■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

メールコラム「使える!ビジネス古典」

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■No.49■■



君主の徳と背水の陣 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

土佐に生まれた後藤 象二郎という男がいます。

江戸の開成所にて蘭学や航海術、英学を学び、
公武合体派の急先鋒として土佐勤王党を弾圧しましたが、
その後、攘夷論に転換し、尊皇派の坂本龍馬らとともに
明治維新に関わります。

維新後は政府の要職を歴任したほか、自由民権運動に参加したり、
実業家になったりと、一貫した信念の感じられない生き方をしていますが、
なかなかの才人で弁が立ち、時代を見通す力があったといいます。

この後藤象二郎は、幼い頃から読書好きで、7,8歳で『太閤記』を愛読し、
さらには『十八史略』から『史記』までを読み進めて、
10歳にしてすでに政治家の資質を見せていたようです。


そんな後藤象二郎も読んだ『史記』は、史話による人間の百科事典ともいえ、
登場する多彩な人物の根底に流れる考え方には、『論語』『老子』『韓非子』
『孫子』など、諸子百家の思想が反映されていますから、中国古典思想の
実践版と見ることもできるでしょう。


『史記』にはまた、伝説の三皇帝に続き、天子約九十人、諸侯約四百人と、
善悪いずれにせよ個性を発揮した君主の言動が数多く記録されています。

史記は、これだけのサンプルをもった上で、中国古代王朝の興亡について、
共通の条件をあげており、その最たるものを、「君主の徳」としています。


これを企業に当てはめるのであれば、社長の徳こそが、
組織の存続を左右する最重要項目であるということです。

「君主の徳」とは、道徳的・倫理的な意味だけではありません。

では、どういうものかというと、これを体現した君主のひとりである
伝説上の堯(ぎょう)帝の事跡について、『十八史略』に記載があります。


 
  帝尭 陶唐氏は、帝匳の子なり。其の仁は天のごとく、其の知は神のごとし。
  之に就けば日のごとく、之を望めば雲のごとし。平陽に都す。
  茆茨は翦らず、土階三等のみ。
  天下を治むること五十年、天下 治まるか、治まらざるか、
  億兆 己を戴くを願ふか、己を戴くを願はざるかを知らず。
  左右に問ふに、知らず。外朝に問ふに、知らず。在野に問ふに、知らず。
  乃ち微服して康衢に游ぶ。童謡を聞くに、曰はく、我が烝民を立つるは  
  爾の極に匪ざる莫し識らず知らず帝の則に順ふ」と。
  
  老人有り、哺を含み腹を鼓し、壌を撃ちて歌ひて曰はく、
  日出でて作し日入りて息ふ
  井を鑿ちて飲み田を耕して食らふ
  帝力何ぞ我に有らんや。と。
  

 ***解釈***

  帝尭陶唐氏は、帝匳の子である。尭の人徳は、天のようで、尭の知力は、   
  神のようであった。近づいて見ると太陽のよう、望み見ると雲のようで
  あった。平陽に都を置いた。茅で葺いた屋根の軒端を切りそろえず、
  宮殿に上る階段は、土で築かれた三段だけであった。
  天下を治めること五十年に及んだが、天下が治まっているか、
  治まっていないのか、天下の人々が自分を戴くことを願っているか、
  自分を戴くことを願っていないのかわからなかった。
  側近に尋ねたが、わからない。外朝の役人に尋ねたが、わからない。
  民間の人々に尋ねたが、わからない。
  そこで人目につかないように粗末な身なりをしてにぎやかな大通りに
  出かけてみた。わらべうたを聞いたが、それが言うには、
  我々多くの民衆の生活を成り立たせているのは あなたさまの徳のおかげ
  でないものはない。知らず知らずのうちに 帝の示される手本に従って
  しまう。と。
  
  老人がおり、食物をほおばり、満腹している様子で腹つづみを打ち、
  足で地面を踏み鳴らして拍子をとりながら歌って言った、
  太陽が昇ったら仕事を始め太陽が沈んだら休む
  井戸を掘って水を飲み畑を耕して飯を食べている
  帝の力がどうしてわしに及んでいようか、いや、及んではいない。と。

 ********


これが、いわゆる「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」の故事です。

老人が腹づつみを打って歌える世で、人々が強制でなく自発的に働く政治、
民が動かされていると思わず、天子の存在すら気づかなくなる政治、
それこそ、堯帝の思うところでした。


企業であれば、社員がその待遇や報酬に特別の不満を持つことなく、
自発的に働き、会社にやらされていると感じることなく、
社長や上司の存在さえ忘れてしまうくらい管理を感じさせない会社、
ということになるでしょうか。


もう一つ、有名な故事の元となったエピソードをご紹介しましょう。


劉邦と項羽の争覇戦において、漢のために最も功績があったのは、
韓信(かんしん)でした。

韓信の働きがなければ、劉邦は項羽に勝つことができなかったかもしれません。
そのほど大きな功績にもかかわらず、あるいはその大きすぎる功績ゆえか、
韓信は悲劇的な最後を遂げています。

韓信の名を轟かせた戦績のひとつが、有名な「背水の陣」です。

約二十万の越軍にわずか4万程度の兵で打ち勝った戦法は、
川を背にして布陣を敷くという一見兵法に反したものでした。

しかし、実際の戦術はこうです。

3つに分けた軍のうちの第1軍を、迂回路を使って趙本陣である城の背後に
潜ませ、第2軍を趙軍を挑発するために本陣を横切らせてから川の前におきます。
そして、第3軍を韓信の本体としました。

第2軍が趙軍を挑発しても、趙軍は本軍に逃げられることを恐れて
まだ動きません。

韓信は、第2軍が布陣についた頃を見計らって第3軍を率いて攻め込み、
当然のように負けますが、被害を最小限に食い止めて第2軍のいる陣地に
逃げ込みました。

趙軍は韓信軍を一気に打ち負かそうと城内全軍で追いかけ、総攻撃をかけます。
しかし、川を背にして逃げ場のない韓信軍は死に物狂いで戦ったため、
趙の猛攻にもなんとか耐えます。

この間に、第1軍が趙の城に入って占領し、混乱した趙軍に今度は韓信軍が
総攻撃をかけて、ついには韓信軍が大勝しました。

実は、韓信は兵法に逆らっていたわけではなく、
「彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず」に則って、
自軍の状況を見極め、敵将陳余を良く知っていたからこそ
取ることができた戦略だったのです。

韓信が孫子の兵法を真に理解していたことは言うまでもありません。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ご意見・ご感想・メッセージ等はこちらからどうぞ。

https://www.mshonin.com/form/?id=210221277


                    ビジネス古典研究会
             http://ameblo.jp/business-koten/


--------------------------------------------------------------------
このメールの受信停止を希望される方は、下記URLをクリックしてください。
http://www.MShonin.com/regist/rmlist.asp?sid=2102&cid=17400&mid=39627
画面上で「配信拒否」ボタンをクリックすると配信が停止されます。

※上記のURLが折り返して2行になっているときは、1行につなげてブラウ
 ザに入力してアクセスしてください。
--------------------------------------------------------------------