一高ボート部、布佐に柳田国男を訪う(六)級友 | 醒餘贅語

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酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 この際であるから、布佐を訪れた同級生について見ていきたい。近い年次に同姓が居ないのは、仲野、手塚、岡戸、芦野である。仲野秀治、手塚敏郎、岡戸諭介、芦野妙であろう。このようなことを調べる上で最も重宝するのはやはり国会図書館のデジタルコレクションである。Googleなどはノイズが多いことと、あまり公文書などが掛かりにくいらしく存外役に立たない。


 仲野秀治(一部秀次となっている場合がある)は、籍は東京で、この年は一部二年四之組所属である。この人は落第したらしく、翌年次もやはり二年の三之組末席に名がある。一年遅れて三十一年に文科を卒業した。運動好きだったものか、先の『運動界』にしばしば名前が見える。創刊された三十年の末には社友に名を連ね、一高のボートマンと紹介されている。しかしこの時既に卒業間近の三年生でもあり、いつまで関わったかは分からない。後年は高校や陸軍で教えたらしい。官報を辿ればもっと細かいことも分かるはずだが今は措く。
 

 『運動界』との関係を考えれば、先に紹介した「遠漕日記」の著者はこの人ではないか。何年もあとの三十二年末になって記事が出た理由を想像するに、仲野がかつて記し、何らかの事情で掲載されず編集部に残っていたものをその時になって利用した。要するに埋め草に使ったのであるが、段々と社友同人たちの熱気も薄れて記事が続かなくなっていたと想像する。実際この後三号ほどで終刊した。
 

 手塚敏郎は宮崎県出身、一部二年一之組で、三十年英法科卒。その後は官途に就き警察畑を歩んだようだが、最後は南洋庁長官になった。Wikipediaに立項されている。
 

 岡戸諭介は埼玉出身、一部二年五之組で文科に所属した。三十年卒の時は史学科志望となっているが、後に大日本女学会の通信教材と思われる『女学講義』で法制や経済を講じている。外に中学の教員、台湾銀行、能楽関係でも名前が見えるが、あるいは同名異人が含まれているかもしれない。
 

 芦野妙、山梨県出身、一部二年五之組文科で哲学科を志望した。この人は帝国大学在学中に死亡したとのことである。
 

 市村は他の学年にもいるが、同級は市村富久だけである。埼玉出身で一部二年二之組であるから、松岡のクラスメートである。ちなみに席次は丁度真中あたりの二十一番であり、後法学士、法学博士となった。海商法が専門で神戸大学に市村文庫が残されている。
 

 松本は同学年に二人いる。同じ一部で一之組の松本烝治と三之組の松本修平である。これは柳田国男との関係を別にしても松本烝治であると考える理由がある。先に紹介した『運動界』明治三十一年一月号に「赤門漕手の準備」という記事が有り、法工医三科の定期戦について述べている。記事中には、予定されている法科の選手として、松本のほか先に述べた手塚、市村、次に述べる高木安太郎の名が見える。記事内容は帝国大学進学後のこととはいえ、松本が烝治である蓋然性は大きい。
 

 関口も二人いる。健一郎と壮吉である。健一郎は群馬県出身で松岡と同じ一部二之組であり、後年税務畑を歩んだ人である。もう一人の壮吉は静岡の人で、二部から化学科を志望した。浜松高等工業(静岡大工学部)で教えた。二部は二部で別にチームを組んでいたようであるから、布佐へ同行したのは健一郎であろう。『炭焼日記』や『海南小記』に名前が見えるし、訳書中で関口から謝辞を呈されてもいる。
 

 二人の高木の内、佐賀県出身で一部一之組の安太郎は松本丞治とともに法科大学でも選手であったからこちらで間違いはなかろう。もう一人の慎吉は二部である。安太郎は法曹関係に進んだようで例えば朝鮮の地方判事として名が見える。
 

 予定していた同行を取りやめた岩崎は二部三之組の岩崎寿次郎しか該当者がいない。前後の学年に岩崎はおらず二年下に三菱の岩崎小弥太がいるが、二十八年暮はまだ入学していない。寿次郎は有機化学を専攻したらしい。なぜ法科生に混じっていたのかは分からない。
 

 以上長々と記したが、ひとまずここで終える。