退屈な人生は退屈な人間と同様に嫌いだ。
最近の日本は見るべき物が何もない。まともに関わり合うのも馬鹿らしい。
どうせ馬鹿馬鹿しいなら、己の馬鹿馬鹿しい出来事、悪ガキ人生でも振り返ってみるとするか、あまりにも退屈なので。
因みに『悪ガキ』というのは、かつて弟が私を評した言葉だ。本人にその自覚は全くないのだが、まあ妥当な言葉なのだろう。
弟は私と同じく品行方正で優秀な奴でK大K学部にストレートで入学した。他の学部にも合格したようだ。
K大学に幼稚舎から入学した横浜の友人は、地方から実力で入学するのはたいしたもんだと誉めてくれた。
たしか、彼は毎日私と野球ばかりやって遊び惚けていたはずなんだが……。まあいずれにせよ、弟子が成長するのは嬉しいものだ。私がマンツーマンで指導した結果だと人には言うことにしている。彼は高校入学の際に一度浪人しただけで、その後は全く挫折を味わっていない。
私とはえらい違いだ。私はと言えば、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら生きている文字どおり怪我だらけ、傷だらけの人生だ。
まずは、赤ん坊の頃に、私をおぶったまま母親が階段から転げ落ちて、左手親指に怪我をした。第二関節が曲がらない。
三歳の頃には、近所の小学生の顔に石をぶつけて流血させてしまった。母親は、あわてて医者に連れて行って平謝りだ。病院で私が『自分がやった』と吹聴するものだから、えらい肩身の狭い想いをしたようだ。
また、同じ頃、祖父が経営していた青果市場の卵の殆どを割ってしまったことがある。喜んだのは飼っていた犬だけだった。
小学生の頃は、やはり外で遊び惚けていた。母は自分で仕事をしていたので、あまり細かいことは言わなかったが『喧嘩に負けて帰ってきたら家には入れない』という教えだけは律儀に守った。
とにかくエネルギーが有り余っている腕白なガキだった。家の廊下と階段に蝋を塗りまくり、えらく祖父に叱られて掃除させられたりした。
学校では殆どの担任にひっぱたかれた。柱に縛り付けられたり、バケツを持って廊下に立たされたり、冬に廊下に2時間も正座させられたり。大体はいじめとか喧嘩が原因だ。この時に顔を引っ掻かれた疵が今でも残っている。相手はボボ・ブラジルというニックネームの通り、色黒でガタイの大きいライバル的な野郎だ。こいつと一緒に2時間も座らされた。
また、雨上がりに体育館から校舎への渡り廊下を走って転んで、コンクリートの角に目尻を打ち付けて何針か縫った。
5才の頃には、母の弟である伯父が私を抱いたままトラックの荷台から飛び降りて、私の左足を地面に打ち付け骨折させてしまった。私が痛がって泣くのを見た祖父は激怒して『ぶっ殺してやる』と実の息子を追っかけ回したものだから叔父は一晩中帰って来なかった。孫は可愛いようだ。
山に行って、漆の木でチャンバラをやってひどいめにあったこともある。
私が母に買って貰った地球儀を母が夫婦喧嘩の際に凶器に使用してわずか2週間で壊してしまったこともある。その後、罪滅ぼしにさらに大きいのを買ってもらったのだが。無理もない、親父は酒乱の気があったのでおとなしくしていたら命がいくつあっても足りなかったのだろう。
私も夜中に夫婦喧嘩の仲裁に入って、親父に3kgの鉄アレーを肩にぶつけられたことがある。止めに入ると、包丁を持ち出そうとしたので廊下に引きずりだしたら、どさくさに紛れて母が親父のケツに蹴を入れた。その後、鉄アレーを持ったので、まさか投げないだろうとたかをくくっていたら本当に投げやがった。しかも、思いきり。私はすぐに親父を押さえ付けて馬乗りになり母に警察を呼ばせた。その間、腕に噛み付かれるわ、散々だ。次の日以来親父は『実家に帰る』(父は婿養子なのだ)と言って約1週間帰って来なかった。警察を呼ばれたことがショックだったようだ。
