『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家』(その2) | ゴキゴキ殲滅作戦!

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先日読了したシベルタン=ブランの『ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家』で、赤ペンでチェックした箇所を再読してみました。やはり難解で理解できない箇所が数多ありますが、考えたことをいくつか書いておきましょう。

 

・D=Gを読むに際して、たとえば「遊牧」と「定住」、「平滑空間」と「条理空間」といった単純な二項対立を用いて理解することには、徹底的に慎重になるべきである。なぜなら、これらの対置・対立は、数多くの「機械状プロセス」によって重層的に決定されており、それゆえ「遊牧」が「定住」(あるいは逆)に容易に反転したり、「平滑空間」の内部に「条理空間」(あるいは逆)が存在することも、しばしばあるからだ。

 

・数えることのできる「マジョリティ」と数えることのできない「マイノリティ」(無論、この対立も一筋縄ではいかないわけだが)。この議論を『友愛のポリティックス』におけるデリダの主張との関連で論じることができるかもしれない。というのも、同書によれば、「人間である限りでの人間」(それは絶対的な単独性であって、数えることはできない)と、(選挙や議決に際しての)「数えることのできる人間」とを架橋することこそが、政治哲学の課題だからである。

 

・国家なき原始社会に憑依する「原国家」。こうした「国家」の自己前提構造を、デリダの「差延」を用いて分析することができるだろう。さらにデリダの言う「国家創設の暴力」と比較すること。

 

・抵抗の拠点としての、国際的に連帯する「マイノリティー」による「同盟のブロック」=「新たなインターナショナリズム」。これはネグリ=ハートの言う「マルチチュード」と似ているようでいて、微妙に異なっているように思われる。それらの類似点と相違点は何か(あるいは本質的には「同じもの」と考えてよいのか)。さらに、デリダの言う「新しいインターナショナル」と比較することもできそうだ。