

















日本の心を伝える会
メールマガジンvol.379
2011/9/28(水曜日)









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@もくじ


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■□【1】インパール作戦とパル判事 (3/4)
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インパール作戦とパル判事(3/4)








《昨日の記事からの続き》
ようやく日本軍は潰走をはじめます。
街道を撤退しはじめた。
マラリアに犯され、敵弾を受けて怪我をし、食い物もないガリガリに痩せ細った姿で、街道をよたよたと下がり始めます。
そこには、日本の将兵の何万もの遺体が転がった。
インパール作戦について不思議なことがあります。
それは、現在にいたるまで、英国軍が日本軍を打ち破った誇りある戦いとしてインパールを「誇って」いない、ということです。
戦いのあとインドのデリーで、英国軍が戦勝記念式典を開催しようとした事実はあります。
英国軍よいしょのインド人たちが、おめでとうございますと、戦勝記念式典を企画したのです。
ところが、当時インドに駐留した英国軍の上層部から、これに「待った」がかかった。
結果として、戦勝記念式典は、行われていません。
15万対9万の陸戦という、ヨーロッパ戦線おいてすらあまりなかったような世界的大会戦だったのです。
それに勝利したなら、盛大なパレードと、飲めや歌えやの大祝賀会が開催されたっておかしくない。
けれども、祝賀祭も、パレードも開催されていない。
この戦いに参加した英国の将兵にしてみれば、とてもじゃないが、この戦いを「勝った」と誇る気分にはなれなかったのではないでしょうか。
実戦に参加せず、安全な場所にいて指示だけ出していた連中が、得々と戦勝記念祭を開催しようとしても、実際に戦った英国軍の将兵たちは、それをこころよしとしなかった。
英国軍は、なるほどインパールの戦闘に「勝ち」ました。
しかし、戦いに参加したすべての英国軍将兵たちにとって、その戦いは、ひとつも気持ちの良いものではなかった。
要するに、どうみても「大勝利」したはずの戦いで、彼らは自分たちの「敗北感」をひしひしと感じていたのではないでしょうか。
すくなくとも、騎士道精神を誇りとする英国の将兵には、それが痛いほど感じられたのではないかと、ボクは思う。
なぜなら、彼らも「人」だからです。
牟田口中将以下の日本の将兵は、戦いに負けることはわかっていた。
補給さえないのです。
そして牟田口中将は「皇軍兵士」という言葉を多発しています。
自分たちの戦いの相手は、騎士道精神を持つ英国軍本体です。
ならば、かならず伝わる、そう思えたから、彼らは死を賭した戦いをしたのではないでしょうか。
だから「負ける」とわかっている戦いに、敢えて臨んだのだし、最初から死ぬつもりで出撃した。
当時生き残った日本兵が書いたどの本を見ても、戦いの最初から最後まで、日本兵の士気は高かったと書いています。
たとえば、社員数10万人の大手の企業で、負けるとわかっている戦いをした。
実際会社はそれで給料も払えずに倒産したら、そりゃあ社長はボロカスに言われます。
しかしひとりひとりの社員が、あるいは社員全員とはいいません。
中間管理職のみんなが、「自分たちのしていることは、社会的に意味のあることだ」という信念を持ち続け、最後のさいごまで、日々の業務に誠実に取り組んだら、おそらくその会社は倒産しても社員たちは、それでも製品を作り続けるだろうし、士気も高い。
インパール作戦は、そもそも「インド独立運動を支援する」ために組まれた作戦です。
その頃の日本軍は、すでに退勢にたたされていたのであって、戦線は縮小の方向に向かっていた。
にもかかわらず、インドという大陸に、第十五軍は進軍した。