今、振り返ると何とも荒っぽい、常に特等席でプロレスを見ているような昔どこでもよく見たような懐かしくも関わりたくない風景であった。この親にしてこの子ありといったところか。
しかし、自分の悪ガキぶりやトバッチリを書いたらエンドレスだ。ただし、悪ガキといっても私のモットーは徒党を組まないことと弱い者いじめはしないということだ。
いや、厳密に言えば例外もあるかもしれない。大好きだった、誰もが振り向く超美人の初恋のMちゃんに『いじめられた記憶しかない』と言われたのには、さすがに返す言葉がなかった。私一流のねじ曲がった愛情表現はどうやら伝わらなかったようだ。しょうがないので『昔いじめて、ごめんね』って、優しくベットの中で謝っておきました(ニャハッ!)。
普段は、おとなしい私が本来の負けん気を爆発させたのはアメリカ留学時代だ。行き先は、日本人のいないところに行った。集まると日本語ばかり話して意味が無いからだ。
彼らは食事の際に自然と白人と黒人に別れる。私は半年くらいは一人で食べていた。
ある時に、寮の2階で皆が写真を撮っていた。私の部屋の前だったので、部屋に入ろうとすると『出ていけ!』と言った奴がいた。
ダン・ウォルーターズという187cm位の金髪の男だ。いかにも意地の悪そうな顔つきをしている。ハリーポッターに出て来る敵役の子役を大きくした感じだ。私が一緒にその中に入ろうとでも思ったらしい。
私は当然カチンときた。大勢の前で恥をかかされたのだ。プライドを傷つけられた。寮長に『次はぶっ飛ばす』と予告をしておいた。
それから、彼は私の得意分野である虐めの洗礼を浴びたのだ。皆で襲い掛からせて身ぐるみ剥いで素っ裸にして、雪の積もった(北海道と同じ位の緯度)外に放り投げてみたり、顔に火のついたタバコを思いきりぶつけてみたり、自慢の金髪を、皆で金を出して坊主頭にしてみたり(途中から涙流してました)、逆海老固めをかけてみたりといろいろとやってみた。一方、金を貸したりもした。やっつけるばかりでは可哀想なので…。しっかり、部屋の壁に貼り紙をしておいた。黙ってると返さないので。
一度、私がターゲットになって皆が襲い掛かかって来たことがあった。10~15人位か。しかし、全員片っ端から投げ飛ばした。彼らは、腰も重心も高いので簡単に投げることができる。
もし、私が柔道をやっていなければ、同じように身ぐるみ剥がされて惨めな思いをさせられただろう。
結局、アメリカでは寮の廊下で乱闘2回、ストリートファイト1回だ。路上ではでかめの親父(20代後半位?)が喧嘩を売ってきたので、速効で足払いで倒してガンガン蹴っ飛ばした。目の前にブーツが見えたので、それを顔にぶつけてやった。
そういえば、部屋を火事にしてしまったこともあった。3階の寮長が気に喰わないというので、火を点けると臭い匂いのする花火の一種に火を点けて窓から投げ込んだのだ。それが、ベットに引火してしまい燃えてしまった。これはまずかった。反省している。
3階のトイレの水をドライバーで流せなくしたり、シャワールームのカーテンを取ってきたり、夜中に部屋にクラッカーを投げたり、バケツで水を流し込んだり……といろいろやったが、不思議と嫌われなかった。むしろ皆喜んでいた。悪ガキぶりがピッタリと水に合ってしまった。
さらに、こんなこともあった。ダンと一緒にもう一人もモヒカン刈りにしたのだか、彼がトイレで大をしていた。通常、トイレは鍵をかけないのでドアを思いっきり蹴っ飛ばしたらドアが頭に直角の角度で当たり、『ギャッ』という奇声と共にすぐにドアが跳ね返ってきた。そして、すぐに彼は条件反射的に私の名前を叫んだのだ。う~ん、スノート(彼のあだ名)恐るべし!成長したな!
