醒餘贅語

醒餘贅語

酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

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玉井喜作と東京速成学館(May 27, 2026更新)

若き日の花袋が学んだ「東京速成学館」は後にシベリア横断を敢行したジャーナリスト玉井喜作によって設立されました。花袋在学時代の原資料から、当時の状況(開校から札幌農学校赴任まで)を探っています。少し変わった話題として、ベルリンにおける樋口一葉に関わる出会いを加えました。また、その場に居た泉谷氐一という人物についての調査結果を綴りつつあります。

 

1型糖尿病(May 24, 2026更新)

筆者が罹患している「劇症」「1型」糖尿病についての記事です。ただし、あくまでも筆者個人の体験を述べたものであり、一般性は保証できません。特に同病の方はそのつもりでお読みください。
 
田山花袋(May 20, 2026更新)

田山花袋の主として年譜的、書誌的事項の考証です。内容は、若き日に学んだ日本英学館についてや、周りの人々の閲歴などを調べています。例として、実弟富弥については官歴(軍歴)やその子孫などについての補足など。このたび野島金八郎について書きました。

 

その他(Apr. 8, 2026更新)

他に分類できない雑文をこちらに入れています。内容は様々です。整理中に出て来た昔の新聞についての話を最近加えました。

 

伊良湖岬(Apr. 1, 2026更新)

明治三十一年の夏、柳田(当時松岡)国男、そして田山花袋も短期間過ごした伊良湖の日々を、公刊された『伊勢海ノ資料』(とその翻刻)から手繰り寄せたいと考えています。最近は、柳田が現地で書き留めた民謡についての調査結果を掲載しました。

 

アンナ・シェルコフ (Anna Schoellkopf)(Mar. 3, 2026更新)

かつて、日本文学の英訳アンソロジーを企画したアンナ・シェルコフという人がいました。日本ではシェルコフ(又はシェリコフ)夫人として知られるその人の事績について米国の資料をもとに辿りつつあります。彼女の残した唯一の小説 Nurse's Story の解説を 始めました。
Articles in this section describe the life of Anna Schoellkopf who planned to edit an anthology of contemporary Japanese literature one century ago. Some of them are given in both Japanese and English.
 

水野仙子(Jan. 14, 2026更新)

花袋の弟子であった水野仙子の履歴についての補足などです。遺稿集出版に際しての花袋談話を掲載しました

 
樋口一葉と久佐賀義孝(Oct. 26, 2025更新)
一葉の作品そのものではなく、関わりのあった占卜家の久佐賀義孝およびその周辺について。最近は特にあまり知られていなかった、あるいは興味を持たれていなかった、一葉死後の久佐賀の消息についてです。別に一葉に関係した記事が「玉井喜作」の項目にもあります。

 

柳田国男/田山花袋

若い頃から友人であった両人の交流に関しての年譜的事項が中心です。明治三十一年の伊良湖滞在については、「伊良湖岬」の項目をご覧ください。
 
田舎教師(Apr. 9, 2025更新)

田山花袋の代表作『田舎教師』について、主としてモデルに関する事柄です。最近の記事では、作中ヒロイン田原ひで子のモデルとなった女性が残した詩文についてまとめました。またそれに多少関連して、主人公小林秀三の音楽学校受験について。

 

幸田露伴(Mar. 19, 2025更新)

記事が増えて来たので独立させました。と言っても、若い時代に関するトピックス2件だけです。電信技手であった頃と、「露団々」中の「方陣秘説」についての内容です。

 

鴎外、独歩などについてはこちらです。

 

『田舎教師』主人公のモデル小林秀三の日記は故小林一郎氏(花袋研究の泰斗)によって翻刻されています。その全文についての註釈です。かなり以前のものなので、今ならもう少し詳しいことが分かるはずですが、それは今後の課題として。

 

 後にジャーナリストと呼ばれる玉井喜作は、若い時分東京で私塾「東京速成学館」を営み、札幌農学校ではドイツ語講師となり、やがてシベリアを横断してベルリンに居を構え、雑誌を発行した。


