森鴎外の欧州に遊ぶを送る(補四)予科生四五等甲乙の別について(中) | 醒餘贅語

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酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 預科四五等の甲乙の別を明確に記した資料は見つけられていない。進級状況を見る限り甲を上席とする序列があったことは疑いない。これは同じ等のうちで、乙から甲へ進んだものは多いが、その逆が皆無であることからも裏付けられる。したがって単なるクラス分けではなく、習熟度が反映されていたに違いない。
 

 しかし、多くが一階ずつ進む中で相当数が二級先へ跳んでいるのもまた事実である。そのあたりの事情について先に紹介した宮入慶之助記念館にご教示を乞うたところ、山口明館長から何件かの先行研究や資料を懇切にお示しいただいた。ここに篤く御礼を申し上げます。なお宮入慶之助は先に述べた期間に5乙から4乙へ進級している。つまり、十三年から十四年は土肥慶藏と、翌年度は森篤次郎と同じクラスであった。
 

 これまで各学校の『一覧』のみを参照していたのだが、山口氏の教示によって、『日本帝国文部省年報』(以下文部省年報)が毎年刊行されており、その中に『東京大学医学部年報』の要約が含まれていることや、さらに元となる『医学部年報』も国会図書館にあることが分かったので目を通してみた。残念ながら、甲乙の違いを明記した箇所は見つけられていないのだが、多少なりとも知りえたことを述べて後考を俟つことにしたい。
 

 甲乙の記述自体は、まず明治七年の『文部省年報』に現れる。年報では予科二等を甲乙に分かつが、優劣はないとする。
 

 次いで九年度版だが、収録されているのは十年九月に提出された『東京医学校年報』で、八年十二月からと九年十一月までの内容である。この時は本科五年、予科は三年であり、年度前半を冬半期、後半を夏半期と称している。学年次について後の「等」ではなく「級」が用いられている。等も級も数字が小さい方が上であるが、等は一年で一階昇り、級は半年単位である。この冬半期には偶数級の科目、夏には奇数級の科目が開講されている。冬半期について言えば、本科は二、六、八、十級が開講されており、予科は二、四、六である。本科四級がないのは学生が居ないのであろう。本科二級生も他学年が二三十名である所七名にすぎず、体制が未整備の草創期であることを窺わせる。
 

 この予科六級に甲乙の別があって、しかも履修科目が異なっている。乙は「独逸学」「地理学」「算術」であるのに対し、甲は「独逸学」「幾何学」「羅甸学」「博物学」であるから、これには上下の別があるらしい。ところが、この学年が進級したはずの夏半期五級には甲乙の違いはなく、どういうわけか三級に甲乙ができる。しかもこの場合は履修科目が同じである。事情は不明である。
 

 明治十年度版からは組織変更により『東京大学医学部年報』になる。予科本科とも学年構成は同じだが、「級」を廃して「等」を用いるようになった。すなわち、予科は下から三、二、一等である。併せてこの年、予備生という制度が出来て、学生構成が大きく変わった。これは東京外国語学校の学生と他に医学を志望するもの計二百八十五名を臨時入学させ予備生としたからである。この人数は予科生三学年を併せた百六十五名に比べると学年当たり二倍以上である。これを学力に応じてであろうが、四級から一級までの二学年相当に分けた。予備生については半年単位の「級」を用いたわけである。
 

 翌年、つまり明治十一年には予備生を予科生として、四等五等に配した。ここで成立した予科五年制から、予備門分黌、高等中学の四年制、高等学校(旧制)の三年制に移行するのはしばらく後のことになる。ちなみに、翌十二年の『年報』には予科への入学要件として「小学課程ヲ卒業シタル以上ノ者」と記され、規則にも予科が中等教育の場であることが明記されている。地方における中等教育機関が乏しかったことの反映であり、各地の中学の整備とともに年限が短縮されたのだろう。