ゴキゴキ殲滅作戦!

ゴキゴキ殲滅作戦!

念のために言っておくが、私はゴキブリではない。
さらに念のために言っておきますが、このブログはコックローチやゴキブリホイホイとは何の関係もありません。
本と映画と渋谷とフランスについての日記です。

昨日午後電子メールがあり、某学会誌に投稿した新論文の採用が決定しました。3年前も6年前も採用されたので、今回も大丈夫だとは思っていましたが、やはり少しホッとしています。

 

「第10稿/決定稿(本文31,801字)」が完成したのが9月22日(月)の午後。アメリカの政治哲学者ウィリアム・コノリーのいう「脱構築」を本家ジャック・デリダの脱構築と比較した上で、コノリーのそれを「広義の脱構築」として受け入れて、彼の戦略と具体的な手法を分析したものです。すぐに、編集委員会にワード原稿とPDFをメールで送付しました。

 

その後、資料を読んだり、執筆中全く読めなかった新聞を逆順序で(今日の新聞→昨日の新聞→一昨日のそれ・・・のように)読んだりしていると、10月31日夕刻に二つの「査読意見書」が届きました。一方は非常に好意的で「学術的価値が高い」とまで書いてくれたのですが、他方は「先行研究との異同についての節を加えて下さい」等、いろいろと注文が多い。

 

もともと本邦ではコノリーについての「先行研究」はあまりなく、特に脱構築との関係で書かれたものは京大名誉教授の「大家」が書いたわずか6頁の解説(正直な話、多少論点がズレていると思う)ぐらいしか見当たりませんが、そうした事情を書いてみると、文字数が34,000を超えてしまいました。制限文字数が「原則32,000字(少しくらいなら超過してもいいらしい)」なので、重要度の低い「註」を削除したり、「引用」を短縮したりして(一文を削除し、「・・・」で代替したりする)、31,986字まで短縮し、11月10日に再提出。そして昨日、上で書いたように採用通知を受け取ったという次第です。

 

読み残した新聞はまだ9月12日までしか遡っていません。まだ当面は「新聞漬け」の生活が続きそうです。

新論文の「第三稿」が完成しました。29,000字超。

 

ここで、今までの経緯を振り返っておきましょう。

 

2月、ウィリアム・コノリーの『アイデンティティ\差異』(邦訳)を、原書を参照しながら読み返す。5回目です(最初の2回は途中で放棄したがw)。

3月、『アイデンティティ\差異』のノート(引用集)を作成する。A4で43頁。

4月~7月、参考資料を読む。

8月9日、「第零(ゼロ)稿」の作成を始める。午前中~午後2時はノートを読み、午後3時~5時まで執筆しました。

8月21日、第零稿が完成。18,000字。

8月24日、第一稿が完成。21,000字。

8月27日、第二稿が完成、24,000字。

 

論文の登場人物は今のところ

ウィリアム・コノリー(主役)

ジャック・デリダ(sidekick/助手)

井上達夫(2シーンだけ)

のみ。

 

名前だけ登場するのが

フーコー、ニーチェ、シャンタル・ムフ、リチャード・ローティ、齋藤純一、大川正彦。

 

大川さんには今後、台詞付きの役を演じてもらう予定です。

 

これからしばらくは資料を読みながら、少しずつ手を加えて行こうと考えています。

 

本日、午後1時過ぎ、新論文の「第零(ゼロ)稿」を完成しました。タイトルは秘密ですが(発表後、そのタイトルでネット検索されると、私の素性がバレてしまうのでw)、アメリカの政治哲学者ウィリアム・コノリーについて、ジャック・デリダの「脱構築」という観点から分析した論文です。

 

論文を書くとき、私はいつもまず、ただ「最初の一文」から「最後の一文」まであるだけの、メチャクチャな草稿を作ります。それが私が「第零(ゼロ)稿」と呼んでいるものです。

 

これは、私の頭の中にある粗雑なプランを書き出しただけの殴り書きだから、比較的簡単にできる。また、ほとんど何も考えていないから、書いていてもあまり面白くない。

 

問題はこれからです。論旨が整って内容も精緻な「第一稿」を作るに当たって、初めて「考える」わけだから。いつも大変苦労しますが、実は、これが面白い。

 

これから遅めの昼食を取って、それから始めましょう!

