一方、フランス留学を終え、帰国の途に就いた兆民がベトナムのサイゴンで見たのは、暴虐の限りをつくす西欧文明国によるアジア侵略の実相だった。欧米人がベトナム人を犬豚同然に扱い、平然としていた。
「世ノ蒙昧ノ民ヲ見ルトキハ、宜ク循々然トシテ之ヲ導イテ、徐々ニ夫ノ文物制度ノ美ヲ味ハハシム可シ。・・・己レノ開化ニ矜伐シテ他邦ヲ凌蔑スルガ如キハ、豈真ノ開化ノ民ト称ス可ケン哉」(中江兆民『論外交』)

 明治8年6月、大久保利通を中心とした明治政府は朝鮮に対し軍事挑発を行い、江華島事件を引き起こした。翌年2月、日朝修好条規を締結し、釜山、仁川など3港の開港、治外法権、無関税貿易などを強制し、条約期限も記載しないなど、日本が幕末に西欧列強と結んだ不平等条約より過酷なものだった。

 愛国の儒者崔益鉉は日本全権黒田清隆に対し、「今の日本は寇賊である。西洋に被れ、只管貨色のみを知り、人の理を弁えない洋賊と成り果てた。吾が上疏を聞き入れなければ、この首を刎ねよ」と訴えた。日本軍に捕縛された崔益鉉は、長崎県対馬に連行されたが、食を拒み餓死した。

 以後、我が国は軍備強化の道を驀進し、アジアを踏み台にして、独立と近代化を成し遂げた。

 明治政府は同じ「富国」を目指しながら、兆民の志した「強兵なき富国」の方向とは大きく隔たり、「富国強兵」を突き進んだ我が国は、遂に大東亜戦争敗北への道を直走ることになる。

 兆民は後年、岩倉使節団を次のように評している。
 「文明ノ効果ニ狂シテ、一夜ノ中ニ我日本国ヲ変ジテ純然タル欧米ト為サント欲セシ者。其外形ニ眩シテ其精神ヲ忘ル」(『流行ノ論』)
(月刊日本2月号 巻頭感より)
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