インドの独立のために。
自らを捨て石とするために。
もうひとつ大事なことがあります。
餓鬼や幽鬼のような姿で街道を引き揚げた日本の将兵たちは、誰一人、街道筋にある村や家畜、畑を襲っていない、ということです。
お腹も空いていた。
病気にもかかっていた。
怪我もしていた。
退路の街道筋には、ビルマ人の民家が点在しています。
そこでは、時間になれば、かまどに火がはいり、おいしそうな食事のにおいがあたりをおおいます。
屋根だってある。
場所は熱帯です。
猛烈な暑さ、湿度、スコール等々。
自然環境は厳しい。
怪我をした体に、屋根は本当にありがたいものです。
けれど、誰一人、民家を襲ったり、食い物を奪ったり、家畜を殺して食べちゃったりとかをしていない。
退路を引き上げる日本兵は、銃を持っているのです。
銃で脅せば、飯も食える。
屋根の下に寝ることだってできる。
怪我の薬を奪うことだってできる。
腹いっぱいになったら、その家の娘や女房を強姦することだってできたかもしれない。
世界では、銃を持った敗残兵が、そのようなことをするのは、いわば「常識」です。
自分が生き残るためなのです。
しないほうが、おかしいといっていい。
けれど、約6万人が通り、うち4万名が命を落とした街道筋で、日本兵に襲われた民家というものが、ただの1件も、ない、というのは、どういうことでしょうか。
インパール作戦について、いろいろな人が、いろいろなことを書いています。
それに対して、インパール作戦に参加し、生き残った人々からは、なんの反論もされていません。
しかし、ひとつだけいえることは、インパール作戦を生き残った人たちは、インパール作戦を、「インパールの戦い」とは、いっさい認めなかったということです。
他の戦いは、たとえば硫黄島の戦いにしても、拉孟(らもう)の戦いにしても、「戦い」です。真珠湾は「攻撃」です。
しかし、インパールはいまだに「インパール作戦」です。
「戦い」は、目的の如何に関わらず、敵が攻めてきたら防戦しなければならない。
だから「戦い」と呼びます。
しかし、インパールは「作戦」です。
「作戦」というのは、目的があるから「作戦」なのです。
その目的は、「インドの独立に火をつけること」です。
インパール作戦には、当初大本営はガンとして反対していた。
それにたいし、「どうしても実行を!」と迫ったのは、当時日本に滞在していたチャンドラ・ボーズです。
チャンドラ・ボーズは、インド独立の志士です。
そして大本営は、チャンドラ・ボーズの意思を受け入れ、「作戦」の実施を牟田口中将に命じます。
牟田口中将以下のビルマ駐屯隊の将官たちは、それが「どういう意味を持っているか」。
その「作戦を実施」することが、自分たちの運命をどのようなものにするか。
彼らは戦いのプロです。
瞬時にしてその「意味」も「結果」も悟ったであろうと思います。
そして、すべてをわかった上で、作戦命令を実行した。
だから彼らは、インド国民軍の主力をまるごと温存したのではないでしょうか。
自分たちは、ここで死ぬ。
あとは君達で頑張れ。
そこに、おおきなメッセージが込めれられているように思えてならないのです。
普通なら、世界中どこでもそうであるように、この種の戦いでは、むしろインド国民軍を先頭にします。それが世界の戦いのセオリーです。
なにせ、インドの独立のための戦いなのです。
インド国民軍を先頭に立てて、なにが悪い。
しかし、牟田口中将以下の日本の将兵は、それをしませんでした。
自分たちが戦いの先頭に立った。
軍だけではありません。
個別に数名のインド兵を率いた日本の下級将校たちも、みんなそうした。
それが史実です。
「この戦いで、日本は負けるかもしれない。
しかし、ここで戦った日本兵の心は、インドの人々の心に残り、かならずやインドの人々の決起を促すであろう」
インパール作戦は、まさに「肉を切らして骨を断つ」という武道の奥義です。
だから、インパールは「作戦」なのです。
そして「作戦」は成功し、間もなくインドは独立を果たしています。
≪明日の記事