

















日本の心を伝える会メールマガジンNo.418
20121/1/12(木曜日)


















【転送歓迎】
〇〇〇〇様こんにちは。
日本の心をつたえる会です。
━━━━━━━━━━━
■□【1】山口多聞(1/2)
━━━━━━━━━━━
山口多聞(やまぐちたもん)ときけば、旧日本海軍の提督の中の提督として、世界中のファンを魅了している人物です。
生まれは東京・文京区小石川で、明治25年、旧松江藩士・山口宗義の子として生まれです。
多聞て、すこし変わった名前ですが、実は、楠木正成の幼名「多聞丸」から、命名されたものだそうです。
山口家の仕えた松江藩というのは、出雲一国の藩です。
もともとは毛利領。幕末時の藩主は松平家です。
山口家は、この出雲松平家の家中だった。
江戸中期以降、年貢米に頼る全国の藩の財政がひっ迫する中で、出雲松平家はタタラによる製鉄事業を行い、藩の財政改革と相まって、なんと寛政年間には八万両もの蓄財をしています。
幕末には徳川親藩でありながら、はやくから時代の変遷を予測して、幕府方にも新政府側にもつかず、藩の独立を保った。
つまり、非常に合理性を尊ぶ気風が、出雲松平家中の風であったといえます。
そんな家中に生まれた山口多聞は、いまでも進学校として名高い開成中学(現開成高校)を卒業後、海軍兵学校第40期生となります。
入学時は150人中21番。卒業時は、144名中2番の成績です。
同期には特攻隊生みの親・大西瀧次郎がいます。
旧日本軍の将校の物語になると、必ずこうした「成績何番」という話がでてきます。
卒業時の成績が生涯ついてまわる。
昨今では、日教組の奮闘(?)で成績の公表すらしない学校が増えているようですが、これは間違いです。
いいものはいい。悪いものはわるい。
それは区別であって差別ではない。
俺は成績は悪いが、ケンカでは負けない!でも良いのです。
そうやって競争して人間は負けない心、くじけない心が養成され、強くなる。
山口多聞は、第一次世界大戦時には欧州派遣艦隊に所属します。
もともと水雷、砲術出身の士官であり、本来の専門は潜水艦です。
そして軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任するのだけれど、海兵同期の大西瀧治郎の薦めで、当時発展途上だった航空関係に転向します。
船舶や陸戦は、水平運動をします。
潜水艦は、水平運動に垂直運動が加わる。つまり、動きが三次元になります。
潜水艦の専門であった山口多聞にとって、三次元運動をする飛行機は、非常に入りやすかったのかもしれません。
山口多聞は、昭和9(1934)年に在米大使館付武官として2年間、米国で暮らします。
山口多聞といえば、山本五十六の秘蔵っ子、米内光政のラインとも言われていますが、山口は学生時代にプリンストン大学に留学した経験をしています。
ちなみに、山本五十六はハーバート大学で学んでいます。
そして両者とも、駐米武官を経験した国際派です。また愛妻家、子煩悩としても知られている。
駐米武官として山口が関心を抱いたのは、日米の国力の違いです。
なにせ開戦前の昭和15年当時、米国の原油の生産量は日本の150倍です。
日本の石油は、消費量の90%が輸入。しかもそのうちの70%が米国からの輸入です。
石油の備蓄量は連合艦隊の2年分しかない。
米国と開戦するということは、日本海軍は艦船を動かすための石油を失うということです。
さらに石炭の産出量は、米国は日本の約9倍、鉄鋼産出量は日本の13倍です。
資源を米国からの輸入に頼る日本が、米国と開戦すれば、当然、資源の輸入を南方に求めざるを得なくなる。
そうするといたずらに戦線が拡大し、戦線の拡大は、我が国の国防力の分散化と弱化を招く。だから、米国の現状をつぶさに見た山口は、米内、山本らと同様に、日米避戦論であったのです。
この時期、多くの軍人が日米開戦に反対だったことは、あらためて注目に値します。