 

 

PS

「第零稿」は18,000字強。三年ぶりの論文なので、30,000字程度(=10,000字×三年)まで膨らませたいと思っています。

 

仲正昌樹さんの『集中講義!アメリカ現代思想/リベラリズムの冒険』(NHKブックス)を読了しました。2008年に刊行された書物で、タイトルに「アメリカ現代思想」とありますが、扱っているのは専ら、リベラリズムを中心とする20世紀中盤以降の「政治哲学」です。

 

リベラリズムの旗手、ジョン・ロールズの思想の変遷を軸に、その前史、彼の盟友ロナルド・ドゥウォーキン、コミュニタリアニズム(共同体主義)やリバタリアニズム(自由至上主義)からのロールズ批判、カルチュラル・スタディーズやフェミニズムなどフランス現代思想に触発された「差異の政治」、リチャード・ローティとウイリアム・コノリーによるリベラリズム乗り越えの試み、さらには世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリ=マイケル・ハートの『帝国』まで、アメリカの社会・政治的背景をも一瞥しつつ、イギリス・カナダも含めた英語圏の戦後政治思想を網羅的に論じます。

 

個々の思想家について踏み込んで分析するのではなく、あくまでも戦後の英語圏の政治哲学をザックリと解説する「入門書」という形式ですが、それにしても著者の博識ぶりには驚嘆しました。

 

前回も書いたように、学期中はまとまった勉強時間を取ることができません。そこで現在構想中の論文の「前提」として、平易な本でアメリカの現代政治哲学の全体像を見ておこうと考えて読んでみた次第ですが、思いのほか勉強になりました。

 

小野紀明さんの『二十世紀の政治思想』(岩波書店/1996年)を読了(したことにw)しました。

 

「岩波テキストブックス」という双書の一冊で、大学の「教科書」として書かれた書物のようです。著者は執筆当時、京都大学の教授。現在絶版中ですが、アマゾンで「中古」を注文したところ、届いたのは「新品」でした。

 

古代ギリシャにおける形而上学の成立から筆を起こし(序章)、その形而上学の批判者としてのニーチェを、まずはファシズムの思想的根拠として、次にポスト・モダン哲学の源流として記述します(第1章)。さらに、ハイデガーについて詳述した(第2章)後、サルトル、レヴィ=ストロース、ポスト・モダンへと筆を進めて行く(第3章)。

 

今回は、「序章」「第1章」と、「第3章」の末尾、「第4章」の最初(フーコーについて)を読んだ後、続くハンナ・アーレントは飛ばして、リチャード・ローティとウィリアム・コノリーについての解説と「結びに代えて」を読んで「読了」しました。

 

著者の博識ぶりに驚嘆し、同時に自分の不勉強ぶりに愕然としています。何より、「アゴニズム(=闘技民主主義)」の「アゴーン(=闘技)」という語がニーチェに由来するとは、知りませんでした。

 

実は、私は大学二年の夏休み、「新聞は隅から隅まで読む」ことと「語学(英語・フランス語)は徹底的に勉強する」ことを決意しました。それ以降、私はこの決意を、修士課程の学生だったとき(←周囲との競争のため)とフランス留学中を除いて、ずっと実践しています。

 

学期中は授業とその準備もあり、自分の研究に割けるのは日曜と月曜(+運が良ければ土曜の夕方)のみ。現在計画中の「コノリー論」は前途多難に思えてきましたが、何とかやってみる所存です。

 

前回の投稿から2ヶ月以上が経過しましたが、この間、ウイリアム・コノリーの『アイデンティティ\差異――他者性の政治』(杉田・齋藤・権左訳/岩波書店)を読了し、A4で42頁のノート(≑引用集)を作りました。

 

