アントニオ・ネグリの『さらば、“近代民主主義”』(杉村訳、作品社、2008年)を読了しました。10年ほど前、マイケル・ハートとの共著『帝国』(←世界的ベストセラーです)を読んで興味を持ち、その後何冊か購入して「積ん読」状態だった本の一冊です。
2004年~2005年、パリの「国際哲学コレージュ」で行われた講義の記録。「民主主義が終わる」という内容かと思って読み始めたら、全く当てが外れて、「ポスト近代の民主主義=絶対的民主主義」についての本でした。以下、感想を列挙します。
・極左(←著者はイタリアで収監されたことがある)特有の悪文で、記述は一貫して抽象的。具体的な説明はほとんどない。翻訳もかなり生硬。意味不明の文が多く、結局、分かる(ような気がする)箇所だけをつなげて、「多分、こういうことを言っているのだろう」と想像するしかない。
・現代を「ハイパー近代(=後期近代・再帰的近代)」と考える見方がある。ドイツの思想家、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズが提唱した見解で、日本でも宇野重規さんや森政稔さんが採用している視座である。この見解によれば、「近代」が徹底化され、その(悪)影響を直接被っているのが「現代」だ。ネグリはそのような見方を否定し、「近代」と「ポスト近代」との間には大きな「断絶」があると考える。彼によれば「ポスト近代」は、「非物質的労働(=頭脳労働)」「生権力」「グローバリゼーション」によって特徴づけられる時代である。他方で、柄谷・浅田は「ポスト・モダン」(←直接的に政治や社会を指しているのではなく、「ポスト・モダンの思想」のことだが)を「モダン」の「後」ではなく、「モダンをずらした」ものと捉えていたように思う。この問題に関しては、少し考えてみたい。
・ネグリは「マルチチュード」について具体例を挙げている。フランスでは、五月革命(1968年)や年金改革に反対する運動(1995~96年)の参加者たちである。『帝国』を読んだときは、「マルチチュード」とは「ネットワークで結ばれた全世界の一般市民」という理解だったので、「そんなものが本当に連帯できるのか」と思ったが、上記のような突発的・自然発生的な運動の主体のことならば、納得できる。
・著者は「生権力」が機能するときには必ず「敵対性・抵抗」が生ずると主張するが、具体例が挙げられておらず、全く理解できない。上のような年金改革に対する反対運動ならば、それを「抵抗」と呼ぶことができるだろう。しかし、健康診断や医療行為、あるいは衛生状態の改善(←すべて生権力の行使です)に対する「抵抗」とは、一体何のことだろう。もちろん、生権力は単独の個人が持つ「特異性」にまでは及ばないが、それを「抵抗」とは言わないだろう。
『帝国』は分かりやすかったように記憶していますが、次に本書を選択したのは「失敗」でした。『マルチチュード』(←これもハートとの共著)の方を先に読むべきでした。