醒餘贅語

醒餘贅語

酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

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伊良湖岬(Mar. 28, 2026更新)

明治三十一年の夏、柳田(当時松岡)国男、そして田山花袋も短期間過ごした伊良湖の日々を、公刊された『伊勢海ノ資料』(とその翻刻)から手繰り寄せたいと考えています。

 

1型糖尿病(Mar. 11, 2026更新)

筆者が罹患している「劇症」「1型」糖尿病についての記事です。ただし、あくまでも筆者個人の体験を述べたものであり、一般性は保証できません。特に同病の方はそのつもりでお読みください。
 

その他(Mar. 7, 2026更新)

他に分類できない雑文をこちらに入れています。内容は様々です。整理中に出て来た昔の新聞についての話を最近加えました。

 

アンナ・シェルコフ (Anna Schoellkopf)(Mar. 3, 2026更新)

かつて、日本文学の英訳アンソロジーを企画したアンナ・シェルコフという人がいました。日本ではシェルコフ(又はシェリコフ)夫人として知られるその人の事績について米国の資料をもとに辿りつつあります。彼女の残した唯一の小説 Nurse's Story の解説を 始めました。
Articles in this section describe the life of Anna Schoellkopf who planned to edit an anthology of contemporary Japanese literature one century ago. Some of them are given in both Japanese and English.
 

水野仙子(Jan. 14, 2026更新)

花袋の弟子であった水野仙子の履歴についての補足などです。遺稿集出版に際しての花袋談話を掲載しました

 
玉井喜作と東京速成学館(Dec. 24, 2025更新)

若き日の花袋が学んだ「東京速成学館」は後にシベリア横断を敢行したジャーナリスト玉井喜作によって設立されました。花袋在学時代の原資料から、当時の状況(開校から札幌農学校赴任まで)を探っています。少し変わった話題として、ベルリンにおける樋口一葉に関わる出会いを加えました。

 

田山花袋(Dec. 1, 2025更新)

田山花袋の主として年譜的、書誌的事項の考証です。内容は、若き日に学んだ日本英学館についてや、周りの人々の閲歴などを調べています。実弟富弥については官歴(軍歴)やその子孫などについて、先行研究への補足を行っています。

 

樋口一葉と久佐賀義孝(Oct. 26, 2025更新)
一葉の作品そのものではなく、関わりのあった占卜家の久佐賀義孝およびその周辺について。最近は特にあまり知られていなかった、あるいは興味を持たれていなかった、一葉死後の久佐賀の消息についてです。別に一葉に関係した記事が「玉井喜作」の項目にもあります。

 

柳田国男/田山花袋

若い頃から友人であった両人の交流に関しての年譜的事項が中心です。明治三十一年の伊良湖滞在については、「伊良湖岬」の項目をご覧ください。
 
田舎教師(Apr. 9, 2025更新)

田山花袋の代表作『田舎教師』について、主としてモデルに関する事柄です。最近の記事では、作中ヒロイン田原ひで子のモデルとなった女性が残した詩文についてまとめました。またそれに多少関連して、主人公小林秀三の音楽学校受験について。

 

幸田露伴(Mar. 19, 2025更新)

記事が増えて来たので独立させました。と言っても、若い時代に関するトピックス2件だけです。電信技手であった頃と、「露団々」中の「方陣秘説」についての内容です。

 

鴎外、独歩などについてはこちらです。

 

『田舎教師』主人公のモデル小林秀三の日記は故小林一郎氏(花袋研究の泰斗)によって翻刻されています。その全文についての註釈です。かなり以前のものなので、今ならもう少し詳しいことが分かるはずですが、それは今後の課題として。

 

 三番目の「いとしとのさまこのまりおきて/おひにてられてたひをつる」については手がかりが得られなかった。また意味も解せない。
 

 五番目の「沖をとほるはとのさま舟か/しやみやたいこてにぎやかな」についても同様である。こちらは、意味は通る。ともに「殿様」が関係しているようだが、領主ということでもなさそうである。いずれにしても、後考に待ちたい。
 

 その間にある四番目の唄は明解である。

 奉公するなら古田はたけ村/いやな中山小なか山

というのだが、古田(こだ)も畠村も中山も小中山もいずれも福江周辺の地名である。現在、渥美半島は付け根から先の全域が田原市になっているが、平成の大合併以前、西半分は渥美町であった。渥美町は昭和三十年に福江町を中心に伊良湖崎村と泉村を併せて発足したが、その福江町も発足は明治三十九年で、それまでは福江、中山、清田の三村であった。