私は昔は学歴で弟にコンプレックスを抱いていた。しかし、今は全くない。人間上を見たらキリがないように下を見てもキリがないのだ。狭い日本の価値観に捉われるなと言いたい。
日本に来てからもやはり悪ガキなのだが、もう面倒臭いのでや~めた。
一つだけ書くと、役所こうじでお馴染みのDハウス在籍中に9年上の先輩社員と事務所内で殴り合いになった。先に手を出してきたので、テンプルにパンチを打ち込んだ。相手はぐらついて壁にもたれかかったが、倒れなかった。
不本意であった。手打ちになり、腰が入っていなかった。これをきっかけに空手を始めたのだ。この時に黄金の拳を痛めてしまい、しばらく整形外科に通った。治りかけた頃に、飲み屋でちょっとしたいざこざがあり翌朝、また黄金の右拳がドラエモンのようにはれあがっていた。
また、病院に行くと先生は『また、あんたか!せっかく直りかけたのに…』と、がっくりとうなだれるのだった。薬局のおねえちゃんにはクスクス笑われるし、恥ずかしいったらありゃしない。
しかし、性懲りもなく、その後空手に打ち込み過ぎて左足半月板損傷、右足半月板損傷2ケ所、靭帯切断寸前なのだ。一度、右足を手術したのだが、また怪我した。すっごく、痛かったのでもう手術はやめた。
共立病院の山口という先生が腕がいいからと評判なので行ったのだが、何と研修生の実験台だ。一時間半の間中、ずっと『そうじゃねえんだ!そうじゃねえんだ!』って山口先生は脇で怒鳴ってるだけだ。麻酔はあまり利いてなくて痛いし、殺されるかと思ったぜ。実際、脈拍だか血圧だかが思いっきり下がって、看護婦さんがあわてていた。
おととしは、胆嚢摘出の手術で9cmも腹を切られたし、私の人生はホントに痛いことの連続だ。
しかし、それでも悪ガキはめげずに生きるのだ。
次のターゲットは当然、朝鮮人とシナ人だ。
やったろうやないか!
最近の日本は見るべき物が何もない。まともに関わり合うのも馬鹿らしい。
どうせ馬鹿馬鹿しいなら、己の馬鹿馬鹿しい出来事、悪ガキ人生でも振り返ってみるとするか、あまりにも退屈なので。
因みに『悪ガキ』というのは、かつて弟が私を評した言葉だ。本人にその自覚は全くないのだが、まあ妥当な言葉なのだろう。
弟は私と同じく品行方正で優秀な奴でK大K学部にストレートで入学した。他の学部にも合格したようだ。
K大学に幼稚舎から入学した横浜の友人は、地方から実力で入学するのはたいしたもんだと誉めてくれた。
たしか、彼は毎日私と野球ばかりやって遊び惚けていたはずなんだが……。まあいずれにせよ、弟子が成長するのは嬉しいものだ。私がマンツーマンで指導した結果だと人には言うことにしている。彼は高校入学の際に一度浪人しただけで、その後は全く挫折を味わっていない。
私とはえらい違いだ。私はと言えば、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら生きている文字どおり怪我だらけ、傷だらけの人生だ。
まずは、赤ん坊の頃に、私をおぶったまま母親が階段から転げ落ちて、左手親指に怪我をした。第二関節が曲がらない。
三歳の頃には、近所の小学生の顔に石をぶつけて流血させてしまった。母親は、あわてて医者に連れて行って平謝りだ。病院で私が『自分がやった』と吹聴するものだから、えらい肩身の狭い想いをしたようだ。
また、同じ頃、祖父が経営していた青果市場の卵の殆どを割ってしまったことがある。喜んだのは飼っていた犬だけだった。
小学生の頃は、やはり外で遊び惚けていた。母は自分で仕事をしていたので、あまり細かいことは言わなかったが『喧嘩に負けて帰ってきたら家には入れない』という教えだけは律儀に守った。