文民統制(シビリアン・コントロール)というけれど、ロシアの南下に対して必死の努力でこれを阻止した日清戦争(明治27年)の頃は、文民といってもその多くは武人だった。
からくも勝利した日清戦争の戦果を、まるで無駄にしてあらためて日露戦争を起こさざるを得ない情況を引き起こしたのは、文民政治家です。
軍人が多大な命を犠牲にして日露戦争に勝利すると、これに浮かれて軍縮などとわかったようなことを言いだし、あげく支那を蹂躙する蒋介石に付け入る隙を与えて支那事変に至らしめたものも、結局は幣原喜重郎内閣の「平和外交」です。
平和を愛する「文民統制」といえばいっけん聞こえはいいけれど、要するに「腰ぬけ平和主義者」に外交をやらせると、かえって被害を大きくする。
そのことは日本の近代史にあらわれる厳然とした事実です。
大東亜戦争開戦時、山口多聞は海軍少尉で、第二航空戰隊司令官です。
山口は航空母艦「飛龍」に乗り、真珠湾攻撃に出撃します。
日米避戦論であっても、やるからには勝たなければならない。それが軍人です。
開戦前の昭和16(1941)年10月中旬から11月中旬、山口多聞は、航空部隊に猛訓練を施します。
この頃、山口は、口の悪いパイロットから「人殺し多聞丸」とあだ名されています。
「丸」は、彼が太っていたから。
「人殺し」は、彼が行う猛訓練がすさまじかったからです。
山口は、物心ついてから病気らしい病気をしたことがなかったし、学業が優秀なだけでなく、合気道や馬術もやっていた。大飯ぐらいで、体力もあった。
それだけに、部下が「頭が痛い」「腹が痛い」などといっても、訓練に容赦なかったのです。
しかもほんのわずかなミスも許されない、緊迫した戦いを行うのです。
「人はよく頭や腹が痛いとよくいうが、ありゃいったいどんな感じのものなのかね」などと本気で質問し、訓練生たちを鼻白けさせたりもしています。
山口多聞は本気だったのです。
日米開戦となれば、初戦で大金星をあげなければならない。
戦いを長引かせるだけの体力は、日本にはないのです。
その訓練されたパイロットたちが、11月中旬、いよいよ実戦のために空母に乗り込みます。
乗ってみて驚いた。
艦内のあらゆる場所に、ところかまわず重油の缶が山積みされているのです。
居住区といわず通路といわず、少しの空所も見逃さず重油の缶が置かれている。
ドラム缶はむろん、一斗缶までが動員されて、ところ狭しと置いてある。
船体強度が許すかぎり、然料庫以外の場所に ドラム缶や石油缶を積み上げてあったのです。
そのため居住区まで重油の臭気が満ちていた。
船の航行中は、ピッチングやローリングで洩れた重油が床を這い、これに滑って転倒する者も少なくなかったそうです。
実は、山口多聞率いる第二航空戰隊は、「飛龍」、「蒼龍」の二隻の空母を基幹としていたけれど、両船とも航続距離が短かったのです。
平時ならなんの問題もない。油送船を一緒に連れていけばよいのです。
然料が切れたら 洋上で補給すればいい。
ところが真珠湾攻撃の機動部隊は秘匿(ひとく)行動で、連日荒天が予想される北太平洋コースがとられることが決定していた。
冬季の北方航路です。荒波に洋上補給は不可能です。
もっとも、だからこそ、途中他国の船に行き会う機会が少ないだろうということなのだし、もし敵国や第三国の船に連合艦隊が発見され、無線一本打たれたら、万事休すです。
要するにハワイ近海まで、いかに隠密裏にたどり着くかが課題だったのであり、そうなると航続距離の短い「赤城」「飛龍」「蒼龍」は、連れてけない、ということになる。
だから飛行機は他の空母に搭載し、三艦の内地にとどめおくという案が、軍令部(大本営海軍部)から出された。
これを伝え聞いた山口少将は、烈火のごとく怒ります。
即座に南雲中将に面会し、中将の胸ぐらをひっつかんで怒鳴りまくった。
結果、山口の強い抗議と要望で三空母は、作戦に参加することになったのだけれど、そのかわり、然料である重油を各空母に積めるだけ積み込むことになったのです。
山口多聞は、平素は無口でおとなしい人だったそうです。
学業優秀だから、いわゆる秀才でもある。