 福江村は町村制が施行された時の名称である。向山、亀山、保美、畠の四村が集まってできた。清田には古田を含む三村があった。中山村は半島西北の一角で、立間崎を含むあたりが小中山村、その南一帯に中山村があった。畠村は福江の中心部に位置し、港に近く、古田はその隣である。
 

 歌の意味するところは、労働がきついであろう農村よりも、少しでもにぎやかな町で奉公したいということであろう。これを採録した伊奈森太郎氏が、その著『郷土民謡風土記』(黎明書房、昭和三十二年)にそう記している。
 

 『渥美町史考古・民俗編』(渥美町町史編さん委員会編、渥美町、平成三年)においては、「庭唄」の中の「籾すり唄」に分類されている。農村へ奉公に出された、おそらく少女が嘆いた歌であったろう。
 

 この内容で歌われたのは、福江かせいぜい伊良湖当たりまでに限られたであろうが、地名を変えたり、主家の屋号にしたりしたものが他の地域にもありそうである。少なくとも「奉公するなら」で始まるフレーズはいくつも見つかる。ただし、地名を同じように絡めたものがあるか否かは分からない。
 

 二番目に書かれた、

 なんほたじまのあらきのろでも/あの子おもへは苦にやならぬ

という唄は、心に深くとどまったのだろうか、「遊海島記」にも書き記している。そこでは「なんぼ田島の新木の櫓でも那の子懐へば苦にやならぬ」という字を充てており、次いで「田島は知多郡のことなり」と注記している。遥か後にも「民謡覚書」に採録し、「伊勢湾の周囲の漁村から、押送りの早船を漕いで往来した者が、斯ういふ唄を歌つてゐた」と自らの体験として記している。

 

 これもまた他の文献に見える。ただし、それほど数はない。桶谷寸花(虎之助)という人の書いた『マドロス物語』(海の生活社、昭和七年)中の「唄のマドロス、唄の港」の章にこの唄が引用されているが、聞き覚えた所は記されていない。作者の詳細も不明であるが、外航船に乗り組んだ人で歌集も残している。それ以前は内航船で各地を回ったようなので、三河とは限らぬにせよ聞く機会はあっただろう。
 

 三河の郷土史家である田原出身の伊奈森太郎氏の『郷土民謡風土記』(黎明書房、昭和三十二年)に「船頭」の歌として記録されたものは、「丹後、但馬の新木のろでも、あの子思えば苦にゃならぬ」である。採集地は田原となっており、伊奈氏の解釈によれば、丹後但馬は櫓の産地であり、新木の櫓は漕ぎにくいためこういう詞になったというのである。つまり田島は但馬であって、「なんぼ」は丹後が転じたことになる。どちらが原型であるかは何とも言えないが、これは後付けの解釈が混じっているように感じられる。
 

 但馬が櫓の産地というのも推測であろうし、そもそも「たじま」が山陰道の但馬ではない可能性の方が大きい。というのも大正十二年の『知多郡史上巻』(愛知県知多郡編集出版)の第五章には師崎、豊浜の地を但馬郷と言ったとある。当地に居た但馬連(むらじ)によるという。この人々が太古に但馬の国を征すべく動員されて彼の地に上陸したことによって称したとも記す。
 

 それはもとより伝説であろうが、寛政以降に樋口好古によって記録された『尾張徇行記』(第六巻、名古屋市蓬左文庫編、青地県郷土資料刊行会、昭和五十一年)などには「田島庄」に属する村がいくつか記されている。師崎、豊浜は半島の南岸だが、ここに書かれた田島庄の村々は、古布、矢梨、乙方など半島の北側で三河湾に向いた地域である。とすれば、柳田が述べた知多郡というのは確かにその通りであった。ただ、「民謡覚書」に書いた、知多半島には「米が沢山に出来るから」田島と呼ばれたらしいという伝聞または推測の根拠は分からない。
 

 花袋の書いたものにもこの唄が引用されている。大正六年の『山へ海へ』(春陽堂)の「伊良湖岬」の節である。かつての「伊良湖半島」(『南船北馬』、博文館、明治三十二年、所収)と比較すると、その旧作に柳田の「遊海島記」の影響を加えたような内容になっている。一例がこの唄で、若い船乗りが歌うと書かれている。ただ、単に柳田の記述を加えたといったものでもなく、これまでに書かれていない牛の放牧のことなどに関する興味深い記述もある。これについては、また別途考えたい。
 

 まず、山陰の例を述べれば、昭和十四年発行の『郷土研究紀要因伯民俗調査第一輯』(中島正賢編、鳥取県師範学校)中の「民謡」(中村慶郎)の章に海唄の一つとして、「民謡雑記」と全く同じものが挙げられている。


