速成学館に学んだ人たち(補)酒勾常明ベルリン出張 | 醒餘贅語

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酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 以前、酒勾常明の履歴に触れた際(「速成学館に学んだ人たち(三)」)、ベルリン滞在時期について官報と玉井喜作書簡が矛盾すると記した。このほど当該書簡を保管されている和歌山大学名誉教授で喜作の曽孫に当たる泉健氏から現物のコピーをご提供いただき、この疑問が氷解したためここに補遺として報告する。
 


 
玉井エツ宛、玉井喜作書簡(明治三十二年)泉健氏所蔵
 

 葉書の一部、すなわち大島氏がその著書で引用された部分を画像として示す。これは喜作が日本にいる妻のエツに宛てたもので、日付は明治三十二(1899)年七月十七日である。これを見ると酒勾他を招飲したのは明治三十二年七月十三日であったことがわかる。酒勾の出張は、出発が同年四月十九日(官報4739号、明治32年4月22日)、帰国が十月二十三日(官報4903号、明治32年11月2日)であるから、日程の折り返し近くである。


 葉書には三つの話題が、縦線で区切って書かれていて、この前の部分では六月二十日に引っ越したことを述べている。泉氏の「ベルリンの玉井喜作」(『和歌山大学教育学部紀要人文科学第55集』、pp27-50, 2005)中の年譜に示されたように、この年にツィンマー街(Zimmerstr.)からハーレッシ街(Halleschstr.)へ編集室の移転が行われたことに対応する。
 

 画像は中間部五行の内の始めの三行であるが、残り二行には鰻を醤油で焼いたこと、醤油代が二円であったことが述べられている。
 

 最後の部分は使用人に関する内容で、日本人書生の他にドイツ人男女が各一人いたことが分かる。書生の名は宇野万太郎で、後に英国で料理屋を開いた同名人がいるが、この人のことと推測される。
 

 本稿に関して、資料をお送りいただいた泉健氏に深く感謝の意を表します。考えてみれば、速成学館名簿を手にしたのも同氏による「光市文化センターと玉井喜作」(『和歌山大学教育学部紀要人文科学第57集』、pp23-37, 2007)がそもそものきっかけであった。中に「この中に何人か、その後の明治時代を動かしていった人物が含まれているかもしれない、」と述べられている。これに対してさやかながらも応えることが出来たとすれば誠に嬉しい次第である。