 ベルリンの玉井家には、ドイツ在住、あるいは出張滞在中の日本人が頻繁に立ち寄った。集まった人たちに日本食をふるまい、宴を催すこともしばしばであった。その来客たちが記念に書き残した帳面が残っている。明治三十三(一九〇〇)年から三十九年の間に書き継がれた百ページを越える冊子からは、当時の人々の息遣いが伝わってくる。
 

 寄せ書き帳の現物は行方不明らしいが、そのコピーの影印が、泉健氏によって『玉井喜作宅における寄せ書き』(平成二十六年、私家版)として出版されている。解説によれば以前の復刻の残部が僅少となったため、再度刊行したものだという。筆者の手元にも、氏のご好意で譲り受けた一冊がある。
 

 寄せ書きの一部は湯郷将和氏の『キサク・タマイの冒険』(新人物往来社、平成元年)の巻末に画像として付されている。また、泉氏による論考「ベルリンの川上貞奴(1901)」(和歌山大学教育学部紀要人文科学第63集、平成二十五年)、及び「藤代禎助「オペレッタ;ゲイシャ」(1901年)とベルリンの烏森芸者」(同、64集、平成二十六年)にも関連する部分の画像と翻刻が掲載されている。
 

 ざっと見ただけでも、さまざまな人が玉井家を訪れたことが分かる。美濃部達吉、長岡半太郎、川上音二郎、同貞奴、巌谷季雄(小波)、鈴木貫太郎と云った署名が判読できた。何度も現われる長期滞在者もいる。ベルリン大学の東洋語学校で講師をしていた巌谷小波は常連の一人で、おそらく他では公開されていない戯文や狂詩が書き残されている。
 

 そういった中に泉谷氐一がいる。泉谷氐一の名前は樋口一葉と幸田露伴の書誌や年譜に現れる。特に、雑誌『智徳会雑誌』の編集者として一葉宛に送った三通の書簡が、関係資料として翻刻されている(『樋口一葉来簡集』野口碩編、筑摩書房、平成十年)。
 

 この雑誌は明治二十七(一八九四)年から三十年まで四十四冊発行されたが、幸いなことに全て国会図書館からダウンロードできる(登録は必要)。一葉は小説の掲載を約したものの、病の為に果たせず数首の歌がその時の書簡と共に掲載された。また、露伴の「水上語彙」がこの雑誌に掲載されているほか、硯友社に連なる有名どころ、例えば柳浪、水蔭、鏡花、風葉なども寄稿していた。


 雑誌の傾向は時期と共に少しずつ変わっていくが、泉谷は創刊から終刊まで編集に携わっており、自身も多くの原稿を寄せている。ただ、筆者の知る限りでは泉谷氐一その人の人物履歴について研究調査された例を見ない。今回、玉井喜作とのつながりが見えたことをきっかけに少し調べてみた次第である。
 

機種変更
 

 スマホを買い替えた。スマホ自体の使用歴が五年程なので、買い替えは初めてである。最近はデータの移行も簡単になったという。とはいっても、筆者の場合プロバイダーも同じ、キャリヤも同じ、OSも同じアンドロイドでメーカーも同じであるからそもそも簡単な部類には違いない。


 アプリ(LibreLink)のダウンロードやアカウント設定もほぼ自動的に済んだ。センサーがそのまま使い続けられるのかは気になったが、問題なかった。アプリ起動時にセンサーをスキャンせよというメッセージが来たが、スキャンするとデータの読み取りが始まった。
 

 予想外だったのはスマホ間でデータ移行ができなかったことである。知っての通り、スマホには過去の履歴や集計されたデータが残っている。一日二十四時間の平均パターン、血糖値の各レンジにあった時間のパーセンテージ、低グルコースの回数、及び毎日のデータのグラフなどで、これは90日分が閲覧できた。それがいきなり消えてセロからのスタートになったのである。平均値のレポートも以下に示すような間の抜けたものになった。
   

  

