

















日本の心を伝える会
メールマガジンvol.409
2011/12/27(火曜日)









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真珠湾攻撃と人種差別(1/2)








以下は、12月9日にねずブロで配信した記事に、多少手を加えたものです。
たいへんなご反響をいただいた記事でしたので、メルマガでも配信させていただこうと思います。
長文ですので、今日、明日と二回に分けてお届けします。
真珠湾攻撃については、戦後、いろいろなことがいろいろな人によって書かれています。
残念なことに、これを「人種差別」という見地から語ったものは極めて少ないです。
けれど、ルーズベルトにとって、東洋で反乱する黄色い猿と、同じ人間である白人が作ったソ連では、たとえ共産主義思想というものに何らかの問題があるとしても、「頭のおかしな人間」と、「牙を剥く猿」では、どちらが大事かといえば、答えは明らかだったのです。
真珠湾攻撃は、昭和16(1941)年、ハワイの現地時間では12月7日7時10分、日本時間では12月8日午前2時40分に、日本がハワイオアフ島にある米軍基地に対して行った航空攻撃ならびに潜航艇による攻撃です。
このとき、第一波空中攻撃隊を指揮したのが淵田美津雄海軍中佐で、攻撃に際して「全軍突撃」を表す(ト・ト・ト)を下命します。
そしてその45分後、淵田中佐は、旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電する。
これが「ワレ奇襲ニ成功セリ」の暗号電文です。
この攻撃による米軍の損害は、
戦艦5隻が沈没
駆逐艦2隻 沈没
標的艦1隻 沈没
戦艦3隻 中破
巡洋艦3隻 中破
航空機188機 破壊
航空機155機 損傷
米軍兵士2345人 戦死
という大戦果となりました。
こうして真珠湾攻撃は、世界の戦史上もまれにみる奇襲攻撃の成功例として記憶されるのだけれど、当時、
真珠湾でこの奇襲攻撃を観察していた米軍司令部は、日本軍のあまりの攻撃の素晴らしさに、司令官はドイツ軍将校がやっているに違いないと話し合っていたのだそうです。
要するに、日本人はジャップであり、イエロー(黄色人種)なのだから、白人とくらべ劣っているという先入観が、それだけ強かったのです。
真珠湾攻撃の総指揮官だった淵田中佐は、終戦後も生き残るのですが、終戦直後のある日、3人の大柄な黒人兵が淵田大佐のもとにやってきたのだそうです。
そしていきなりジープに乗れという。
淵田大佐は、こうして30分ほどジープにゆられ、丸の内の郵船ビルの裏手に連行された。
そのころ郵船ビルは、米軍将校たちの宿舎に充てられていたのだそうです。
そしてビル内には、米軍の白人将校向けのバーまでしつらえてあった。
淵田大佐を連行した黒人兵たちは、そのバーで働かされている兵隊だったのだそうです。
バーの楽屋裏に連れ込まれた淵田大佐は、そこに集まった大勢の米軍黒人兵たちから大歓迎されている。
食いねえ、飲みねえ、と、それはそれはたいそうな歓迎だったのだそうです。
そした彼らは異口同音に言った。
「真珠湾攻撃を誰が一番喜んだと思う?」
「それは、われわれ黒人だよ」
当時、米軍兵士と日本人との交流は米軍ないで固く禁止されていました。
その禁を破ってまで、彼ら米黒人兵たちは淵田大佐を真珠湾攻撃隊長と知って、大歓迎したのです。
これは、パラオ、アンガウル島の玉砕戦を生き残った舩坂弘さんも書いておられるのだけれど、米軍の攻め方というのは、はじめ艦砲射撃やら航空機からの爆弾投下で、徹底的な爆弾による破壊を試みたあと、上陸して日本軍の弾の当たるところに出てくるのは、いつも決まって「黒人歩兵部隊」だった。
戦争ですから、先頭にたつ歩兵は撃たれます。
そして先頭の部隊が撃たれることで、敵の居場所がわかる。
わかったら、そこを艦砲射撃で攻撃する。
そして日本軍の弾が飛んでこなくなる頃になってやっと、白人の掃討部隊が前線に出て来る。
要するに黒人は、人でなかった。
テレビや映画などでは、実際のこういう姿は、まず出てきません。
白人の兵隊が勇敢に銃を撃ち、日本軍と戦っているというようなシーンしか放映しない。
けれど、実際の戦闘では、常に敵弾の届く危険なところには、黒人兵が狩り出されています。
それは戦時中のことだから。もう70年も昔のことだから、と思う人もいるかもしれません。
けれど、ボクなどが少年時代だった昭和30年代、40年代頃は、やはりまだまだ白人による人種差別が根強かったし、米国人が、黒人を人として処遇するようになったのは、ほんのこの何十年か前からの、つい最近のことでしかない。
日本は、大正8(1919)年に行われた第一次世界大戦のパリ講和会議で、日本の牧野伸顕全権が明確に「人種差別の撤廃」を主張しました。
黄色人種も、黒人も、同じ人間である。人としての尊厳は、人類みな同じであると主張した。
だから国際連盟の憲章に、人種差別撤廃を謳おうと提案したのです。
人種差別はよくないという概念は、いまでは、ほとんどの日本人が「そんなことはあたりまえ」と思っています。
けれど、植民地支配が全盛の時代にあっては、優等人種と劣等人種という概念は、ごく一般的な世界の常識だったし、「黄色い猿」の日本が提唱する人種平等論というのは、植民地を得ることで自国を富ませるという西欧国家の基本構造そのものを全否定する、つまり経済や政治のすべてを揺るがす、とんでもない危険思想だったのです。
そしてそれに世界で唯一、抵抗し、逆らい、乾坤一擲の大勝負を挑んだのが日本であり、真珠湾攻撃の開戦であった。
W・E・B・デュボイス(William Edward Burghardt DuBois)という人がいます。
米国人で、1868年にマサチューセッツ州で生まれ、1963年にお亡くなりになりました。
このデュボイスという人は、米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人です。
アメリカ合衆国の公民権運動指導者、汎アフリカ主義、ブラック・ナショナリズムの先駆者、全米黒人地位向上協会の創立者でもあります。
昭和11年(1936)年のことです。
彼は、満洲に1週間、中国に10日間、日本に2週間滞在し、「ピッツバーグ・クリア」紙に、「忘れがたい経験」と題したコラムを連載しました。
以下はそのとき掲載された彼の体験談です。
~~~~~~~~~
デュボイスはある日、東京の帝国ホテルでフロントで勘定を払っていました。
そこに“いかにも典型的なアメリカ白人女性”が、さも当然であるかのように、彼の前に割り込みます。
ところが、ホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせず、デュボイスへの対応を続けた。
勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をし、それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向いた。
~~~~~~~~~
フロント係の毅然とした態度に、デュボイスは、これまでの白人支配の世界とは違った、新しい世界の幕開けを予感したといいます。
彼は言います。
「母国アメリカではけっして歓迎されることのない一個人を、日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。
日本人は、われわれ1200万人のアメリカ黒人が、「同じ有色人種であり、同じ苦しみを味わい、同じ運命を背負っている」ことを、心から理解してくれているのだ。」
さらにこの旅でデュボイスは、日本人と中国人との違いを悟ったといいます。
それは上海での出来事でした。
デュボイスの目の前で4歳くらいの白人の子どもが、中国人の大人3人に向かって、その場をどくように言ったそうです。
すると、中国人の大人たちはみな、あわてて道をあけた。
これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。
デュボイスは語ります。
「上海・・・この世界一大きな国の世界一立派な都市は、なぜか白人の国によって支配され、統治されている。