醒餘贅語

醒餘贅語

酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

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 水野仙子の小説で書籍として出版されたのは、死後に出た『水野仙子集』(川浪道三編)だけであると言われることがある。実際には、ほか二冊がともに大正三年に出版されている。その一つは、博文館から出た『女傑ジヤンヌ』である。


 その現物を入手することは、極めて困難と思われるし国会図書館にも所蔵がない。とはいえ、偏奇館小林徹氏による「水野仙子ホームページ」中のpdfファイルによって全文を読める。
 

 博文館が出版する他の書籍の巻末に付せられた広告から、「世界少女文学」というシリーズの一編であったことがわかる。ここで示したのは、少年日本歴史読本第十七編にある萩野由之著『安土城』(博文館、大正三年)の巻末広告である。これにより、「世界少年文学」と対になっていたことが分かる。それぞれ九巻まで掲載され、以下「続々刊行」とは書かれてはいるが、広告や目録の類を見る限り、このあたりが最後であったと思われる。
 

  

  諸大家「執筆」とある一方で、著者の下にはすべて「編」と記されている。シリーズ名や個別の題名からも想像されるように、オリジナルは海外作品である。「訳」でなく「編」となっているのは、厳密な翻訳ではないばかりか、場合によっては先行する訳業をも参考にしつつ編んだからであろう。
 

 水野はその序文中でシルレル、つまりシラーの『オルレアンの少女』からこの物語を綴ったと書いている。シラーの原作は戯曲であり、水野のものは小説であるから、書き言葉にしなければならない。水野が翻訳ができるほど外国語を使えたという話は聞かないので、ここで参考にしたのはおそらく訳書であろうと思う。
 

 出版日は、大正四年一月十二日の官報第731号の「著作権譲渡及相続登録」欄に記載があり、「著作」の年月日が大正三年九月一日、発行が十月十五日になっている。著作の年月日が何を意味するのかはよく分からない。下に画像を示すが、編者訳者ではなく著作者となっている。この場合の著作者はもっと意味が広いのであろう。

 


 大正三年末の時点で、この作品の日本語訳は少なくとも二点ある。一つは明治三十六年の『オルレアンの少女』(藤沢古雪訳、冨山房)である。奥付の名前は藤沢周治だが周次が正しいようである。東京帝大英文科卒で多くの翻訳がある。序文を読む限りは重訳ではなさそうなのでドイツ語が出来た人であろう。長く学習院で教えた。
 

 もう一つは大正三年の十月の出版になるため、参考にはできなかったはずであるが、念のため書いておく。堀田相爾翻案の『不思議の兜 女戦士』で、文永館から出版されている。ここではジャンヌではなくヨハンナと書かれていることから、やはりドイツ語原著から起こしていることが想像される。
 

 大正元(1912)年がジャンヌ・ダルク生誕五百年に当たるせいか、このころから関係する記事や書籍が増えているように見える。水野と同じ時期に、これもまた子供向けの『歴史物語オルレアンの少女』(松原浜二編、自由社、大正三年)などもある。「児童文庫第二編」とあるように子供向けの簡略版で、出版も十一月である。とても水野の参考にはなるまいと思う。
 

 他の訳書がある可能性もあるが、今のところ該当するのは藤沢古雪の訳のみである。筆者は両者の内容を比較検討はしていないので、考察は特にない。シラー以外の書物も参考にできたであろう。
 

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水野仙子(Jan. 7, 2026更新)

花袋の弟子であった水野仙子の履歴についての補足などです。遺稿集出版に際しての花袋談話を掲載しました

 
玉井喜作と東京速成学館(Dec. 24, 2025更新)

若き日の花袋が学んだ「東京速成学館」は後にシベリア横断を敢行したジャーナリスト玉井喜作によって設立されました。花袋在学時代の原資料から、当時の状況(開校から札幌農学校赴任まで)を探っています。少し変わった話題として、ベルリンにおける樋口一葉に関わる出会いを加えました。

 

田山花袋(Dec. 1, 2025更新)

田山花袋の主として年譜的、書誌的事項の考証です。内容は、若き日に学んだ日本英学館についてや、周りの人々の閲歴などを調べています。実弟富弥については官歴(軍歴)やその子孫などについて、先行研究への補足を行っています。

 

