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 『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成24年(2012)5月8日(火曜日)
    通巻第645号  
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《義烈千秋天狗党西へ》備忘録
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西 法太郎

・天狗党とは幕末期水戸藩の尊皇攘夷派を指すが、この呼び名は、天保の藩政改革を烈公斉昭が実施した際、下士層から多くの登用を行ったことに危機感を抱いた上士層、いわゆる保守門閥派が、下士層に対して使ったのが発端だったが、改革派みずから天狗党と称したことで定着した。

悲惨な水戸藩の内訌はまず斉昭の強引な人事に元因があった。そして幕閣からの天狗党引き渡し要求に対して何の反論も無く応じた思いやりのない保身しか考えない無責任な慶喜に直因がある。

これで慶喜は自分の将来を棒に振った。なぜなら天狗党を見捨てることは全国尊攘派志士の信望を失うことにつながったからだ。それが幕閣との関係維持などと比べものにならないほど重要なことに、この小才子は気づかなかった。このようなキャラはあの時代においては今とは逆に稀有のものだった、とさ。

・投降し幕府により処刑された隊士は352人に達した。

この前代未聞の虐殺を聞いた大久保利通は、その日記に「これをもって幕府滅亡のしるし」と記し、勝海舟は「これがため志士いっそう憤慨の心を激動し」と、この後の動乱を予見している。

・天狗党に対立する諸生党により水戸藩の獄につながれていた隊士の家族はことごとく首打たれ、永牢とされた妻子眷属も劣悪な環境の中で、ほぼ全員が病死した。その中には2才の赤子もいた。


・武田耕雲斎の妻は耕雲斎の首を抱えさせられたまま首打たれ、11才の娘、8才と3才の男子まで斬罪となった。耕雲斎の長男の妻(藤田東湖の妹)、15才、13才、10才の息子たちも処刑された。

かくして水戸藩にとっての「回天維新」とは、血で血を洗う殺戮の歴史でしかなかった。天保10年(1839)の水戸藩家臣団名簿に、3449人ある名が、慶応4年(1868)にはわずか892に減っていた。

天狗党と文学者の繋がり
(1)立原道造  義公水戸光圀が始めた「大日本史」編纂事業を中興した立原翠軒の弟子は藤田幽谷であったが、二人は編纂方針をめぐり対立し、ついには義絶した。最終的に幽谷の方針が藩に認められ、翠軒は致仕(辞職)し、不遇な晩年を送った。この翠軒の孫朴次郎と幽谷の孫(藤田東湖の子)小四郎は共に天狗党となったが、戦闘方針をめぐり鋭く対立した。朴次郎は諸生党隊士に討ち取られ立原家は家名断絶となったが、一人息子は生き残り、その家系から昭和を代表する詩人立原道造が出た。三島由紀夫は若くして散った道造の詩才を高く評価した。

(2)島崎籐村  京を目指して西行する天狗党隊は木曽谷を経て馬籠宿に至り、本陣をやっていた籐村の実家に寄る。この時のことは《夜明け前》に詳しい。主である籐村の父正樹(作中名は青山半蔵)は、同じ平田篤胤門下の亀山勇右衛門と夜を撤して語り合った。
勇右衛門はこのとき、
「木曽山の八岳踏み越え君が辺に草むす屍ゆかむとぞ思う」
と一首詠んでいる。


(3)坪内逍遥  木曽川を渡った西岸にある太田宿は代官所が治める幕府直轄領だが、この代官所上席手代は坪内平之進で、その末子、5才勇蔵は隊士から「大きくなったら立派な人になれ」と頭を撫でられた。この勇蔵こそ後の坪内逍遥だった。

水戸から京を目指して行く途中、天狗党隊は信濃の国を通過した。上野の国から内山峠を越えて平賀、芦田、岩村田、望月、笠取峠、長久保、和田、和田峠、下諏訪へと抜ける。
・関連の地名や名称を列記すると平賀宿、野沢村、茂田井宿、芦田宿、望月御牧、布施川、依田川、八幡宿、長久保宿、和田宿、小諸藩、上田藩・・・。

・天狗党と松本藩、諏訪藩との間で和田峯合戦があった。干草(ひぐそ)山、普寛山、渡世筒(猟師稼業)、車山、砥沢、香炉岩、西餅屋、樋橋村、東餅屋村、砥川などなど。
                        (つづく)

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◆BOOKREVIEW ◆書評 ◇しょひょう ◇ブックレビュー ★
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西村幸祐著 『「反日」の構造』文芸社文庫 
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 西村幸祐氏の『「反日」の構造』を再読した。
大東亜戦争や、八紘一宇等の戦時中に用いられた言葉がGHQにより封印され、CCD(民間検閲支隊)が解散した後においても、自己検閲なる巧みな洗脳を日本人に施しその言語的ドームによって日本人が幼稚化し冷静な歴史判断不全に陥ってしまったことを筆者は資料や証言を用いて的確に指摘しているのだ。そして「国家」が何も主体的に決断できなくなってしまった根源として「日本国憲法」が深く国民の心に根差していることを教えてくれる。 

著者がその幼稚化の警鐘の第一幕として挙げているのが三島由紀夫の『檄』である。
「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか」
そして三島と友人だった石原慎太郎は国会議員25年表彰時に日本を「去勢された宦官」と切って捨てた。

あのイラクで不慮の死を遂げた奥、井ノ上両氏を死に追いやった源泉に横たわる日本国憲法の曖昧さを西村氏は指摘する。そして三島由紀夫が現在から42年前にその警鐘を鳴らしていた事実を指摘し、「2ちゃんねる」等のネットメディアが日本を危機に追いやった「朝日新聞」と対決していた事を詳細な取材で明らかにするのだ。靖国神社公式参拝を事件化したのは三木武夫元首相であり、「朝日新聞」であり、加藤千洋であった。ニュースソースを捏造し日本人の頭に塗り込んできた朝日新聞であるが、著者は2002年に行われた日韓ワールドカップにおいても如何なく発揮されたと言う。中田引退記事など、韓国よりに媚びた記事を流布してきた朝日の戦歴を改めて総覧すると呆れるほかないだろう。

西村氏は新作『オンリーイエスタディ』において自虐史観教育の根は1982年の『近隣条項』であると述べているが、『「反日」の構造』とセットで読むと自虐報道、教育の遍歴がより重層的に、立体的に浮かび上がるのである。『「反日」の構造』で重要であると改めて感じたのは、小泉政権下で言われていた支那の王毅駐日中国大使が何度も述べていた「政冷経熱」という言葉や、朝日新聞が社説でほざいていた「靖国に参拝するから」日支関係が悪化するという嘘、テレビ東京が番組の中で「政治関係の冷却とは靖国参拝であり、政治関係が改善すれば、両国の経済関係は競争ではなく緊密な「日中経済共同体」になる」なる嘘を平気で垂れ流し、社内で全く検証されていない状況は欺瞞であるとしか言いようがない。わが国と支那は内閣総理大臣の靖国神社参拝がなくなっても、政治的経済的に関係が悪化しているのは他言を要さぬ事実であるからだ。

西村氏の『「反日」の構造』はそう簡単に拭うことができないGHQ,朝日新聞等の報道機関から連なる自虐史観報道の源流を詳らかに示唆してくれるだけではなく、この洗脳の根がいかに深いものか改めて再認識させてくれる名著である。
そして近著の『オンリーイエスタディ』を紐解けば日本の近現代の政治、文化両面から網羅することができる。
(秋山大輔)
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