江見水蔭と江水社・山口寒水(五)竹貫佳水、竹貫登代多 | 醒餘贅語

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酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 竹貫佳水は少年少女向けの小説を多く書いた。今なら児童文学者という事になろう。気のせいか昔は児童文学の書き手が今よりも多い様である。漫画というものがない時代、子供向けの小説雑誌がその役割を果たしていたのだろう。翻って現代は、減ったとはいえ普通の小説雑誌はいくらもあるが、子供をターゲットとしたものは見ない。あるいはライトノベル(ラノベ)の雑誌がいくらかあるかもしれないが。
 

 竹貫は「たかぬき」と読む。これは兄である登代多の英文表記からも知られるし、あるいは本貫地かと思われる福島県東白川郡にあった竹貫村の読みも「たかぬき」である。佳水は本名直人、「なおんど」と呼んだらしい。はじめは直次と名乗った。前橋出身の明治八年生まれで攻玉社に学ぶ。攻玉社はもともと蘭学や兵事を教授した学校で、この頃は土木や測量などの専門を持つ理工系の教育機関であった。佳水は佳水名義の児童文学書のほかに直人名義で算術の書物も著している。これは兄登代多がやはり攻玉社で学び、かつ教えた数学者であり、複数の数学雑誌の編集にも関わっていたようであるからその関係であろう。
 

 当時の数学雑誌は数学史家の小寺裕氏が主宰する「和算の館」というウェブページに多数アップロードされているほか、国会図書館のアーカイブにも幾つか蔵されている。ちょっと面白いのは共益商社が発行した『数学報知』である。これは攻玉社の教員が中心となって発行したものだが、早いころの号は殆ど校内誌と言っていい内容である。明治二十三年九月五日に出ている初号の目次を見ると最初に小論文が三件あるが、筆者は全て攻玉社の教員である。その次の記事は校内で七月に行われた定期試験の問題である。竹貫登代多が一年前期代数学と三年後期四元法を担当していることが知られる。四元法とはハミルトンの四元数を用いた算術で、ベクトルが普及していなかった時代に三次元の解析幾何や電磁気学の記述に使われていたようである。外にも三年後期の微分方程式では非斉次の線型方程式なども扱っており、現在の大学二年次辺りに相当しよう。
 

 かなりのレベルではあるが、ここからさらに進学する卒業生も多かった。次の記事が海軍兵学校の入試問題でありその翌号に解答例が掲載されていたり、入試合格者中の攻玉社生徒数なども報じられたりしている。それにしてもこれが月二回発行され、六七年で百何十号を算しているには驚く。
 

 竹貫直次は創刊間もない十月二十日の号に、前々号の問題への答案者として名が出ている。この時は十六歳であるから、生徒としての寄与であろう。後の年度には記事も書くようになる。何時卒業したかは定かでないが、日清戦争には陸軍の測量部員として従軍しており(伊狩『後期硯友社文学の研究』)、その前後においても『数学報知』の編集に関わっている。水蔭門下に加わったのはそれ以前らしい。いずれにしても日清戦後の同誌に水蔭作の数え歌や、大沢天仙の短文、石橋思案の「数の不思議」と題する随筆が掲載されるのは佳水が関係したからではないか。もっとも、このような文学的な記事はこの雑誌では極めて異例である。
 

 佳水の事績についてはもう少し詳しいことが伊狩氏の著書に有るのでここでは略すが、この時期にサンフランシスコに駐在した経験があるのは少し興味を引く。