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■■ Japan On the Globe(732) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■
地球史探訪: ビルマ独立の志士と日本人(上)
ビルマ独立を目指す志士たちに、日本は支援を約束した。
■転送歓迎■ H24.01.22 ■ 40,055 Copies ■ 3,488,501Views■
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■1.ミャンマーの急速な中国離れ、米国接近
ミャンマーでは昨年3月の軍政終了と民主政府の誕生に伴い、中国離れと米国への接近が顕著になってきている。
9月には北部カチン州で中国と共同建設していた水力発電用大型ダムの開発中止を表明した。ミャンマーの軍事政権時代に中国政府と契約を結んだもので、中国国有企業の投資総額は36億ドル(約2760億円)に上る。中国政府からミャンマー軍政幹部への賄賂が噂されていた。
このダム建設を、テイン・セイン大統領は「自然景観を破壊し、地域住民の暮らしを破壊する」として、軍政府の決定を覆した。[1]
11月30日には、米国のクリントン国務長官がミャンマーを訪れ、両国の急接近を見せつけた。
ミャンマーが米国側につけば、中国はインド洋に覇権を及ぼすための足場を失うことになる。米国の中国封じ込め政策の大きな一歩である。中国のある新聞は社報で「米国は中国のアジアの仲間を一人ずつさらっていこうとする」と口惜しさをにじませた。[2]
クリントン国務長官は、民主化運動の指導者アウンサン・スー・チー女史とも会談した。スー・チー女史は軍政時代に合計15年近くも自宅軟禁生活を続けていたのだが、こうした会談は、「3ヶ月前には考えられなかった」と述べた。
■2.「独立めざし 遠い日本で」
アウンサン・スー・チー女史が民主化運動の指導者となっているのは、本人の一徹ぶりとともに、「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘であることも大きい。(ビルマは1989年に「ミャンマー」に国名変更した)
アウンサンは、英国からの独立を目指していた1947年7月19日、テロリストによって暗殺されたのだが、毎年この「殉難者の日」が近づくと、ビルマ国営放送から次のような歌が流されてきた。[3,p2]
__________
独立めざし 遠い日本で 祖国の軍をつくるため
命を的に苦難に耐えて はかりごとをめぐらした
勇気あふれるアウンサンよ 英雄たちよ
・・・
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「遠い日本で」とは、アウンサンが英国からの独立のために日本軍から教育と軍事訓練を受けた事を指す。今回は、アウンサンら志士たちが、日本軍の支援を受けて、祖国独立のために戦った過程を辿ってみたい。
■3.日本は希望の象徴だった
ビルマは、1824年以降、イギリスと三度戦い、その都度、領土を侵食され、1886年にはイギリス領インドの一州に併合されて、独立を失った。この年は日本では明治19年、欧米によるアジア侵略はこの頃に至っても着々と進んでいたのである。
その後、20世紀初頭の日露戦争は、有色人種が白色人種を近代戦争で打ち破った最初の戦いとして、ビルマ人に大きな感動を与えた。後に、日本軍とともに英国と戦い、1943年8月にはビルマ国独立を宣言して国家元首についたバーモウは著書『ビルマの夜明け』の中で、こう書いている。
__________
私は今でも日露戦争で日本が勝った時の感動を思い起こすことができる。私は当時、小学校に通う幼い少年に過ぎなかったが、その感動はあまりにも広く行きわたっていたので、幼い者をもとりこにした。
たとえばその頃流行した戦争ごっこで、幼い我々は日本側になろうとして争ったりしたものだ。こんなことは日本が勝つまで想像できぬことだった。
ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジア一国民の偉大さについて聞いたのである。それは我々に新しい誇りを与えてくれた。[4,p269]
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独立を目指すビルマ人にとって、日本は希望の象徴だった。
■4.アウンサンと鈴木敬司大佐
ビルマ人は独立を求めて、何度も立ち上がった。1930年の医師・サヤー・ヤンがリーダーとなった反乱では、山刀や棍棒しか持たない農民たちが、近代的な装備を持った植民地軍に対して、1年以上も戦ったが、結局、死傷者約3千人、逮捕者8300人、サヤー・ヤンを含む78人が処刑、という結果に終わった。
1937年から翌年にかけては、ビルマ各地で労働者のストライキや農民の反乱、都市での暴動が発生した。イギリス植民地政府は強硬に弾圧し、整然とデモ行進する群衆に対しても発砲して、死傷者を出した。