2月の終わりに始め、4月8日に一旦終了。その後、読めなかった一ヶ月以上の新聞を読み(授業が始まったこともあって、二週間以上かかりましたw)、4月27日から「ノート」を読み返して誤植の訂正と加筆を行い、たった今、終了した次第です。

 

私にとっては一種「因縁」の書物です。2010年の秋に購入し、直後に読み始めたのですが、100頁を過ぎたあたり(全体で400頁超のうち)で放棄。数年後、再び最初から読み、今度は50頁を過ぎたあたりで放棄。更に数年後、また最初から読み、このときは全体を読了。コロナ禍が始まる前年か前々年には、英語の原書を取り寄せた上で、理解できない箇所は原文を参照するという仕方で、通読。今回は5度目のトライアルでした。

 

「闘技民主主義」の旗手(flag bearer)とされる著者の代表作。闘技者たちがアリーナで、互いに敵に対する敬意を抱きつつ正々堂々と闘うように、異なる立場、異なる意見を持った者たちが、互いに相手に対する敬意を忘れずに、正々堂々と議論することを民主主義の「規制理念」とします。

 

著者は、自己のアイデンティティを「真理」と考え、それと異なるアイデンティティ(=「差異」)、異なる慣習や思想・信条を持つ者たちを「悪」をみなして、征服もしくは改宗させようとする衝動を、人間にとって不可避的なものだと主張します。そうした前提の下、この衝動を緩和し(←「滅却」することは不可能なので)、「アゴーン(競争)的な敬意」を涵養するための倫理を探求するのが、本書です。

 

実は私は、この本について論文を書こうと計画しています。非常に難解なので、完成できるか否か分かりませんが、この夏休みに書き始めてみるつもりです。

 

鵜飼哲さんの『ジャッキー・デリダの墓』(みすず書房、2014年)を読了しました。日本を代表するデリダ研究者の一人である著者が、さまざまな媒体に発表したさまざまな文章を集めた本で、新聞に掲載されたデリダ追悼文など「論文」とは呼べないものも多い。上で「読了」と書きましたが、実際に私が読んだのは興味を引いた以下の三編のみです。

 

「葬送不可能なもの」。『週刊読書人』に掲載した『マルクスの亡霊たち』邦訳の書評です。「書評」ですから大したことは書いてありませんが、デリダがマルクスのテクストに「精神/幽霊」の「決定不可能性」を見い出したという指摘は、邦訳で確認しておきましょう。

 

「来たるべき民主主義への挨拶」。『ならず者たち』邦訳の「訳者あとがき」です。原著タイトルはアメリカ政府が北朝鮮やイランを指して言った「ならず者国家」から来ています。著者はまず、原著の議論をザックリと要約しつつ、デリダの言う「来たるべき民主主義」とカントの「統制的理念」とを比較して、前者を「一切の可能性の条件を超える出来事として『可能ならざること』」である、とします。しかる後に、「来たるべき民主主義」の輪郭を素描し、「民主主義を自認する現存のあらゆる政治体制に対する終わりなき批判の原理」等、五つの論点を摘出します。さらに、「無条件的なもの」としての「正義」と、「条件の体系である法権利」との「苛酷な交渉」について語り、そこに「合理的な脱構築」の必要性を指摘する。最後にランシエールのデリダ批判とコロック「来たるべき民主主義」でのナンシーの発表を紹介して、幕を閉じます。

 

私は『ならず者たち』を持っていないのですが、この本は現在、邦訳もフランス語原書も絶版で、入手は困難(英訳ならあるかもしれませんが)。こんな重要そうな本なら、買っておけばよかったと後悔しています。

 

三編目は「『死せる叡智』と『生ける狂気』」。日本英文学会での発表で、『友愛のポリティックス』に言及していたので読んでみましたが、これは面白くなかったです。

 

「雑文」が多く、「わざわざ購入するまでもない」という印象。デリダに関心のある方は、図書館に行って、興味を引いた論文だけコピーすればいいでしょう。

 

 

