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日本の心を伝える会
メールマガジンvol.386
2011/10/21(金曜日)
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〇〇〇〇様

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┌【1】大空のサムライ 檜貝嚢治(5/5)
└────────

≪昨日の記事からの続き≫

ちなみに、このときの支那軍の空爆の仕方と、檜貝大佐らが行っていた日本軍の空爆の違いは、その他の戦闘でもまったく同様です。

日本軍は、敵の砲火をかいくぐりながら、低空で侵入してピンポイントで、敵の重機を討ちました。
これに対し、支那軍は(米軍もだけれど)、高高度で侵入して、対空砲火弾の届かない上空から、無差別に大量な爆撃投下を行う。
下手な鉄砲数撃ちゃ当たる戦法と、たとえ危険であってもできるだけ敵の人名を奪わず、必要最低限でもっとも効果的な攻撃を行う。
日本軍は、戦場という過酷な場においても、常に正々堂々だったのです。

以前、ねずきちブログで「ハーグ陸戦条約」のことを書いていますので、よろしかったらご参照していただければと思います。
世界の戦史上、ハーグ条約を最後まで遵守し抜いたのは、日本軍だけです。
日本は、国際法を遵守して、実に正々堂々と戦った。
≪ハーグ陸戦条約≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-894.html


さて、昭和15年10月10日に、紀元2600年の記念大式典が行われました。陛下もご臨席賜る特別観艦式も開催されます。

檜貝大佐は、このとき大尉です。
彼は、総指揮官小澤治三郎少将が搭乗する九六式陸攻に乗り組み、操縦桿を握りました。

檜貝機は、530機の大編隊の先頭を飛びます。
その大編隊で東京湾上空を舞う姿を陛下にご覧いただくという、パイロットとしての最高の栄誉を、彼は担ったのです。

昭和16年11月、真珠湾攻撃を前に、少佐に昇進した檜貝は、飛行隊長として、ふたたび霞ヶ浦航空隊に転属となります。

霞ヶ浦で檜貝大佐はご結婚されました。彼はこのとき35歳でした。
お相手の女性は、岡部通陸軍少将の長女の麗子さん、19歳です。
ちなみに山本五十六の奥さんの礼子さんの妹が岡部通夫人です。
ですから、麗子さんは山本五十六元帥の姪子さんとなります。

山本五十六長官は、この結婚にたいそう喜んだそうです。
彼は会う人毎に、
「檜貝は自分の姪には過ぎた男だ」と、ニコニコしながら自慢していた。
わかる気がします。

けれど、檜貝大佐の新婚生活は、わずか11ヶ月で終わってしまいます。
昭和17年12月、檜貝は、七〇一空の飛行長となり、中攻三十六機をひきいてラバウルのブナカナウ飛行場に進出したからです。

よく軍人は戦争好きだと言う人がいます。
断固として申し上げるけれど、それはまったくの嘘です。デタラメです。
実は、軍人ほど平和を求める人たちはいない。
世界中どこでもそうです。
そして日本では、その傾向が特に強かった。

だってそうでしょう。
戦えば必ず死人が出るのです。
それは自分かもしれないのです。

軍人だって愛する家族がいる。
生きて、ふたたび家族に会いたい。愛する人に逢いたい。
その気持ちは、人として誰もが同じです。
だから、死に最も近いところにいる軍人こそ、まさに平和を望み、平和を大事にする。
そのために厳しい訓練にも耐えるのです。

東条英機総理は、日本を戦争に導いた人であるかのように言う人がいます。
東京裁判史観に染まった人達です。
けれどそれは間違いです。
東条英機を総理に任命したのは、陛下です。
陛下の任命理由は「日米開戦を回避できるのは東條しかいない」というものです。

戦争を回避するために、選びに選びぬき、熟慮を重ねつくして選ばれた総理が、東條英機氏だったのです。
文官が、このとき総理に選ばれていないのか、戦後の私たちは、そのことにもっと注意をはらうべきだと思います。

戦後左翼が台頭する中で、多くの元帝国軍人は、左翼からのいわれなき誹謗中傷にじっと耐えてこられました。
なぜなら戦後日本が「平和」だったからです。
日本が平和であること。平穏であることを、誰よりも臨んだのが「戦争を知る」生き残った旧帝国軍人さんたちだったのです。

檜貝大佐も、愛する妻を内地に残してラバウルに進出されました。
その心や、推して知るべしです。
誰だって愛する妻と別々に暮らしたくなどないのです。

このとき、ラバウル航空隊は、ガダルカナル島撤退という大課題を抱えていました。
檜貝大佐は、支那事変当初から髪はオールバックにしていたのだけれど、ラバウルに進出したとき、頭を三分刈りのくりくり坊主にしました。
秘めた決意があったのです。
愛する人との別れと、自らの死を、彼はこのとき覚悟していたのです。
ラバウルで、田舎の老いた母が彼の身を気づかって送ってくれた手作りの梅肉エキスを食べている坊主頭の彼の姿は、とても神妙だったそうです。
わかる気がします。

昭和18年1月29日早朝、哨戒機が敵の大艦隊をレンネル島東方で発見しました。
このときの米艦隊の陣容は、重巡3隻、軽巡3隻、軽空母2隻、 駆逐艦8隻という大艦隊です。

