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メールコラム「使える!ビジネス古典」

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オリジナルで感じる 
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと言えば、知らない人はいない
天才音楽家です。

神童とも呼ばれた彼は、5歳で『アンダンテ ハ長調K.1a』を作曲し、
11歳の時には、オペラ『ラ・フィンタ・センプリーチェ』を上演しました。

ローマのシスティーナ礼拝堂では、秘曲とされていたドメニコ・アレグリの
9声部、『ミゼレーレ』を聴いただけで楽譜に書き示したとか、
6歳の時演奏旅行に出かけたウイーンでは、女帝マリア・テレジアの御前で
演奏をし 、7歳の皇女マリー・アントワネットにプロポーズした。
などという逸話も残っています。

実はスカトロジー趣味があったなど、天才ならではの奇行も伝えられていますが、
35年の波乱に満ちた短い生涯の中で創作された優雅で繊細な感情を持つ作品は、
没後200年以上経った今なお色褪せることなく光り輝き続けています。

そして、こうした天才の没後には、必ず、この天才について研究する人たちが
大勢現れます。

モーツアルトについても然りで、日本では、モーツアルト研究所、
日本モーツアルト協会会長を務め、モーツアルトについての著書も多数持つ
海老沢敏氏などが有名です。

国立音楽大学名誉教授であり、ザルツブルク州黄金勲章、紫綬褒章受章、
文化功労者。オーストリア共和国有功勲章学術・芸術第一等十字章、
フランス政府学術功労勲章オフィシエおよび芸術文化勲章オフィシエ受章。
などの華々しい受賞歴を持つ海老沢氏は、立派な音楽学者です。

モーツアルトが天才だとすれば、海老沢氏は秀才音楽研究家といったところ
でしょうか。

天才音楽家の作品と生き様を後世に伝えることは、この秀才音楽研究家に
とって、使命ともいえることがらなのでしょう。


実は、このコラムで中心的に取り上げている「五経」にも、この天才と秀才
の関係が当てはまります。

「五経」では、天才の作品……ではなく、聖人のことばを、秀才ならぬ賢人が
後世に伝えています。

これが、今、私たちが読んでいる五経の「経」と「伝」です。

経とは本来「縦糸」の意味で、織物には本来縦糸があるように、人の道にも
古今を貫く道があるということから名づけられたものです。

また、「聖人の書かれた経、賢人の書かれた伝」と言われるように、
伝は本来、聖人の書いた今日を解釈したり、敷衍(ふえん:意義・意味を
おしひろめて説明すること。わかりやすく詳しく説明すること)したものです。


しかし、伝を書いた人も賢人ということになると、後世にとっては伝自体の
解釈も重要なものということになります。

儒教の経典である五経の中で、現在、経と伝が揃っているのは、以下の通り
です。

「易経」
彖(たん)伝、象(しょう)伝、繋辞(けいじ)伝、文言(ぶんげん)伝、
説卦(せっか)伝、序卦(じょか)伝、雑卦 (ざっか)伝。

「詩経」
毛伝(もうでん)

「春秋」
左氏伝、公羊(くよう)伝、穀梁(こくりょう)伝


さて、なぜ、「経」と「伝」のお話をしたのかといいますと、
先にも挙げたように、ひとつの「経」に対して、「伝」は複数存在すること
があり、その伝えるところがそれぞれの「伝」によって違っていたり、
ときには、「伝」が「経」の伝えんとするところを曲げているのではないか?
と疑われる部分さえあるからです。


例えば、『大学』冒頭の有名な一節。

  大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しまむるに在り、
  至善(しぜん)に止まるに在り。

 ***解釈***
  
  大学で学問の総仕上げとして学ぶべきことは、輝かしい徳を身につけて
  それを(世界に向けてさらに)輝かせることであり、(そうした現実
  を通して)民衆が親しみ睦み合うようにすることであり、こうして
  いつも最高善の境地に踏み止まることである。

 **********
  
この文章にある、「民を親しまむる」の部分を、朱子は「新民」と解釈する
「伝」を、次のように書いています。

  湯(とう)の盤(ばん)の銘に曰わく、「苟(まこと)に日に新たに
  せば、日日に新たに、又た日に新たなり」と。
  康誥(こうこう)に曰わく、「新たなる民を作(おこ)す」と。
  詩に曰わく、「周は旧邦と雖(いえど)も、その命は惟れ新たなり」と。
  是の故に君子はおの極を用いざる所なし。

 ***解釈***
  
  殷の湯王の沐浴のための盤に刻みつけた銘には、「まことによく一日
  自ら古い汚れを去って新たにするならば、その新たになったところを
  もととして日々に新たにし、さらにまた日ごとに新たにする」とある。
  『書経』の 康誥には、「自ら新たにしようという人民を奮い立たせる」
  と言っている。
  『詩経』大雅の文王篇には、「周は古い国であるけれども、文王はよく
  自分自身の徳を新たにして、それを民に及ぼし、新しく天命を受けた」
  と言っている。
  そこで君子は常に自らを新たにし、民を新たにして、完全無欠な善の状況
  に到達して映らない努力をするのである。

 **********
  
 つまり、朱子は、殷の湯王の盤にある銘、『書経』、『詩経』の3つの
 例を引き合いに出して、『大学』にある「民を親しまむる」の部分にあたる
 「親民」を、「新民」と読み替えたのです。
 
 しかし、伝の他の部分では、「民に親しむ」と述べている文章もあり、
 『大学』の古い注釈や、後に朱子学を批判する陽明学では、「親民」
 と読んでいます。
 
 同じ文章でも、解釈する人により、後への伝え方が変わってくるという
 実例です。
 
 面白いのは、こうして、「親民」を「新民」と読み替えている朱子が、
 『詩経』に注をつけた書物『詩集伝』では、「於(ああ)、緝熙(しゅうき)
 にして敬止(けいし)す」の「止」の字を、意味はなく、ただ語調を整える
 だけの文字として、こんなふうに書いているのです。
 
 「昔の人が『詩経』の言葉を引用するときは、必ずしもその詩の本来の
 意味で引用するわけではなく、自分の都合の良いように解釈して利用する
 のである。」
 
 こうした引用の仕方を「断章取義(だんしょうしゅぎ)」といいますが、
 このようなことhじゃ古典だけでなく、現代でもよく行われていること
 でしょう。(苦笑)
 
 「伝」は必ず「経」を合わせて読むことが当然であるのと同様、
 人の解釈が入った引用だけでなく、必ずオリジナルを求めることを
 忘れないようにしたいものですね。
 


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