伊良湖岬(Nov 8, 2025更新)

明治三十一年の夏、柳田(当時松岡)国男、そして田山花袋も短期間過ごした伊良湖の日々を、公刊された『伊勢海ノ資料』(とその翻刻)から手繰り寄せたいと考えています。

 
樋口一葉と久佐賀義孝(Oct. 26, 2025更新)
一葉の作品そのものではなく、関わりのあった占卜家の久佐賀義孝およびその周辺について。最近は特にあまり知られていなかった、あるいは興味を持たれていなかった、一葉死後の久佐賀の消息についてです。別に一葉に関係した記事が「玉井喜作」の項目にもあります。

 

1型糖尿病(June 29, 2025更新)

筆者が罹患している「劇症」「1型」糖尿病についての記事です。ただし、あくまでも筆者個人の体験を述べたものであり、一般性は保証できません。特に同病の方はそのつもりでお読みください。
 

アンナ・シェルコフ (Anna Schoellkopf)(June 1, 2025更新)

かつて、日本文学の英訳アンソロジーを企画したアンナ・シェルコフという人がいました。日本ではシェルコフ(又はシェリコフ)夫人として知られるその人の事績について米国の資料をもとに辿りつつあります。
Articles in this section describe the life of Anna Schoellkopf who planned to edit an anthology of contemporary Japanese literature one century ago. Some of them are given in both Japanese and English.
 
若い頃から友人であった両人の交流に関しての年譜的事項が中心です。明治三十一年の伊良湖滞在については、「伊良湖岬」の項目をご覧ください。
 
田舎教師(Apr. 9, 2025更新)

田山花袋の代表作『田舎教師』について、主としてモデルに関する事柄です。最近の記事では、作中ヒロイン田原ひで子のモデルとなった女性が残した詩文についてまとめました。またそれに多少関連して、主人公小林秀三の音楽学校受験について。

 

幸田露伴(Mar. 19, 2025更新)

記事が増えて来たので独立させました。と言っても、若い時代に関するトピックス2件だけです。電信技手であった頃と、「露団々」中の「方陣秘説」についての内容です。

 

鴎外、独歩などについてはこちらです。

 

『田舎教師』主人公のモデル小林秀三の日記は故小林一郎氏(花袋研究の泰斗)によって翻刻されています。その全文についての註釈です。かなり以前のものなので、今ならもう少し詳しいことが分かるはずですが、それは今後の課題として。

 

その他(Dec. 31, 2025更新)

他に分類できない雑文をこちらに入れています。内容は様々です。

 

 昔の文章には時折「一寸ほどの大きさの月」とか、彗星の尾の長さや稀に見えたオーロラの高さについて、「三尺」とか「二丈」などと書かれている。あるいは林の向こうの朝日や夕陽が、「木の天辺から二間ほどの高さ」などという表現を見たこともある。


 天文学の知識がなくとも、彗星の尾が実際に二丈であると思ったはずはない。感覚のまま正直に表現したらそういう数値になったということだろう。なぜ彗星が二丈や五尺に見えるのか。
 

 物の大きさは見ただけでは分からない。見えるということは、すなわち網膜上に二次元の像が投影されたのであって、大きさは網膜上で占める領域で決まる。実寸に関する情報はない。
 

 もちろん、両眼の視差によってある程度の距離なら遠近を弁別できるというし、片目を使っただけでも、無意識に焦点を合わせることで距離感覚を掴んでいるともいう。しかしある距離以上、例えば百メートル先と千メートル先の違いは分からない。したがって、仮に同じ大きさに見える二つの物体があったとして、その大小は分からないはずである。
 

 ただ、人間には(あるいはそれ以外の動物であっても)知能があり、物の大きさの知識や、前後関係などから推断することは可能である。しかし、天体のように直接的経験を持ちえない対象については、せいぜい「星は月より遠い」以上の見当はつかないであろう。おそらく、理屈の介在しない知覚が、天体の距離を「(何となく)この程度」と感じさせていると考えて見た。
 

 見かけの大きは視野角で決まる。例えば空の大きさは東の地平から西の地平まで天頂を通って180度である。これがいってみれば空全体の視野角である。目に見る物体は視野の一部、つまりある視野角を覆う。もし距離が十倍になれば視野角は十分の一になり、また十倍の距離に十倍の大きさの物があれば、見かけ上の大きさは同じである。
 

