■5.「鹿鳴館の花」の報国
鹿鳴館は外国からの賓客を接遇するために明治政府の肝いりで作られた施設であった。当時の日本は欧米諸国から不平等条約を押しつけられており、外国人犯罪には日本の法律や裁判が適用できない、輸入品にかける関税も自由に決められない、という状態にあった。
この不平等条約の改正の一助として、欧米流の社交施設を作り、日本が文明国であることを印象づけようとしたのである。
しかし維新までは下級武士などであった政府高官たちやその妻が、急に礼服を着て、食事をしたり、ダンスをしても、西洋人の目から見れば、様にならない事、甚だしかった。
当人たちにしても、そんな思いをするより、家で和服でくつろいでいた方がはるかに楽だったろう。しかし、そんな思いまでしても、なんとしても条約改正を、と願った先人の労苦に我々は思いをいたさなければならない。
そんな中で、日本人離れしたプロポーションで夜会服を身にまとい、外国人と流暢な会話をしながら、軽やかなステップでダンスを踊る捨松は、一夜にして「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになった。
しかし、その捨松にしても、コルセットで身動きできないほど身体を締め付け、ハイヒールの痛さを笑顔で隠してワルツを踊るのは、大変だったろう。しかも捨松は、7年余の鹿鳴館時代に、4人の子供を身ごもっている。
捨松は、自分が鹿鳴館で華麗に踊り、ホステス役を務めることで、日本の文明開化ぶりを示し、それが少しでも条約改正に役立つならばと、その身の苦労を厭わなかった。
■6.日本最初の慈善バザー
ある時、捨松は政府高官の夫人たちと病院を参観する機会があった。病室を訪れると、驚いたことに男性が病人の世話をしている。院長に「なぜ看護に女性を使わないのですか」と尋ね、米国での見聞から、女性の方がきめ細かな看護に向いている、と説明した。
院長の答えは、「ごもっともですが、何分経費が足りず、看護婦養成所を作りたくともとても手が回りません」ということだった。そこで捨松は米国での慈善活動の経験を生かして、日本でバザーを開いて資金集めをしようと思い立った。
捨松の音頭取りで、明治17(1884)年6月12日から3日間、日本で最初のバザーが鹿鳴館で開かれた。上流階級の夫人や令嬢たちが店を開いて品物を売るというので新聞紙上にも評判となり、皇族や政府高官たちも馬車や人力車で押しかけて大賑わいであった。
鹿鳴館の二階に作られた売り場では、夫人や令嬢たちの作った人形、ハンカチ、竹細工、菓子などが並べられ、値段は市価よりも随分高くつけられた。客が買わずに通り過ぎようものなら、内務卿・山県有朋夫人、参議・西郷従道夫人など、そうそうたる夫人たちに捕まって、何か買わされてしまう。
結局、3日間で約1万2千人が入場して、収益も目標の1千円をはるかに超える8千円にのぼり、全額が看護婦養成所設立のために寄付された。
捨松はその後も、看護婦の育成に深い関心を持ち続け、日本赤十字社に働きかけて、「篤志看護婦人会」を設立した。
■7.「私達は日本の生存のために闘っているのです」
明治37(1904)年7月、大山が日露戦争の満洲軍総司令官として出征すると、捨松は包帯作りから、募金集め、貧窮家庭の支援など、大車輪の活躍を始めた。その様子を捨松はアリスへの手紙で書き連ねた。
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この戦争に対する国民の関心は非常に大きく、勝利を得るまでは、どんなことにも耐えていく覚悟でいます。天皇陛下から身分の低い労働者まで、日本人は皆一体となってベストを尽くしています。
戦争に勝つには前線で闘っている兵士達の力だけでは勝てません。国民の支持を受けていない軍隊は、けっして勝つことは出来ません。又、アメリカの皆様からの精神的な御支援も私共の心の大きな支えとなっているのです。[1,p289]
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アリスは、捨松の活動を助けようと、この手紙をアメリカの新聞や週刊誌に公表して、日本への寄付金を募った。当時、アメリカの新聞は、大山元帥を「東洋のナポレオン」を賞賛し、その夫人が東部の名門女子大ヴァッサーカレッジの卒業生であることを誇らしげに書いていた。当然、その反響は大きかった。
続々とアリスのもとに寄付が集まり、アリスはそれを捨松に送った。捨松は、その一人一人に礼状と領収書を書き送った。
奉天会戦の勝利の後には、捨松は自らペンをとって、アメリカの全国版週刊誌「コリアーズ・ウィークリー」に投稿した。「戦時下における日本婦人の働き」と題して、日本の婦人たちが銃後を守るためにどんなに//