『思考のフロンティア/公共性』 | ゴキゴキ殲滅作戦!

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さらに念のために言っておきますが、このブログはコックローチやゴキブリホイホイとは何の関係もありません。
本と映画と渋谷とフランスについての日記です。

私は15年ほど前から政治哲学を勉強していますが、ここのところ、勉強を始めた当初に読んだ本を読み返してみたいと考えています。ほとんど知識のなかった時期に読んだ書物を、現在の知識をバックグラウンドに読んでみれば、何か新たな発見もあるかと思うからです。そうした企図の下、最初に再読したのが前回紹介したジジェクの『ポストモダンの共産主義』でした。第二弾は、齋藤純一さんの『思考のフロンティア/公共性』(岩波書店)。

 

扱われる内容は多岐にわたり、また「推論を重ねて結論を出す」という書き方ではないので、簡潔に要約するのは不可能です。そこで、私が個人的に面白いと思った事柄だけを列挙しましょう。

 

・「公共性」とは「人びとの『間』に形成される」「政治的意思形成のための言説の空間」である。そのような「公共的空間」においては、「あらゆる功利主義的思考」は「失効」し、人間はもはや「有用」であるか否かによって判断されはしない。というのも、そこでは「一人一人の生」が「他に還元することのできない比類のない」ものとされるからである。

 

・「公共的領域」と「私的領域」との境界は、言説に依存する流動的なものである。この境界線を巡る最も重要な抗争の一つが、「ニーズ解釈の政治」である。ある「生命のニーズ」が公共的に対応すべきものであるか、それとも個人/家族によって充足されるべきものであるかを決定することは、この「政治」における最も基本的なテーマである。

 

・「公共性」は「言説の空間」であるから、そこでは「言説の資源」に恵まれた者がヘゲモニーを握ることになる。「ニーズ解釈の政治」において逆説的なのは、そこでは最も切実な必要を抱えている人びとが、この「政治」に参入するための資源において最も乏しいという事態が、しばしば生じることである。

 

・人びとが、自然的な偶然性(能力・才能等)や社会的な偶然性(事故・病気等)ゆえに不利な境遇に追い込まれるのは「道徳的観点から見て恣意的」であり、それを許容することは正義にかなってはいないだろう。こうして現れるのが「社会的連帯の理念」である。

 

・アマルティア・センは公共的価値を「基本的な潜在能力」と解釈する。「潜在能力」とは、ある人に実質的に開かれている「生き方の幅」である。このアプローチが優れているのは、それが構造化された抑圧・差別のために、人びとからある「生き方の幅」が剥奪されているという事態に光を当てることを可能にするからである。

 

・1980年代以降、「経済的なもの」と「社会的なもの」が背反するようになり、社会保障は「経済の良好なパフォーマンスにとっての足枷」とみなされるようになった。同時に「労働市場の柔軟化」が進み、労働者は自己という「人的資本」を弛みなく開発することを強いられるようになる。そのような社会では、「公的扶助」を受ける人びとは「自己統治」の能力を欠いた者として表象され、こうして「社会的連帯の空洞化」が生じることになった。

 

・社会的連帯という理念を維持するために必要なのは、私たちの現在の生が、幾重もの自然的・社会的な偶然性の上に築かれているという事実を、徹底的に認識することである。

 

2000年に発表された書物で、「フロンティア」というには少し古いかも知れませんが、公共性についてコンパクトにまとめられた良書だと思います。お薦めですね。