「国の独立は穏やかな請願によって達成されるものではなく、武器をとって行動するしか道はない」と、独立運動の指導者たちは確信し、そのために外国の軍事援助を求めることを決定した。
おりしも、まだ20代半ばの若者だったアウンサンは各地を飛び回って反英演説をしていたために、植民地政府からお尋ね者として全国に指名手配されていたので、国外に脱出させ、支援してくれる国を探させようという事になった。
1940年8月、アウンサンは中国のアモイに渡り、外国との接触を試みたが、うまく行かず、そのうちに資金も底をつき始めた。
そんなアウンサンを見出したのが、陸軍参謀本部所属の鈴木敬司大佐だった。鈴木大佐は読売新聞記者・南益世を装って、ヤンゴンに潜入し、独立運動家たちと接触した。その過程で、リーダーの一人、アウンサンがアモイにいることをつかみ、部下を派遣して東京に迎えたのである。
■5.「南機関」の誕生
当時、日本は中国大陸の奥地に蒋介石政権を追い詰めていたが、米英がビルマから支援物資を送り込んでいたために、屈服させることができなかった。この「ビルマ・ロード」を封鎖するために、ビルマの独立活動家たちと手を組もう、というのが、鈴木大佐の考えだった。
アウンサンは、ビルマが独立すれば、ビルマ・ロードは自然に閉鎖に追い込むことができる、そのためには自分たちの独立闘争を援助してもらいたい、と訴えた。
アウンサンの主張を鈴木大佐は受け入れて、軍部や政界の上層部に説明し、その結果、昭和16(1941)年2月1日、「南機関」が誕生した。「南」は鈴木大佐の変名「南益世」からとり、また「南方」を意味した。
その任務は、ビルマの青年活動家たちに軍事訓練を施し、さらに武器・弾薬を支給して、独立闘争を支援することであった。
■6.日本へ
南機関の発足と同時に、アウンサンは南機関員・杉井満とともに、日本の貨物船に潜り込んで、ビルマに戻った。この時期には、日本との戦争に備えて、イギリス植民地政府の独立活動に対する弾圧・規制はかつてないほど厳しいものになっていた。
姿を消していたアウンサンについても、全国で草の根をかきわけるような捜索が続けられていた。アウンサンは、入れ歯を含んで出っ歯で黒メガネの中国人に扮して、仲間のもとに戻った。そして独立運動の指導者たちに、日本との合意内容を報告し、行動計画を取り決めた。
それは、各団体を大同団結させたうえで、イギリス植民地政府に対し反乱活動を起こせるよう、全国各地にゲリラ・グループを配置すること、そして、その指導者として青年たちを日本に送り込んで、軍事訓練を受けさせることだった。
1941年3月10日、アウンサン自身が率いる第一次グループ5名が、日本に戻る貨物船に乗り込んだ。その後、数次に分かれて、合計27人の青年が日本に向かった。
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9月には北部カチン州で中国と共同建設していた水力発電用大型ダムの開発中止を表明した。ミャンマーの軍事政権時代に中国政府と契約を結んだもので、中国国有企業の投資総額は36億ドル(約2760億円)に上る。中国政府からミャンマー軍政幹部への賄賂が噂されていた。
このダム建設を、テイン・セイン大統領は「自然景観を破壊し、地域住民の暮らしを破壊する」として、軍政府の決定を覆した。[1]
11月30日には、米国のクリントン国務長官がミャンマーを訪れ、両国の急接近を見せつけた。
ミャンマーが米国側につけば、中国はインド洋に覇権を及ぼすための足場を失うことになる。米国の中国封じ込め政策の大きな一歩である。中国のある新聞は社報で「米国は中国のアジアの仲間を一人ずつさらっていこうとする」と口惜しさをにじませた。[2]
クリントン国務長官は、民主化運動の指導者アウンサン・スー・チー女史とも会談した。スー・チー女史は軍政時代に合計15年近くも自宅軟禁生活を続けていたのだが、こうした会談は、「3ヶ月前には考えられなかった」と述べた。
■2.「独立めざし 遠い日本で」
アウンサン・スー・チー女史が民主化運動の指導者となっているのは、本人の一徹ぶりとともに、「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘であることも大きい。(ビルマは1989年に「ミャンマー」に国名変更した)
アウンサンは、英国からの独立を目指していた1947年7月19日、テロリストによって暗殺されたのだが、毎年この「殉難者の日」が近づくと、ビルマ国営放送から次のような歌が流されてきた。[3,p2]
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独立めざし 遠い日本で 祖国の軍をつくるため
命を的に苦難に耐えて はかりごとをめぐらした
勇気あふれるアウンサンよ 英雄たちよ
・・・