 月の視野角、すなわち月の直径が空全体の180度に対しどの程度になるかと想像すると、直感的には3度とか5度と言った値が出て来そうであるが、実際はもっと小さい。月の直径が約3,500キロで、月までの距離は約38万キロ、すなわちざっと110倍にあたる。このとき月の視野角は110分の1 = 0.009ラジアンにあたる。円周率をπを用いると、πラジアンが180度に相当するので、月の視野角は0.009 x 180 / 3.14 となり大よそ0.5度である。つまり、天空を通る半円上には350個ほどの満月を並べることができる。
 

 月の直径を一尺とは恐らく感じないであろうから、仮に一寸(3 cm程度)に見えたとする。3 cmの円盤が月と同じ大きさ、すなわち同じ視野角になるには、距離と直径の比率を同じにすればよい。すなわち110倍して3.3メートルである。
 

 彗星の尾の長さはもちろん千差万別であろう。大きいものであれば満月の10倍程度にもなるだろうか。それであれば角度にして5度である。満月が一寸であれば、すなわちこれは十倍の一尺である。ハレー彗星は最大150度にもなったというからこれは別格としても、15度も有る特大級彗星が三尺に感じられたというのは有りそうな話である。
 

 では、われわれは無意識裡には天体が3メートルの距離にあると思っているのだろうか。何もない平原に寝そべって、上を見ればあるいはそんな気がするかもしれない。しかし、天の高さが3メートルというのは聊か乱暴に過ぎる話である。ただ、思いを天の一角に限定して他を見ない。そうであればそんな気がしてくるかもしれない。
 

 月夜に散歩したさい、月の視野角を計るべく、一円玉を手に取り腕を伸ばして月と重ねてみた。その日は確か三、四日の月であったが、一円玉の直径は月四、五個程度であった。この時の一円玉の視野角は目から指先までを大雑把に60 cmとして、直径2 cmであるから2/60、概ね0.033ラジアンで月の4倍にある。つまり理屈通りである。
 

 もう少し先の3.3メートル先に置けば0.006 ラジアンで、月の0.009ラジアンよりも小さくなる。直径が一寸あれば月と同じに見えるはずである。しかし、月と同じ距離にあるとは感じられないだろう。何かが邪魔をしているのである。
 

 玉井は農学校を辞めてからしばらくは札幌に留まり商業に従事した。日本を出るのが翌二十五年十一月であるから、一年半ほど商売に専念していたと思われる。ただし、農業に携わったという説もあることを付言しておく。


 商業に関する資料は少ない。しかし、明治二十四年九月に発足した「商業倶楽府」には常議員として名を連ねている(『新札幌市史第三巻』札幌市教育委員会編、札幌市発行、平成六年、第七編第四章第四節)。店の内容、すなわち取扱商品については、明治二十五年に刊行された『北海之商業』(赤星栄三郎編集、商業倶楽府発行)に掲載された広告から推定できる。
 

 

 ここから、「国本屋」と称したことが分かる。扱うのは山口県の物産と、各地の煙草の仲買と小売である。煙草の他は布地、鉛筆、缶詰、洋酒などがある。勿論、国元に伝手があったのであろう。店の場所は南二条三丁目である。最も繁華であったのは南一条と思われるので、派手にデビューしたわけではなさそうである。独逸学講習所を開いた北一条西七丁目とは別に店を構えたのか、あるいは移転したのかは分からない。
 

 それにしても、半年前まで教師であった玉井が、僅かの後に商業倶楽府の十二人の常議員に数えられるほどになっている。それだけ重きを置かれたのは、やはり理由があったのだろう。玉井自身は若い時期に上京しているため、商業については耳学問以上の経験があったとは思えない。思いのほか、国本屋の経営が順調であったのかもしれないが、それ以上に農学校の教員や道庁の官僚たちにも引けを取らない学識、経歴が買われたのではないか思う。
 

 先の『新札幌市史』の同じ個所には、倶楽府の事業として、毎月の常集会(例会)で討論演説講話等を行ったとある。そこでは佐藤昌介や新渡戸稲造らも壇に登り、新聞にも報道された。つまり、事業の便宜だけでなく修養団体としての性格もあったとすれば、農学校とパイプを持つ玉井の存在は貴重であったに違いない。
 

