマなどでは、静御前はいろいろな女優さんが演じ、私たちはその映像を観ます。けれど物語は千年前です。映像なんてない。だから昔の人は、文字にできない部分を、背景や花でイメージさせます。
静御前は、苧環(おだまき)の花に例えられます。背景は、満開の桜の花です。薄桃色一色に染まった背景の中で、おだまきの青い花が舞う。
このようにして物語を立体的な総天然色の世界として読み手にイメージさせるのが日本の古典文学の特徴です。「賤」なんて、とんでもない。