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「遠い日本で」とは、アウンサンが英国からの独立のために日本軍から教育と軍事訓練を受けた事を指す。今回は、アウンサンら志士たちが、日本軍の支援を受けて、祖国独立のために戦った過程を辿ってみたい。
■3.日本は希望の象徴だった
ビルマは、1824年以降、イギリスと三度戦い、その都度、領土を侵食され、1886年にはイギリス領インドの一州に併合されて、独立を失った。この年は日本では明治19年、欧米によるアジア侵略はこの頃に至っても着々と進んでいたのである。
その後、20世紀初頭の日露戦争は、有色人種が白色人種を近代戦争で打ち破った最初の戦いとして、ビルマ人に大きな感動を与えた。後に、日本軍とともに英国と戦い、1943年8月にはビルマ国独立を宣言して国家元首についたバーモウは著書『ビルマの夜明け』の中で、こう書いている。
__________
私は今でも日露戦争で日本が勝った時の感動を思い起こすことができる。私は当時、小学校に通う幼い少年に過ぎなかったが、その感動はあまりにも広く行きわたっていたので、幼い者をもとりこにした。
たとえばその頃流行した戦争ごっこで、幼い我々は日本側になろうとして争ったりしたものだ。こんなことは日本が勝つまで想像できぬことだった。
ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジア一国民の偉大さについて聞いたのである。それは我々に新しい誇りを与えてくれた。[4,p269]
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独立を目指すビルマ人にとって、日本は希望の象徴だった。
■4.アウンサンと鈴木敬司大佐
ビルマ人は独立を求めて、何度も立ち上がった。1930年の医師・サヤー・ヤンがリーダーとなった反乱では、山刀や棍棒しか持たない農民たちが、近代的な装備を持った植民地軍に対して、1年以上も戦ったが、結局、死傷者約3千人、逮捕者8300人、サヤー・ヤンを含む78人が処刑、という結果に終わった。
1937年から翌年にかけては、ビルマ各地で労働者のストライキや農民の反乱、都市での暴動が発生した。イギリス植民地政府は強硬に弾圧し、整然とデモ行進する群衆に対しても発砲して、死傷者を出した。
「国の独立は穏やかな請願によって達成されるものではなく、武器をとって行動するしか道はない」と、独立運動の指導者たちは確信し、そのために外国の軍事援助を求めることを決定した。
おりしも、まだ20代半ばの若者だったアウンサンは各地を飛び回って反英演説をしていたために、植民地政府からお尋ね者として全国に指名手配されていたので、国外に脱出させ、支援してくれる国を探させようという事になった。
1940年8月、アウンサンは中国のアモイに渡り、外国との接触を試みたが、うまく行かず、そのうちに資金も底をつき始めた。
そんなアウンサンを見出したのが、陸軍参謀本部所属の鈴木敬司大佐だった。鈴木大佐は読売新聞記者・南益世を装って、ヤンゴンに潜入し、独立運動家たちと接触した。その過程で、リーダーの一人、アウンサンがアモイにいることをつかみ、部下を派遣して東京に迎えたのである。
■5.「南機関」の誕生
当時、日本は中国大陸の奥地に蒋介石政権を追い詰めていたが、米英がビルマから支援物資を送り込んでいたために、屈服させることができなかった。この「ビルマ・ロード」を封鎖するために、ビルマの独立活動家たちと手を組もう、というのが、鈴木大佐の考えだった。
アウンサンは、ビルマが独立すれば、ビルマ・ロードは自然に閉鎖に追い込むことができる、そのためには自分たちの独立闘争を援助してもらいたい、と訴えた。
アウンサンの主張を鈴木大佐は受け入れて、軍部や政界の上層部に説明し、その結果、昭和16(1941)年2月1日、「南機関」が誕生した。「南」は鈴木大佐の変名「南益世」からとり、また「南方」を意味した。
その任務は、ビルマの青年活動家たちに軍事訓練を施し、さらに武器・弾薬を支給して、独立闘争を支援することであった。
■6.日本へ
南機関の発足と同時に、アウンサンは南機関員・杉井満とともに、日本の貨物船に潜り込んで、ビルマに戻った。この時期には、日本との戦争に備えて、イギリス植民地政府の独立活動に対する弾圧・規制はかつてないほど厳しいものになっていた。
姿を消していたアウンサンについても、全国で草の根をかきわけるような捜索が続けられていた。アウンサンは、入れ歯を含んで出っ歯で黒メガネの中国人に扮して、仲間のもとに戻った。そして独立運動の指導者たちに、日本との合意内容を報告し、行動計画を取り決めた。
それは、各団体を大同団結させたうえで、イギリス植民地政府に対し反乱活動を起こせるよう、全国各地にゲリラ・グループを配置すること、そして、その指導者として青年たちを日本に送り込んで、軍事訓練を受けさせることだった。
1941年3月10日、アウンサン自身が率いる第一次グループ5名が、日本に戻る貨物船に乗り込んだ。その後、数次に分かれて、合計27人の青年が日本に向かった。