 ほかの常議員や府長(今ならば理事長であろう)、二人いる幹事らはどういう人たちなのだろうか。それが分かれば玉井の位置づけも多少明らかになるかもしれない。ちなみに同じ常議員の一人、今井藤七は、現在大通にデパートを構える丸井今井(今は三越伊勢丹の子会社)の創業者である。『北海之商業』の国本屋の前のページに掲載された広告を示しておく。
 

  
  今井藤七の甥で養子となった今井雄七は、のちに商店を株式会社に改め、最初の社長として発展させることになる。喜作が国本屋を経営していた際は、雄七は十四歳であったはずで、恐らく札幌に居ただろう。


 雄七は明治三十年に慶應義塾の高等科を卒業して、米国のシカゴで商学を学ぶ。おそらくその帰途と思われるが、三十四年の一月に欧州を視察した際ベルリンの玉井家に立ち寄ったことが玉井家に残された『寄せ書き帳』からわかる。同席していたのは大島金太郎、松村松年、池田和吉で、いずれも農学校の卒業生である。寄せ書きには「プロイセン建国二百周年の日」とは記されているが、ほかは署名だけである。(終)
 

 玉井は農学校でドイツ語を教える傍ら、別に私塾を開いた。あまり記録はないのだが、明治二十三年六月発行の雑誌『北海道』十三号の「雑録」欄の記事を引用する。

 

独逸学講習所は明治廿一年九月の創立にして北一条西七丁目三番地にあり玉井喜作之か校長たり学科は独逸学の一科にして教員一名生徒拾名を教授し一ヶ年中の授業料総額は金百二拾円なり

 

 この雑誌は北海道学友会事務所が発行し、国会図書館デジタルライブラリーにある版の表紙には非売品と書かれている。会と農学校の関係は不明だが、佐藤昌介も深くかかわっているようなので、外郭団体のようなものと思われる。

 

 玉井の学校については、明治二十三年出版の『明治二十二年札幌区役所統計概表』(北海道札幌区役所発行)にも記載があり、修業年限は二年と書かれている。他の文書にも散見されるが、内容について書かれたものはない。おそらくは東京速成学館時代と同内容を当てはめたのだろう。
 

 着任と同時に開校しているが、十人の生徒が集まったかは分からない。しかし、農学校以外でもドイツ語学習に意欲を持つものも居たであろう。実際、札幌製糖所にはドイツ人技師のクレムメ兄弟が在籍していた。そこのスタッフは当然ドイツ語を習得したいと思ったであろう。北海道に集まる若者はドイツ語に限らず、学習意欲、あるいは上昇志向が高かった。学友会の集会に二百五十人集まったという記事からも、そう推測できる。
 

 玉井は二十四年の三月末に農学校を辞した。辞令では「依願解雇」となっているので、自ら辞めた形である。本当の理由は不明だが、新渡戸稲造の農学校復帰と関連していた可能性はある。新渡戸は農学校に籍を置いたまま米国に留学した。在外のまま助教授となり、明治二十年、つまり玉井が着任する前年にドイツに転学する。札幌に復帰して教授となったのが二十四年三月であり、ちょうど玉井と入れ替わりである。
 

 後に教授となった松村松年は、農学校で新渡戸からドイツ語を習ったと自伝に書いている。松村は二十四年九月に農学校に入学した。それ以前は予科に居たので玉井を知っていた可能性は有るが、ドイツ語の授業は受けていないだろう。玉井なき後のドイツ語の少なくとも一部は新渡戸が担当した(『北大百年史通説』p150、北海道大学、昭和五十七年)。
 

 学校を運営する側としては、新渡戸をドイツ語専任にする意図はもちろんなかったにせよ、先にやはりドイツから戻った広井勇と合わせれば、玉井抜きでの授業も出来ない話ではないと算用したかもしれない。玉井の契約を更新するにしても負担の軽減と引き換えに、給与の切り下げを求めたというのは、現代の状況に即し過ぎた考えだろうか。しかし、このころ農学校が内務省から予算の削減を迫られていたことは事実である。
 

 何れにせよ、玉井は農学校の教員を辞めた。そのあとは新渡戸稲造が担当した。松村の自伝は二つの事象を関連させているように読める。