とにかくエネルギーが有り余っている腕白なガキだった。家の廊下と階段に蝋を塗りまくり、えらく祖父に叱られて掃除させられたりした。
学校では殆どの担任にひっぱたかれた。柱に縛り付けられたり、バケツを持って廊下に立たされたり、冬に廊下に2時間も正座させられたり。大体はいじめとか喧嘩が原因だ。この時に顔を引っ掻かれた疵が今でも残っている。相手はボボ・ブラジルというニックネームの通り、色黒でガタイの大きいライバル的な野郎だ。こいつと一緒に2時間も座らされた。
また、雨上がりに体育館から校舎への渡り廊下を走って転んで、コンクリートの角に目尻を打ち付けて何針か縫った。
5才の頃には、母の弟である伯父が私を抱いたままトラックの荷台から飛び降りて、私の左足を地面に打ち付け骨折させてしまった。私が痛がって泣くのを見た祖父は激怒して『ぶっ殺してやる』と実の息子を追っかけ回したものだから叔父は一晩中帰って来なかった。孫は可愛いようだ。
山に行って、漆の木でチャンバラをやってひどいめにあったこともある。
私が母に買って貰った地球儀を母が夫婦喧嘩の際に凶器に使用してわずか2週間で壊してしまったこともある。その後、罪滅ぼしにさらに大きいのを買ってもらったのだが。無理もない、親父は酒乱の気があったのでおとなしくしていたら命がいくつあっても足りなかったのだろう。
私も夜中に夫婦喧嘩の仲裁に入って、親父に3kgの鉄アレーを肩にぶつけられたことがある。止めに入ると、包丁を持ち出そうとしたので廊下に引きずりだしたら、どさくさに紛れて母が親父のケツに蹴を入れた。その後、鉄アレーを持ったので、まさか投げないだろうとたかをくくっていたら本当に投げやがった。しかも、思いきり。私はすぐに親父を押さえ付けて馬乗りになり母に警察を呼ばせた。その間、腕に噛み付かれるわ、散々だ。次の日以来親父は『実家に帰る』(父は婿養子なのだ)と言って約1週間帰って来なかった。警察を呼ばれたことがショックだったようだ。
今、振り返ると何とも荒っぽい、常に特等席でプロレスを見ているような昔どこでもよく見たような懐かしくも関わりたくない風景であった。この親にしてこの子ありといったところか。
しかし、自分の悪ガキぶりやトバッチリを書いたらエンドレスだ。ただし、悪ガキといっても私のモットーは徒党を組まないことと弱い者いじめはしないということだ。
いや、厳密に言えば例外もあるかもしれない。大好きだった、誰もが振り向く超美人の初恋のMちゃんに『いじめられた記憶しかない』と言われたのには、さすがに返す言葉がなかった。私一流のねじ曲がった愛情表現はどうやら伝わらなかったようだ。しょうがないので『昔いじめて、ごめんね』って、優しくベットの中で謝っておきました(ニャハッ!)。
普段は、おとなしい私が本来の負けん気を爆発させたのはアメリカ留学時代だ。行き先は、日本人のいないところに行った。集まると日本語ばかり話して意味が無いからだ。
彼らは食事の際に自然と白人と黒人に別れる。私は半年くらいは一人で食べていた。
ある時に、寮の2階で皆が写真を撮っていた。私の部屋の前だったので、部屋に入ろうとすると『出ていけ!』と言った奴がいた。
ダン・ウォルーターズという187cm位の金髪の男だ。いかにも意地の悪そうな顔つきをしている。ハリーポッターに出て来る敵役の子役を大きくした感じだ。私が一緒にその中に入ろうとでも思ったらしい。
私は当然カチンときた。大勢の前で恥をかかされたのだ。プライドを傷つけられた。寮長に『次はぶっ飛ばす』と予告をしておいた。
