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日本の心を伝える会
メールマガジンvol.377
2011/9/26(月曜日)
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【1】インパール作戦とパル判事 (1/4)
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【2】携帯で接続の皆様へ
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1インパール作戦とパル判事(1/4)
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今日から4日間にわたり、インパール作戦とパル判事についての記事をお届けします。

白骨街道というのは、ご存じのとおり、インパール作戦における退却路です。

インパール作戦で敗退した日本軍は、退却戦に入っても飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受けながら、退路地を退いて行きました。

飢えて衰弱した体でマラリヤや赤痢に罹患し、負傷して痛む体を引きずって、この道を約7万の日本陸軍の兵士たちが退却した。

そして街道で約4万人の日本兵が亡くなり、無事に帰還できた者はわずか2万名でした。

途中の退路には、日本兵の白骨死体や腐乱死体が点々と折り重なっていたところから、白骨街道の名前がつけられました。

その道筋では、亡くなって一か月経過した者は白骨となっています。

亡くなって一週間程度の屍はどす黒い汁が流れ、黒い大型のピカヒカ光る蠅が群がり、黒い大きな固まりがそこにあるように見えたそうです。

なにかの拍子に蠅が飛び上がる。
すると遺体がもぞもぞと動いて見えたそうです。
大量の蛆が、遺体を食べながら動いているのです。
すさまじい腐臭です。

その一体、一体が、尊い命です。
歓呼の声に送られて出征した、笑顔さわやかな頼もしい皇軍兵士たちです。

生きて生還できた小田敦己さんの談話には、次のような記述があります。

~~~~~~~~~~~~~
半日前とかー時間ほど前に息を引き取ったのか、道端に腰掛けて休んている姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。

また、手榴弾を抱いたまま爆破し、腹わたが飛び散り「真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。

そのかたわらに飯盒と水筒はたいてい置いてある。
また、ガスが充満し牛の腹のように膨れている屍も見た。

地獄とは、まさにこんなところか・・・・ その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。

そのような姿で屍は道標となり、後続の我々を案内してくれる。

それをたどって行けば細い道でも迷わず先行部隊の行った方向か分かるのだ。

皆これを白骨街道と呼んだ。

この道標を頼りに歩いた。

ここらあたりは、ぬかるみはなく普通の山道で緩い登り下りである。
雨があがり晴れれば、さすかに熱帯、強い太陽か照りつける。

暑い。
衰弱しきった体には暑さは格別厳しく感じられる。

≪一兵士の戦争体験ビルマ最前線白骨街道生死の境 小田敦己≫
http://www.geocities.jp/biruma1945/index.html
~~~~~~~~~~~~~

英国軍は、この退路にも、しばしば現れて、容赦なく銃弾を浴びせました。

撃たれて死んだ者、伝染病に罹患して餓死した者の遺体や動けなくなった兵は、集団感染を恐れて生死を問わずガソリンをかけて焼却したといいます。

インパール作戦というのは、昭和19(1944)年3月から6月にかけてインド北東部の都市インパールを目指してビルマ北部で展開された戦闘です。

日本は、この戦いで敗退しました。

作戦を指揮した牟田口中将も、
「戦場でもっとも大切な兵站を無視した無謀な戦いをした」
「牟田口中将はバカである」
「はじめから意味のない戦いだった」
等々、戦後あらんかぎりの罵声が浴びせられました。

実際、日本兵9万が出撃し、3万名が戦死、4万名が戦病死したのです。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」は世のならいです。
まして多くの味方の人命が奪われる負け戦では、それを指揮した将校は、後々の世までボロかす言われる。
それはある意味しかたがないことかもしれません。

しかし、思うのです。
負けた戦いを、単に「負けたからアイツはバカだ」というのは簡単です。
けれどそんな「評価」をいくらしたところで、失われた人命が帰ってくるわけではありません。
むしろ後世を生きる人間にとってたいせつなことは、そのように歴史を「評価」することではなく、歴史から「何を学ぶか」にあるのではないかと思うのです。

インパール作戦についてみれば、後世の我々からみて不思議なことがいくつかあります。

昭和19年といえば、もはや戦局は厳しさを増してきているときです。
日本は、全体として防衛領域の縮小を図ろうとしていた時期にあたります。
にも関わらず、牟田口中将は、なぜあらためてインドへ向けて出撃しようとしたのか。

兵站が不足している。
それは行く前からわかっていることです。
にもかかわらず、敢えて、出撃したのはなぜか。

無謀な作戦、意味のない作戦だったというけれど、それならなぜ、英国軍はインド方面の総力ともいうべき15万の大軍を出撃させてこれを迎え撃とうとしたのか。
意味がないなら、迎撃する必要さえないはずです。

そしてまた、英国軍15万に対し、日本軍は9万の兵力です。
日本側には、インド国民軍の兵士4.5万人がいたけれど、なぜか日本軍はインド国民軍を6千名しか戦いに参加させていません。
4万のインド国民軍を温存したのです。
どうしてインド国民軍を、厳しい戦いとなることが分かっているこの戦いに参加させなかったのでしょう。

さらにこの戦いは、英国15万対日本軍9万という歩兵陸戦の大会戦です。

世界史に残る有名な歩兵大会戦といえば、ナポレオン最後の戦いといわれるワーテルローの戦い(フランス軍12万、英欄プロイセン連合軍14万)、明治3(1870)年のセダンの戦い(フランス軍12万とプロイセン軍20万の戦い)、日露戦争の奉天戦(日本軍25万、ロシア軍31万)などがあげられます。

インパール作戦は、これに匹敵する大規模な陸戦です。
にも関わらず、英国は、このインパール会戦について、「勝利を誇る」ということをしていません。

こうなると、巷間言われている、単に無謀な戦い、意味のない戦いというのは、なにか違和感を覚えます。


《明日のメルマガに続く》


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