 やはり鳥取県の岩美町旧小田村で採集されたものが『民俗採訪 昭和44年度』(国学院大学民俗学研究会、昭和四十五年)に掲載されているが、「天の星さんをかぞえてみたら、九千九つ八つ一つ」でとあって、万ではなく千である。鳥取市を挟んで西側の湯梨浜町や、海を渡った隠岐島西ノ島にもほとんど同じ唄がある。(『泊村誌』泊村誌編さん委員会編、泊村、平成元年、および『浦郷町史』西ノ島町、平成四年)
 

 九州では、昭和三十四年に出版された『若松市史第二集』(若松市史第二集編纂委員会編、若松市、昭和三十四年)に古老から蒐録したとして「天の星数数えてみたら/九万九ツ、八ツ一ツ」が記載されていて、田植歌に分類されている。発行年から推測すると、採集元の古老は明治半ばの生まれであろうか。
 

 三河に戻ると、新城で記録された「天のお星様かぞへて見たちょー、九千九つ八つ一つよー」が子守唄に分類されている(『新城市誌』新城市誌編集委員会編、新城市、昭和三十八年)。実際の歌い様を再現すれば、こういった形が元に近いのかもしれない。多くの場合、合いの手や繰返しは、まとめた際に省略されたようである。
 

 三河から湾を挟んだ伊勢の一志郡波瀬(現一志町)では、やはり子守唄として「雲の星さんかぞえて見れば九万九つ八つ一つ」(『波瀬のすがた本編』、波瀬郷土史刊行会編、郷土会、昭和四十三年)が歌われていた。
 

 その他、信州や、越後にもある。後者は相馬御風が晩年故郷で歌われているとして書き記したものである。このような広い分布から、かなり古い起源が推測されるが、少なくとも徳川時代中期まで遡ることが文献から分かった。
 

 『続日本歌謡集成巻三近世編』(浅野建二編、東京堂出版、昭和三十六年)に収められた「延享五年小歌しやうが集」中に記録された五百七十首の一つが「空の星様数へてみれば、九千九つ八つ壱つ」である。解題によれば、但馬豊岡地方で採取されたもので、年代も妥当であるとされている。延享は一七四四年から一七四八年に相当し、徳川吉宗の将軍職最晩期から大御所時代に当たる。


 ちなみに『日本歌謡集成』は正編十二巻、続編五巻という大部な全集で、記紀歌謡から最終巻末尾の流行歌(デカンショ節など)までを網羅している。柳田の手帳には伊良湖の民謡のほか、東京で集めたと思しき俗謡が書き記されており、その多くもこの集成に収められているが、それは今は措く。
 

 俚謡六首の最初に来るのは、

 天のほしをかそえて見れは/九万九つ八つ一つ

である。先に紹介した『民謡の今と昔』に収められた「民謡雑記」の第四節に、三河の伊良湖で聞いた船唄として引用されており、そこでは「天の星様かぞへて見れば/しまん九つ、やつ一つ」となっている。

 

 翻刻前の印影を見直すと、一句目の「を」の部分は「左万(さま)」を崩した仮名にも見える。しかし、九万はやはり九万であって「四万」ではない。「民謡雑記」の初出はおそらく昭和初めで、そうであれば柳田の手元には「手帳」以外のソースがあったとしても不思議はない。
 

 これについては岡谷公二氏が「椰子の実とアシカ―柳田国男の伊良湖岬滞在―」(初出『展望』昭和五十三年二月、のち『島の精神誌』収載、思索社、昭和五十六年)において、

 

 彼が「民謡の今と昔」(昭和四年)の中で、

 「……私が三河の伊良湖岬で聞いた船唄は、
  天の星様かぞへて見れば
  しまん九つ、やつ一つ
  といふのであつた……」

と書くとき、私は、彼がこの唄を三十年間そらんじていたのだろうか、それとも聞いたその場でノートに書きつけておいたのだろうかと自問せずにはいられない。どちらにしろ当時彼が、船唄までもあだにはきき過していなかったことの、これは証拠である。

 

と書いている。少なくともノートはあった。しかし「四万」と「九万」というささやかな異同が、三十年間における記憶のゆらぎなのか、また別のメモがあったのか、もしくは後年別のソースから見出したものなのかは分からない。

 

 柳田が『民謡覚書』においていくつも例示したように、同じ起源の俚謡が離れた土地に伝わることは珍しくない。調べてみるとこの唄を伝えているのは三河ばかりではなかった。国会図書館のデジタルコレクションで「九つ八つ一つ」で検索しただけだが、九州や山陰などでも採集されている。
 

 船唄とされていたり、田植唄、子守唄など分類はさまざまであるが、歌の文句は子守唄とするのがふさわしい。やや煩雑にわたるが、その一部を次に示す。