  
 これまで、同じような行動パターンが予測された時、あるいは外食前などに、以前のデータを参照してインスリンの量を決めていた。少なくとも参考にしていた。それがなくなって初めて、依存していたことに気づいた。

 

 もちろんアボットのサイトからダウンロードできるのだが、こちらは要約版で細かいところが異なっているし、いちいちPDFを開くのも面倒である。九十日分のデータが蓄積するのを待つのみである。

飛行機搭乗

 

 航空機に乗る際にセンサーを着けたままでいいのか、かつては悩んだ。迷う人もいるだろう。アボットの公式見解では着けてもいいが、係員に伝えて接触検査、金属探知器による検査にしてもらうことを推奨しているようである。医療機関での検査の際には取り外すようにと書かれている。害があるというよりも、放射線の微量被曝に対して性能が保証できないという理由であろう。空港検査についてもそれを準用しているらしい。
 

 実は、筆者はこれに従ったことはない。それでも空港のゲートで引っかかったこともない。ほぼプラスチック片であるから警報が出ないのだろう。
 

 これは国外でも同様であった。もっとも、リブレに代えて以後、コロナ騒ぎもあって出国したのは一回だけであったと思う。国内では年数回は乗っている。仮に海外の空港で別検査を申し出たとして、果たして係員が状況を理解できるか、はなはだ心もとない。下手すれば取り外すことを命じられるかもしれない。国内線で問題なかったのでそのまま行って帰ってきたのである。
 

 飛行機内では機内モードにするためサーバーとの連絡は途絶えるが、最近は機内モードにしておけばブルートゥースは使えるのでデータは途切れない。
 

 搭乗前後で動作の異常は特になかった。ただし、これは個人的な、たかだか数回の結果なので一般化はできない。
 

 花袋は、野島が外交官となってからも会っているが、その頻度までは分からない。確実なのはオランダ赴任を前にして小栗風葉と共に送別会を開いたことだけである。その他は、今のところ花袋側の資料にはないようであるし、野島の一時帰国時期なども分からない。


 米国の外交官の手記などを読むと、年一度、二ヶ月程度の休暇が得られたようである。日本の場合は、それだけの待遇は難しい。明治二十六年十月三十一日の官報に掲載された「外交官領事官赴任及賜暇規則」の第二条には、在外満四年以上のものには満六か月以内の賜暇帰朝を許すとある。附則第五條に、書記生にも適用するとあるので、厳密に運用すれば十年の欧州勤務の間、二回は帰国できたことになる。しかし、実態は今のところ不明である。
 

 先に記したように、花袋が野島の同窓生について挙げた名前のうち、文学と無関係のものは床次竹次郎だけである。野島は床次を予備門で知ったには違いない。在籍期間は不明だが、入学年度の成績が振るわなかったのが病のせいだとすれば、あまり長くは居なかったと想像される。とはいえ、明らかに学年の異なる床次の話が出たことからすれば、多少の期間、おそらく半年乃至一年度ほどは在籍したのだろう。
 

 花袋が床次に言及するのは大正以後に書かれたものに限られる。政界入り前の床次は内務官僚で、顕職とはいえ、それほど一般の耳目を引く地位というわけではなかったであろう。四十一年に樺太長官、四十四年内務次官、大正二年鉄道院総裁、やがて政友会に加わり、大正四年三月に衆議院議員に当選し、院内総務に挙げられる。政友本党の総裁になったのは、野島の死後十年程を経た大正十三年である。
 

 野島が花袋に語るとして、オランダへ発つ明治三十四年にそんな話題が出るとは思えない。四十四年に副領事として杭州に赴く前、あるいは大正二年に台湾に転ずる頃であろう。さもなければ死ぬ前に東京で病を養っていた最中に見舞ったのかもしれない。
 

 明治大正の端境期に花袋が野島と会ったという記事は年譜にはないが、床次の話が交わされたとすれば、晩年の三年ほどの間であろう。
 

 花袋は個々の政治家に関してほとんど発言していない。思い当たるのは別荘を借りた小川平吉くらいである。床次は野島に強い印象を与えていたのだろう。それが巡り巡って花袋の筆に上ったということであろうか。
 

