菅原道真さんがどんな人だったのか。
本を読んでその才知と怨恨のバランス差が大きすぎて頭で捉えられず、
大宰府を感じてみようと、1000km離れた神奈川県から見にいってみました。
菅原道真さん
国立博物館では道真さんの姿絵を見られたり少しどんな家系の人だったか知れる本も買えました。
本には、
ひい爺さんの時に、土師から菅原に改姓。
道真で3代目の文章博士で、漢詩人。子供も10人以上いたようです。
博士を離任し讃岐守に赴任、戻ると宇多天皇に抜擢され側近として右大臣に至るが、冤罪で大宰府に左遷され2年後の59歳に亡くなる。
博物館の展示物をみると、字は物凄く上手だし、帯刀もしていたようです。
頭が良いから字が上手いとは思えませんが、字の綺麗な人は頭は良さそうです。
それもずば抜けて綺麗な字には説得力が有ります。
大宰府の模型
大宰府は立派な建物の政庁ですが、防衛のための水城でもありました。
でも博多津から遠すぎる。この地で何から何を守っていたのかはよく分かりませんでした。
大宰府跡
その大宰府跡は、太宰府天満宮から徒歩20-30分、西鉄の1つ手前の都府楼前駅から徒歩15分くらい。
西の朝廷で総督府ながら、京から大宰府に転勤で来る官僚は3-4年で京へ帰ってしまうお決まりコースの1つ。
道真さんはここへの左遷を嘆き、稀に知識欲で博多津へお忍びで出かけ、来ても京からの来訪者にはほとんど会わず帰り際には雷鳴で驚かしました。
それにしては想像より狭い。
博物館で見た復元模型での建物は朱塗りの立派なもの京並みに広いかと思いきや、かなり小さい敷地です。
もっとも都府楼駅が結構離れているのは、かつては広大な敷地で、掘ると埋蔵文化財が出てきちゃうので線路工事は近くではできなかったなどの理由も有るのでしょうか。
都府楼が700年ころ出来て、道真さんが左遷されたのが900年ごろ、閉鎖されるのは元寇後の1200年代のようですから建物も何回も移設や建て替えも有ったのでしょう。
観世音寺
道真さんの漢詩には、歩いて10分くらいの観世音寺の鐘の音が癒し音のようにでてきます。
大宰府駅
ほとんどの観光客の訪問する天満宮へはこちらの駅から。
バスでも8時の博多バスセンターから直行便で40分くらいで来られます。
朝から観光バスやら電車やら外人で凄い賑わいの人気。
太宰府天満宮
今では受験の神様として崇められていますが、
道真さんが亡くなって5年くらいで、左遷した張本人やその一派の人が次々と病や落雷なので亡くなり、
京では道真さんの恨みと噂され北野天満宮を建て鎮魂を願いましたが、
ここ大宰府にも天満宮を築し、その学術を称え鎮魂を願ったようです。
撫でられて艶々の牛は、道真さんは丑年生まれだから有るとか。
天満宮内の伝説の飛梅
「東風吹かば・・・」と有名な歌を詠まれた梅が、京から一夜で飛来した伝説。
京都の北野天満宮にも同じ飛梅伝説が有ります。
梅が枝餅を近くで新しいのを頂いて感動、美味しかったので写真は有りませんが、
菅原道真
優秀な父に英才教育を受け早くから認められ、天子にも見込まれたその才。
しかし藤原氏に冤罪で飛ばされた道長さん。
大宰府では好奇な目に晒されます。
道真さんにとってここ大宰府は、
殺傷に軽々しく手を下し群盗は肩を並べあい欲深いものや偽物売りなどの商売が習俗・風俗になっている左遷地。
その後の薩摩や肥後のように事有るごとに中央政権に反旗を翻すのが九州の必然気質なのでしょう。
それには元手が必要ですから、表に出せない密貿易の儲けや隠し地領が有ったとみるのが自然でしょう。
そんな地で、都を思い続け、恨み悲嘆に暮れながら、2年後、59歳で亡くなりました。
実際に道長さんの書いた紺紙金字法華経を見て、その上手な字には驚かされます。
漢詩レベルも極優秀。
実務も厭わず天子のためにと全精力を傾け捧げた人生。
合格祈願で受験生に崇められる存在になったことが本人の望みどうりかは分かりませんが、
学者でここまで尊崇されている人は他になく、唯一無二、日本一の存在でしょう。