

















日本の心を伝える会
メールマガジンNo.428
20121/1/27(金曜日)









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磨製石器と相沢忠洋(2/2)─◆◇──────
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磨製石器と相沢忠洋(2/2)








(昨日のメルマガからの続き)
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山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。
近寄って指をふれてみた。
指先で少し動かしてみた。
ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。
それを目の前で見たとき、私は危く声をだすところだった。
じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。
完全な形をもった石器なのであった。
われとわが目を疑った。
考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。
「ついに見つけた!定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に!」
私は、その石を手におどりあがった。
そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔にくっつけるようにして観察した。
たしかに後からそこにもぐりこんだものではないことがわかった。
そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。
それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。
もう間違いない。
赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。
ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。
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なんだか、そのときの相沢さんの感動が、まるでそのまま伝わって来るかのようです。
けれど相沢さんは、それをすぐには発表しませんでした。
なぜかというと、相沢さんの師匠である群馬師範学校の考古学者尾崎喜左雄先生から、次の大切な教えを受けていたからです。
~~~~~~~~~
趣味の収集をするのか、事実の追究に目標を定めるのか、まず自分でやることにけじめをつけなさい。
事実の追究をするのだったら多くの文献を読み、着実に事実の集積をつみあげていくことが大切です。
事実の集積と学問とは同一であって同一ではない。
事実であってもそれを学問のなかにとり入れるというのは容易ではなく、忍耐と努力、そして着実な勉強が大切です。
そして、考古学という学問は、一ヵ所や二ヵ所の遺跡発掘報告書を仕上げても結論は出せない。
より総合的な考察が必要です。
井のなかの蛙にならず、考古学が好古学にならぬよう、着実におやりなさい。
あなたにもきっと事実の集積はできる。
そのことが学問の基礎となり、勉強ということなのです。
(前出「岩宿の発見」より)
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こうして相沢さんは、ただひとつの石器の発見でよしとせず、同じ場所から次々と数十点の石器を発掘していきます。
ここまでくると、もはや考古学的にも、確たるものとなります。
そこで昭和24年のある日、彼は東大人類学教室と千葉の国府台に出来たばかりの考古学研究所に、心を込めた手紙を書きます。
そして7月27日、東京に出た相沢さんは、明治大学の大学院生であった芹沢長介氏と出会います。
2人はちょうど同じくらいの年頃です。
しかもどちらも北関東の縄文土器や石器を研究する人です。
2人はすっかり意気投合する。
以降、相沢さんは、芹沢さんに会いに行くために、なんと群馬県桐生から東京まで、120キロの道のりを、当時の重たい自転車で、なんどもなんども通います。
午前3時頃に家を出て、到着するのがお昼頃。
それからまた、自転車をこいで帰宅するのですが、最後の到着前が急な上り坂です。
さぞかし大変だったろうと思う。
けれど、そんなたいへんさ以上に、相沢さんの考古学への情熱が高かったのです。
相沢さんが発掘した石器類が、非常に高い価値を持つと直感した芹沢さんは、相沢さんの発見物を、当時明治大学の助教授だった杉原荘介氏に渡します。
ところが渡された石器を見た杉原助教授は、「これはちょっと人工品かどうか疑問です」という。
ただ、調べてみるから、置いて行きなさい、というので、発掘物を置いていったら、しばらくして後、杉原助教授が、文部省で岩宿遺跡での石器発見に関する新聞記者発表を行うという。
その発表原稿を杉原助教授から渡された芹沢長介は、びっくりします。
なんと相沢さんの名前がまったく載っていない。
芹沢さんは、驚いて杉原先生に原稿の訂正を申し入れ、結果発表時には「地元のアマチュア考古学者が収集した石器から、”杉原助教授が”旧石器を発見した」という表現になった。
あまり人のことをあれこれ言いたくはないけれど、時代が昭和24年で、まさに公職追放のまっただ中だった頃であるということを考えると、当時、まともな学者は、みんな公職を追放されていたわけで、そう考えると上のような事態も「さもありなん」と思えてしまいます。
記者会見は行われ、「なんと3万年前の石器が発見され、その石器は当時の日本人が加工して製造したものであり、これが世界最古の磨製石器である」というニュースは、日本の考古学会を震撼させるビックニュースとなります。
けれど、この発表のどこにも相沢忠洋さんの名前は登場せず、発見者にさえもなっていなかった。
これに芹沢さんは激怒します。
「相沢忠洋は単なる情報提供者などではない。石器の発見者であり、日本の旧石器文化研究のパイオニアだ」と、その後もずっと言い続けてくれた。
ところが、このことが逆に物議をかもし出します。
相沢さんは、考古学の大家と呼ばれる人々から詐欺師呼ばわりされ、ひどい迫害を受け、そのためにたびたび住まいをも移さねばならなかったほどにまで追い込まれてしまう。
そして迫害する人々は、その地位を利用して、アマチュアである相沢さんの発掘のじゃまをし、遺物を盗み、相沢さんの人格までをも傷つけ中傷し続けた。
経済的にも追いつめられた相沢さんは、ついにはもうものすごく古くて誰も住まなくなった農家に住むようになります。
そこを訪れた芹沢さんが、様子を見てびっくりした。
家の中に畳は一枚もない。
床板がむき出し。
どこで寝ているのかと聞いたら、押し入れだという。
そこで藁(わら)を敷いて寝起きしていた。
布団はどうしたのだと聞いたら、「持っていたのだけれど、中の綿をすべて引っぱり出して遺物の標本箱にしいてしまった」という。
あまりのことに、芹沢さんは、涙がとまらなかったといいます。
そこまで迫害を受け続けた相沢さんなのだけれど、それでも彼は考古学への情熱を失わず、迫害している人々にさえ、「ボクは人間が好きだから」と嘘や中傷への反論もせず、黙々と発掘を続けた。
学歴のない市井のアマチュア考古学者である相沢忠洋さんは、ごく一部のほんの限られた、相沢さんの功績をよく知る人々に支えられながら、地道な研究、発掘活動を続けます。
そんな相沢さんが、世間で認められるようになるのは、ようやく昭和42年になってからのことです。
この年、相沢さんは吉川英治賞を受賞するのだけれど、それは彼が最初に石器を発見してから、なんと21年後のことでした。
けれどねえ、ほんとうにすごいと思うのだけれど、陛下は、こうした相沢さんのお姿を、たいへんたかくご理解なされ、平成元年になるのだけれど、相沢さんに勲五等を授与されているのです。
相沢さんは、決して勲章欲しさに考古学の研究を続けていたわけではありません。