 野島の同級生中で、現代において最も知名であるのは夏目漱石である。野島は、少なくとも明治十七年には漱石とも同級であった。『吾輩は猫である』を書きだしたのが明治三十八年であるから、四十年頃には十分世間に知られていた。朝日新聞入社や、博士号辞退はそれなりに世間で話題になったはずである。
 

 野島が漱石を花袋に語って、花袋があえて黙殺したという可能性もなくはないが、予備門当時の漱石が夏目ではなく塩原金之助であったことを考えれば、気が付かなかった可能性の方が大きいのではないかと思う。
 

 最後に、野島金八郎が人物として描かれる小説を挙げておく。花袋の初期の短編「落花村」もそうだというが、ほかに小栗風葉の「ぐうたら女」に登場する島田先生がそれである。新しいものでは風葉と同じ半田出身の澤田ふじ子氏による「世間の棺」がある。昭和五十六年の短編集『寂野(さみしの)』に収録されている。明治二十三年春に行われた陸海軍連合大演習に材を取った短編で、野島も風葉も描かれてはいるが、筋とは関係がない。また、両者の履歴に照らせば、この時は二人ともすでに上京していたはずである。(此項終)


 

 岡氏の論文には、その結婚について記載がある。最初の結婚は明治三十四年の早い時期で、相手は志村すずであった。しかし野島は間もなく単身で赴任する。岡氏の、そしておそらく遺族による解釈では、父好行の介護のための結婚であったという。明治四十二年五月、つまり英国からフランスに転じる頃に協議離婚したとある。


 『館林郷土史事典』(館林叢書第七巻、館林市立図書館編集発行、昭和五十二年)の「野島金八郎」の項目によると、すずは志村鉄太郎の次女である。志村は群馬県士族で内務省、後司法省の判任官で、東京集治監など監獄畑を歩んだ。
 

 二度目の結婚は大正元年八月であるが、これは杭州副領事の時期で、相手は三恵由哲の四女、寿であるという。三恵は千葉県の職員であるがこれも千葉の監獄署で看守長などを勤めた。寿は寺田織尾の養女となったことが『人事興信録 第四版』の寺田の項目より分かる。寺田は医科大学を出て明治二十九年から三ヶ年ドイツに留学した外科医である。
 

 寺田は大正二年に火事に遭って、一旦野島の官舎に身を寄せた(『医海時報』第九七五号、大正二年三月)。この時野島は杭州副領事であったはずだが、単身で任地にあったのだろうか。岡氏の論文はこの時の杭州在勤に触れず、日本に居たように書かれている。
 

 以上に見たように、野島を取り巻く人脈は、野島好行と花袋の父田山鋿十郎の繋がりがそうであったように、館林士族と警察関係が多かった。そこから浮かび上がるのがやはり元館林藩士の警察官僚であった小野田元熈である。『小野田元熈』(小野田元一著出版、昭和四十四年)によれば、その四女が野島金八郎の甥渡辺清太郎に嫁いだとあるし、小野田自身も野島から贈られた万年筆を愛用したと伝えられる。この伝記によれば小野田元熈は、最後は幾つかの知事を歴任し、貴族院議員にも勅選された。また、授爵(男爵)の内命を受けたものの固辞した。
 

 小野田は弘化五(1948)年生まれで、天保九(1938)年の田山鋿十郎より一回り若い。それでも西南の役に際しては警視局二等大警部として陸軍中尉に任ぜられ、大隊副官を勤めている。旧秋元家中では出生頭と言えるであろう。そういう位置にあれば、交誼のある野島金八郎のポストについて多少の影響力を行使できそうでもあるが、そんな形跡はない。
 

 男爵を辞退するぐらいであるから、栄爵から距離を置いたのか、あるいは公私の混同を嫌ったのかもしれない。野島と小野田のつながりは今のところ先の伝記以外に見ない。少なくとも野島が官途において大きな恩恵を被らなかったことは確かであろう。