それから、彼は私の得意分野である虐めの洗礼を浴びたのだ。皆で襲い掛からせて身ぐるみ剥いで素っ裸にして、雪の積もった(北海道と同じ位の緯度)外に放り投げてみたり、顔に火のついたタバコを思いきりぶつけてみたり、自慢の金髪を、皆で金を出して坊主頭にしてみたり(途中から涙流してました)、逆海老固めをかけてみたりといろいろとやってみた。一方、金を貸したりもした。やっつけるばかりでは可哀想なので…。しっかり、部屋の壁に貼り紙をしておいた。黙ってると返さないので。
一度、私がターゲットになって皆が襲い掛かかって来たことがあった。10~15人位か。しかし、全員片っ端から投げ飛ばした。彼らは、腰も重心も高いので簡単に投げることができる。
もし、私が柔道をやっていなければ、同じように身ぐるみ剥がされて惨めな思いをさせられただろう。
結局、アメリカでは寮の廊下で乱闘2回、ストリートファイト1回だ。路上ではでかめの親父(20代後半位?)が喧嘩を売ってきたので、速効で足払いで倒してガンガン蹴っ飛ばした。目の前にブーツが見えたので、それを顔にぶつけてやった。
そういえば、部屋を火事にしてしまったこともあった。3階の寮長が気に喰わないというので、火を点けると臭い匂いのする花火の一種に火を点けて窓から投げ込んだのだ。それが、ベットに引火してしまい燃えてしまった。これはまずかった。反省している。
3階のトイレの水をドライバーで流せなくしたり、シャワールームのカーテンを取ってきたり、夜中に部屋にクラッカーを投げたり、バケツで水を流し込んだり……といろいろやったが、不思議と嫌われなかった。むしろ皆喜んでいた。悪ガキぶりがピッタリと水に合ってしまった。
さらに、こんなこともあった。ダンと一緒にもう一人もモヒカン刈りにしたのだか、彼がトイレで大をしていた。通常、トイレは鍵をかけないのでドアを思いっきり蹴っ飛ばしたらドアが頭に直角の角度で当たり、『ギャッ』という奇声と共にすぐにドアが跳ね返ってきた。そして、すぐに彼は条件反射的に私の名前を叫んだのだ。う~ん、スノート(彼のあだ名)恐るべし!成長したな!
私は昔は学歴で弟にコンプレックスを抱いていた。しかし、今は全くない。人間上を見たらキリがないように下を見てもキリがないのだ。狭い日本の価値観に捉われるなと言いたい。
日本に来てからもやはり悪ガキなのだが、もう面倒臭いのでや~めた。
一つだけ書くと、役所こうじでお馴染みのDハウス在籍中に9年上の先輩社員と事務所内で殴り合いになった。先に手を出してきたので、テンプルにパンチを打ち込んだ。相手はぐらついて壁にもたれかかったが、倒れなかった。
不本意であった。手打ちになり、腰が入っていなかった。これをきっかけに空手を始めたのだ。この時に黄金の拳を痛めてしまい、しばらく整形外科に通った。治りかけた頃に、飲み屋でちょっとしたいざこざがあり翌朝、また黄金の右拳がドラエモンのようにはれあがっていた。
また、病院に行くと先生は『また、あんたか!せっかく直りかけたのに…』と、がっくりとうなだれるのだった。薬局のおねえちゃんにはクスクス笑われるし、恥ずかしいったらありゃしない。
しかし、性懲りもなく、その後空手に打ち込み過ぎて左足半月板損傷、右足半月板損傷2ケ所、靭帯切断寸前なのだ。一度、右足を手術したのだが、また怪我した。すっごく、痛かったのでもう手術はやめた。
共立病院の山口という先生が腕がいいからと評判なので行ったのだが、何と研修生の実験台だ。一時間半の間中、ずっと『そうじゃねえんだ!そうじゃねえんだ!』って山口先生は脇で怒鳴ってるだけだ。麻酔はあまり利いてなくて痛いし、殺されるかと思ったぜ。実際、脈拍だか血圧だかが思いっきり下がって、看護婦さんがあわてていた。
おととしは、胆嚢摘出の手術で9cmも腹を切られたし、私の人生はホントに痛いことの連続だ。
しかし、それでも悪ガキはめげずに生きるのだ。
次のターゲットは当然、朝鮮人とシナ人だ。
やったろうやないか!