「オカマの東郷健」、あるいはランシエールの「政治」 | ゴキゴキ殲滅作戦!

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本と映画と渋谷とフランスについての日記です。

5年前に亡くなった方だが、東郷健(とうごうけん)さんという社会活動家をご存知だろうか。

 

東郷さんは、私の学生時代、自ら「オカマの東郷健」と名乗り、国政選挙や都知事選など大きな選挙があるたびに立候補し、男性同性愛者の権利の拡大と差別の撤廃を訴えていた。そしてNHKで放映される「政見放送」で、放送禁止用語を連発し、視聴者の間に笑いの渦(それは「嘲笑」や「失笑」ではなく、まさしく「哄笑」だった)を巻き起こした後、毎回、大差をつけられて落選していた。

 

異性愛こそが「正常」であり、同性愛は「異常」で「倒錯」で「変態」でしかないと多くの人々が確信していた時代、臆面もなく同性愛者の社会的認知を求めていた東郷さんは、「稀代の変人」であって、彼の存在そのものが「壮大なジョーク」でしかなかったのだ。

 

ところがここ最近、同性愛者などの性的マイノリティは、マスコミから「LGBT」という呼称を与えられ、その社会的認知はかなりの速度で進んでいるように思われる。渋谷区や世田谷区などいくつかの自治体では、同性のカップルに「パートナーシップ証明書」を発行しているし、少なくとも、良識のある人間なら人前で彼ら彼女らを差別してはならないといった程度の、社会的同意は完成しつつあると言ってよいだろう。

 

そんなことを思ったのは、最近、ジャック・ランシエールの『不和あるいは了解なき了解/政治の哲学は可能か』を読み返し、東郷さんと同性愛者の方々が辿った軌跡が、ランシエールの言う「政治」の格好のモデルになることに気づいたからだ。

 

実際、ランシエールによれば、「政治」とは「当事者を決め分け前があるかないかを決める感性的なものの布置を、定義上その布置の中に場所を持たない前提、つまり分け前なき者の分け前という前提によって切断する運動」であって、「この切断は、当事者を決め分け前があるかないかを決めてきた空間を再配置する一連の行為という形で現れる」(邦訳60頁~61頁)。

 

もう少し日常的な用語で説明すれば、概ね、次のようなことだ。

 

さまざまな価値や権利(=「分け前」)が一定の仕方で配置された体系として、「社会」を考えよう。そのような「社会」の「中」で価値や権利を認められていない人たち(=「分け前なき者」)が、「社会」の「外」から、彼らの価値や権利を求めて声を上げる。

 

その声は、当初、「社会」の側では意味を持たないただの「音」、雑音、動物たちの鳴き声のようなものとして扱われてしまう。東郷さんの主張が、ただの「ジョーク」のようにしか受け取られなかったように。

 

しかし根気強くその声を上げ続けていくうちに、次第に賛同者も増えて、「社会」の側でもそれをただの「音」ではなく、意味を持った「言葉」として聞き取る人たちが出現する。

 

そして遂には、「社会」における価値や権利の配置が変わり、彼らの「分け前」が承認され、彼らも「社会」の「中」に居場所を持つようになる。性的マイノリティの人たちが、徐々に社会的認知を獲得していくように。

 

そう言った一連の運動が、ランシエールの言う「政治」なのです。なるほどねぇ・・・。

 

考えてみれば、アメリカで初期の黒人公民権運動に携わった人たち、あるいはアジア太平洋戦争前の日本で、女性の権利を要求していた人たちも、40年前の東郷健さんのように、「稀代の変人」、「存在そのものがジョーク」のように扱われたのでしょう。

 

ランシエールの「政治」は、大変な覚悟と、精神力と、エネルギーを必要とするようです。

 

東郷健さんのご冥福をお祈りいたします。