

















日本の心を伝える会
メールマガジンNo.489
2012/5/7(月曜日)









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バスの運転手────────
何事をするに於いても、基礎/基本/規則に忠実なことは大事です。
これを疎かにすると、スポーツであれ、芸術であれ、科学であれ、無手勝流となってしまい、上達はおろか怪我をしたり事故を起こしたりすることがあります。
しかし、基礎/基本/規則を十二分に会得/理解しただけでは、予想外の何かを発見したり、何かに直面した時に、対処出来ないことがあります。
イザと言う時にどう対処対応するのかに、マニュアルがありますが、頑なにマニュアルを守っているだけでは、取り返しがつかなくなる場合もあります。
以下は、路線バスの運転業務中に負傷者を発見、適切な判断と乗客の協力で迅速に救助にあたった、名古屋市営バス運転手の加藤幸男(当時48歳)さんの話です。
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それは、今から20年も昔、平成2年の夜の9時近くの出来事でした。
加藤さんが、業務である名古屋市営の路線バスを運行中、往来の激しい交差点を左折した時です。頭から血を流して、歩道橋の真下の道路上に倒れている女性を、発見しました。
場所は、幹線道路です。
車がライトを照らしながら行来する片側3車線の交差点近くでした。
意識不明の女性は、交差点に設置されている歩道橋から転落したのです(後に歩道橋から飛び降りたことが解りました)。
放っておけば命が危ない。
往来の激しい場所故、いくらライトを点けているとはいえ、他の車に轢かれてしまう危険性があります。
一瞬の判断で、加藤さんは自分の運転する路線バスで2車線を塞ぎ、他の車で女性が轢かれてしまう可能性のある二次災害を防ぎました。
発見した時点で、すでに女性が転落してから約10分が経過していました。加藤さんが発見する前に、すでに通りがかりの目撃者が119番通報をしていました。
ですが、救急車は未だに来ません。
頭から、血が流れ続けています。
加藤さんは、「救急車が出払っていて来れないのかもしれない」と判断し、乗客に女性の救出と救急病院への搬送の協力をお願いしました。
みなさん、快諾してくれました。
そして、乗客の助けを借りて、バス路線を外して交差点から約700メートル離れた近くの救急病院へこの女性を無事に搬送したのです。
長年、路線バスの運転を担当している加藤さんは、どこに病院/消防署があるのかを熟知していました。
そこでこの交差点から、最も近い救急病院まで負傷者の女性を搬送したのです。
路線バスの路線を外れています。自分の仕事を後回しにして女性を病院に運びこんだのです。
血に染まったバスを営業所に戻した後は、衣類を交換して別のバスで最終バス運行の業務に戻りました。
彼は、ここで二つの大きな規則違反を犯していました。
ひとつは、路線バス運行規則違反です。路線バスは、運輸規定上、路線を離れて走ってはいけない。
運輸規定は、「乗客が」怪我や急病の場合には、最優先で救護にあたることが義務づけられています。しかし、それ以外の時は、バスが路線を外れることは許されない。
加藤さんが助けたのは、乗客ではなく交差点で倒れていた女性です。規則違反です。
ふたつめは、輸送に支障が生じた場合、直ちに上司に連絡を入れての指示を仰がなかったことです。
加藤さんが営業所に連絡したのは、路線を外れて搬送した後でした。報告義務違反です。
加藤さんの人命救助は、人としての行為です。一方、服務規程は、職業人としての規則です。
たとえ人道上の行為とはいえ、規則/マニュアルを無視してまで行うことが、職業人として如何に難しいかは、社会人であれば容易に察しが出来るようかと思います。路線を忠実に走ることが義務づけられているバスの運転手にとって、バスを止め、コースを外れることは簡単ではないことなのです。なぜならそれは、自らの責任問題になるからです。彼や同僚は、処分は免れないと覚悟をしていたようです。
数日後、この一連の出来事が新聞に載りました。当然、交差点付近で停車し他の車の進行を妨害したことなどの業務違反をしたわけですから、市営バスは沢山のクレームを受けると思っていました。
ところが、かかってくる電話は褒め言葉ばかり。
ある方は「以前、バスのドアが閉まった後でもドアをあけてくれて待っていてくれた」。ある方は、「うるさい若者に、よく注意をしてくれた」など、加藤さんの運転業務姿勢を称えるものばかりだったのです。
それだけでなく、加藤さんに救助された女性が元気になって、彼の勤務する営業所まで謝りに来てくれました。
加藤さんが必死なってに助けたことは、彼女の命だけでなく彼女の心も救助したのです。
加藤さんはそのときの事について、「自分が主役でなく、あの時手伝ってくれたお客さんに、最高の礼を言いたい」と述べました。
優しさだけでは、出来ない行動です。加藤さんのした人道的業務違反は、咎められることはありませんでした。
彼の行動は讃えられ、彼は第一回1990年度のシチズン・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。
受賞理由は、「とっさの事態に何をすべきかを瞬時に判断、躊躇なくやり遂げた勇気と行動」でした。
「シチズン・オブ・ザ・イヤー」は、市民に感動を与え、市民社会の発展や幸せ・魅力づくりに貢献した市民を選び毎年顕彰する制度です。
この逸話は、私たちに、規則やきまり、マニュアルといった成文化されたものより以前に、私たちにはもっと大切な人としての法があることを教えてくれています。
その「成文化された法」より以前にある「法」とは、いったい何でしょうか。
それがつまり、慣習法と呼ばれるものであるといえます。
では、慣習法とは何かといえば、その国の歴史、伝統、文化に基づく価値観です。つまり、成文法の前に、私たちには私たちが共有すべき価値観がある、ということです。そしてその共有すべき価値観とは、他でもない、私たちの国が長い年月をかけて育んだ、歴史と伝統に基づく文化的規範です。
もう少しいい方を変えると、その国の文化的規範とは、「その国の歴史と伝統によって熟成された、成文法よりも深い意義と価値観」ということができます。
つまり、価値観とは、その国の歴史と伝統によって育まれた文化であり、その価値観を共有する者達の集まりが、国家である、ということができます。
「歴史を失った民族は滅びる」といいますが、歴史を失うということは成文法以前に共有すべき民族的価値観を失うということです。
だから国家崩壊、民族崩壊を招くのです。
すなわち、歴史を学ぶことは、民族的価値観を学ぶことといえます。
私たちの祖国日本には、世界で最も古い国としての長い歴史に育まれた民族的価値観があります。思うに、その民族的価値観を否定したところに、戦後日本の歪みが生まれたと言っても過言ではないように思います。
一般に、規則、規程、マニュアルなどは、立派で社会規範を犯さないきちんとしたエリートさんたちが作られます。けれど、現実の世の中は、かならずしも、そういう立派な人たちばかりではありません。エリートさんたちには、考えもつかないような、猛者が、けっこういるし、法や規則が予期しない事態が起こるのが、世の常です。そういう規則決まりにない事柄が生じたとき、あるいは生じないようにするために、必要なことが、まさに歴史的民族的価値観といえます。
左翼的思考では、なにもかも「成文法や規則で決めてしまえば、人はそれに従わなければならないもの」と規定します。ですから規則や決まりにない事態が生じる都度、さらに新たな規則決まりを設けます。



