◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 351」
------------------------------------ 
だが山本は立ち直り、末次信正軍令部次長に対し「劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである」と進言した。ここに“真珠湾攻撃”に通じる山本の対米英復讐心が垣間見られる。この軍縮条約を巡っては海軍内に艦隊派と条約派という派閥争いが生じ、山本を含めた海軍の人事に大きな影響を与えたことは周知のとおりである。
山本の盟友、堀悌吉中将が予備役に編入されるや、山本は気力を失い、堀への手紙の中で「日本の対外強硬論への不満と苛立ち」を語り、また愛人への手紙にも「自分がただ道具に使はれたに過ぎぬやうな気がして」と述べ、「誠に不愉快である」と心境を明かしている。
予備交渉を終えて昭和10年2月に帰国した山本を大角岑生海軍大臣、広田弘毅外務大臣など多数の国民が出迎えた。しかし海軍を辞める意思を持った山本はしばし故郷長岡で休養して、母校の学生達と交流している。そして第二次ロンドン海軍軍縮会議に赴く永野修身軍事参議官から随行を要請されたが山本は断る。予備交渉の後遺症はそれほど強かったのであり、私はそこに対英米不信感が感じられる。一般的に山本が「親米派」だと評価されているのは、太刀打ちできない日米の国力差を知っていたからにすぎないのではないか?
また、山本は空軍独立論について、陸軍が主導権を握ることを懸念して強硬に反対している。この頃既に“空軍”をめぐる陸海軍間の主導権争いが芽生えていたのであり、戦後の自衛隊における「空軍独立論」に相通じるものも感じられる。
しかし当時、海軍が“空軍”を維持する意義は、太平洋上における制海権確保であり、そのためには空母艦隊と空母航空隊の編成が急務であって、支那事変における軍事施設攻撃の主力は「陸上攻撃機」であったから、戦後の米軍同様に、戦略爆撃戦力としての空軍力の保持は海軍には適さなかったであろう。
つまり、わが国が大陸を国家戦略上の「脅威」と捉えている以上、海軍の実力発揮の場は洋上に限られていたからである。従って、戦略空軍の主力は陸軍に吸収されるべきものと考えられた。しかしながら我が帝国陸軍航空隊は、偵察、地上部隊掩護など、あくまでも陸軍大兵団の「直接掩護=直協」任務が主であって、陸軍においてはそのような“狭い”思想から脱却していなかった。従ってわが国における「空軍」は、戦後航空自衛隊になって初めてその真価を発揮することになるのだが、「専守防衛」という奇妙な軍事戦略?の元、攻撃力をもたない戦後“空軍”は、これまたあくまでも旧帝国陸軍の「防空と掩護」の範疇から出ることはなかった。
のちに太平洋戦域での島嶼戦において陸海軍航空隊の指揮権を統一する提案が出た際も、何故か山本は一貫して反対している。この頃は、未だに大鑑巨砲思想が支配していたから、欧米列強も新世代戦艦の開発・建艦を一斉に開始しており、日本も大和型戦艦の建造計画を立てていた。
これに対して「山本は大西瀧治郎航空本部教育部長と共に反対論を唱え、艦政本部と対立した。山本の航空主兵論と中村良三(大将・艦政本部長)の大艦巨砲主義論の対立は結論が出ず、伏見宮博恭王軍令部総長の仲裁で昭和11年7月に高等技術会議で大和型2隻の建造が決定」され、同時に「3万トン級正規空母翔鶴型航空母艦2隻の建造」も決定された。既に書いたが、この頃国内情勢は混とんとしていて、二・二六事件が勃発する。「この二・二六事件における米内の対応を山本は高く評価し、後日永野修身海軍大臣が辞任する際、山本次官は米内を後任海軍大臣として推薦」しているから、この時「対米開戦」に慎重論を唱える米内・山本コンビが成立したといってもよかろう。
米内は一般に穏健な軍人であるかのような評価を受けているが、昭和13年11月25日に、「海南島を占領する計画を五相会議で提案」したのは米内海軍大臣であった。そして「海軍軍令部(古賀峯一次長、宇垣纏第一部長、草鹿龍之介第一部第一(作戦)課長も賛同し、昭和14年2月に海南島を軍事占領」したのである。
この件について「山本は米英の反発を招く事を懸念して反対したが、伏見宮軍令部総長の賛成により制止できなかった」とされている。しかしどちらが山本の真意であったのかつまびらかではない。草鹿によれば「日本の南方進出を見込んだ布石であった」というが、当然東南アジアに多数の植民地を持つ欧米列強との関係は悪化する。いずれにせよこれは「南進策」の布石とみられるから、米内は対英米戦は覚悟の上だったと言えよう。この様な米内と山本の不可解な行動が、二人は共産主義者ではないか?という説を生む根拠になっているのだと思われる。(元空将)
-------------------------------------
◎奥山篤信 DVDイラン映画「運動靴と赤い金魚 Children of Heaven」 1999 ☆☆☆☆☆
------------------------------------ 
イラン映画の奥深さを痛感する映画である。アメリカなどが自分のジコチュウ国家を棚に上げて、偉大な歴史と文化伝統のイランに対しての、武力の脅しで、悪辣な資源狙いの野望の下心を隠し、薄っぺらいアメリカ式 “民主主義”の勝手な価値観の押しつけを止めてもらいたいと思う。その意味でイランにはイランなりの崇高な理念と価値観があることを数多くのキアロスタミ、マフバルバフその他のイラン監督の映画を見て感じることしきりである。また“辺境映画”の良さは、僕たちアメリカニズムの真っただ中にあるものにはとても新鮮である。
イラン監督 マジッド・マジディの作品で1997年モントリオール世界映画祭でグランプリを含む4部門を受賞、第71回アカデミー賞外国語映画賞ノミネートされた。

イランの貧困家庭ではあるが、父親は社交性がなく信心深いが生活力なくそれでいて誇りと矜持を持って一切道にはずれることはない、厳格な家庭で暮らす少年アリと妹ザーラの子供たちの純真で純朴でひたむきな姿を描いている。兄は妹の靴を修理してもらった帰りに、家のお使いのジャガイモを買う間に、バタ屋がその靴を回収し、失ってしまう。新たに靴を買う金もない親に知れるのを恐れた兄は、失くしたことを親に告げぬようザーラに頼み、タイム・シェアリング(兄と妹の学校時間が異なる)で兄妹はアリの運動靴を2人で共有しながら学校に通うのである。
映画はその2人のいたいけな子供の姿を中心に描き、貧乏ななかでも誇りを失わない、意志の力を感じさせるいっぽう、けなげな子供らしい姿を画面に繰り広げて、観る者に現在の世知辛い世で失った“ぬくもり”を感じさせてくれて嬉しい。貧困な家庭にこそ家族の絆が存在し、かつ子//