飛行隊長の巌谷二男大尉が出撃準備をしていると、そこに檜貝大佐が来たそうです。

「隊長、今日の攻撃はぼくにやらせてください」
檜貝大佐は、いつもの丁寧な口調です。

巌谷隊長は、テニアンで充分、夜間照明雷撃の訓練を積んでこられた方です。
張り切っていた厳谷隊長は、
「いや、今日はぜひ私にやらせて下さい」と断ったそうです。

しかしこのとき檜貝大佐は、いつにない強い調子で、
「何としても私にやらせて下さい」と食い下がった。
これは彼にしてはたいへんめずらしいことです。

言い合いが何度かつづいて、あまりに熱心に檜貝大佐が言うので、巌谷は一歩ゆずり、
「では私は、照明隊として行きましょう」ということにした。

ところがこのとき、ひどいデング熱で弱っていた山田豊司令が、
「飛行長と飛行隊長が二人一緒に出ては困る」と言い出します。
結局、巌谷が折れ、出撃を断念し、檜貝大佐が出撃することになった。

このとき、檜貝大佐は司令に挨拶したあと巌谷に向かい、
「隊長、あとを願います」と、日頃の柔和な顔に、真剣な表情をみせて言ったそうです。

巌谷は、檜貝の目をじっと見つめ、
「ご成功を祈ります」と答えた。
これが二人の今生の最後の別れとなります。


午後1時10分、18機の九六式陸攻と6機の照明隊をまとめて、檜貝大佐はラバウル基地を飛び立ちました。
先に目標海域に到着した七〇五空の一式陸攻が、敵艦隊を発見して攻撃を行います。
照明弾をあげ、敵艦隊への奇襲攻撃を開始したのです。

そして第一陣が燃料と爆弾の底をついて去った一時間後、檜貝大佐の部隊が、現場に到着します。

物量にものを言わせた猛烈な敵の防御砲火をかいくぐり、檜貝の指揮官磯は、主翼に赤と緑の翼端灯を点じて先頭をきって突っ込みます。

照明弾に照らされた敵艦は、米国の誇る重巡洋艦シカゴです。
総排水量9300トン、乗員621名の大巡洋艦です。

檜貝大佐が雷撃しようとしたとき、敵のはげしい砲火に一瞬目がくらんだ。
檜貝大佐は、敵艦の姿を見失い、もちまえの几帳面さで、機の体制を立て直しにかかります。
そして、雷撃をやりなおしたのです。

雨のような猛烈な対空砲火の中の転身です。
機の高度は低い。

敵弾がすぐそばで炸裂する中で、檜貝大佐は慎重に機の体勢を立てなおし、魚雷を2発、発射します。

魚雷が、敵艦めがけて、突き進みます。
その直後、檜貝機が、被弾します。

機体が黒煙をあげます。
こうなると、最早、帰還は望めません。

17時45分、檜貝大佐は、機体をシカゴの正面から甲板すれすれに突入し、飛び散ったガソリンで甲板を炎上させます。
そして艦橋で急上昇すると、シカゴの後方上甲板に機体を激突させました。
見事な特攻攻撃でした。

檜貝大佐が機体もろとも散華された直後、檜貝大佐が放った魚雷が2本、シカゴの右舷に命中します。
シカゴは、前、後甲板とも火の海となり、右舷からはドクドクと浸水します。
航行不能となったシカゴは、総員に退艦命令を出す。

しかし、重巡洋艦というのは、そうそう簡単には沈みません。
シカゴは、重巡洋艦ルイビルに曳航され、戦地を離れようとします。

翌日、ラバウル基地を飛び立った七五一航空隊がこれを発見。
シカゴに、4本の魚雷を命中させ、沈没させています。

こうして檜貝嚢治大佐は、大空の武士として、壮絶に散華されました。

檜貝大佐の死を聞いた軍令部のある参謀は、
「少佐を失ったことは、戦艦『陸奥』が沈んだよりももっと痛手だ」と嘆いたそうです。

檜貝大佐を失ったことにより、帝国海軍は、その戦闘力を失っただけでなく、優秀な後進の指導能力をも失ってしまいました。
損失ははかり知れないものがあります。
あまりのことに、檜貝大佐は、戦死されたことすら、しばらく秘匿された。

大佐の死後、1年4カ月後、昭和19年5月29日、彼の死は全軍に告知されました。
そして檜貝嚢治少佐は、二階級特進して大佐に任ぜられた。
彼の葬儀は昭和20年3月、故郷の佐倉町で町葬として行われました。

檜貝大佐の妻の麗子さんは、夫の死の2カ月後に、長男の登さんを産まれました。
麗子さんは、戦火が激しくなる中、赤ん坊を連れて実家の宇都宮に戻り、縫製の仕事をしていたそうです。
ところが、この実家も空襲で焼かれてしまう。

戦後、麗子さんは、登を夫の実家に一時あずけて、東京の服装学院に通って洋裁の技術を身につけました。
そして卒業後、洋裁の資格を活かしながら、女手ひとつで登さんを育てられています。

麗子さんには、おつらいこともいっぱいあったろうと思います。
しかし彼女の心には、いつも亡き夫の檜貝嚢治さんが生きていたそうです。
つらいときも悲しいときも、彼女は夫と心の中で対話した。

お子さんの登さんは、やはり龍の子です。
優秀な若者として育ち、早大を卒業後、原子力会社に勤務されました。

人から人へ、世代から世代へ。

私たちの日本の歴史は、過去も現在も未来も、ずっとつながっています。

歴史は学ぶためにあります。
歴史を単に批判のための道具にするのではなく、先人たちの姿を謙虚に学ぶことで、私たち日本人は、日本という国が、ほんとうに素晴らしい国であることを実感できます。

檜貝嚢治大佐のご冥福をお祈りしたいと思います。


 v(^∀^*)ノ*:。。.:*ヽ(*^∀^)ノ*:.。。.:*



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