2時間後の追記

『ならず者たち』の英訳(“Rogues“)、ありました。早速、アマゾン・アメリカに注文。4000円とちょっとです(ちなみに、紀伊國屋のネットショップでは4600円以上)。

 

ジャック・デリダ『エクリチュールと差異』所収の「人間科学における構造、記号、遊び」を読了しました。学部生だったときに友人たちと原書の講読会で読み、その後旧訳で読み、今回は新訳で読み直してみた次第です。

 

デリダによれば、構造主義以前の人間科学の歴史は、「中心」の交替の歴史であった。そこにおいて「中心」は、システムを秩序づけ、システム内の諸要素の「遊び」(=「無限の交替」)を制限するという機能を持っていた。デリダはそのような「中心」の名称が、常に「不変要素」としてのある「現前性」(アルケー、テロス、本質、「神」、人間など)を指していたと主張する。

 

ところが構造主義とともに、人びとは「中心」や「起源」(デリダはそれを「超越論的シニフィエ」と呼ぶ)は存在しない、「中心」や「起源」を一個の「現前的ー存在者」の形式で思考することは不可能だと考え始めた。そうなると、システム内の諸要素の「遊び」は無限に拡大してしまう。

 

しかしながらデリダは、レヴィ=ストロースには「現前性への倫理のようなもの」「起源へのノスタルジー」があるとします。そして、著者はそれに「ニーチェの肯定」「世界の遊びと生成の無垢の陽気な肯定」を対置し、「私としては、今日どちらかを選択しなければならないとは考えていない」と結論づけます。

 

この「結論」は、よく引用される「二本の手(=一方の手で「真理」を探し求め、他方の手でそれを「脱構築」する)」を意味しているのでしょう。

 

原書を参照しながら読みましたが、やはり今読み返しても、いくつか分からない箇所はあります。

 

しかし、レヴィ=ストロースが「自然/文化」の対立について、その「真理」としての価値を批判しながらも、それを「道具」として使用し続けたこと(←これも一種の「脱構築」です)など、現在構想中の論文の「ヒント」を得ることもできました。

 

勉強になったと思います。

 

今回も二箇所だけ引用しておきましょう。

 

・もう一つの選択肢――こちらの方がいっそうレヴィ=ストロースの方法に対応していると私は思うのだが――、それは・・・経験的発見の次元にとどまり、古びた諸概念を、あちこちでその限界(リミット)を告発しながらも、あたかもまだ使用できる道具であるかのようにすべて保持することである。そうした諸概念にはもはや真理としての価値も、厳密な意味作用も与えられない。もっと便利な他の道具が見つかれば、いつだってそれらの概念は放棄されるだろう。(邦訳576頁)

 

・したがって、解釈、構造、記号、遊びに関する二つの解釈が存在する。一方は遊びからも記号の次元からも逃れていく真理や起源の解読を試み、この解読を夢見て、解釈が必要であるという状況を、あたかも流謫地にいるかのごとくに生きている。もう一方はもはや起源の方に向かうことなく、遊びを肯定して、人間と人間主義との彼方へ赴こうと試みている。人間という名前は、形而上学ないし存在-神論の歴史を通じて、ということはつまり、人間の歴史の全体を通じて、充溢した現前性、安心を与える基盤、起源と遊びの終焉を夢見てきた存在者の名前である。(590頁)

 

ジャック・デリダ『エクリチュ-ルと差異』所収の「制限された経済から一般的経済へ/ある留保なきヘーゲル主義」を読みました。

 

大学院の指導教授お薦めの論文(「デリダ入門に最適」と)で、私は修士課程のときに旧訳で一度、博士課程のときにもう一度読み、さらに2013年に新訳で読んだのですが、今回は前回赤ペンでチェックした箇所のみをサラッと読み返してみた次第です。


デリダはここで、ジョルジュ・バタイユが『内的体験』で記述する「至高性」を、ヘーゲル『精神現象学』の「主人性」の「留保なき」先鋭化として読解します。そして両者の差異を「意味からの差異」とし、前者を、「制限された経済」としての後者を「一般的経済」の中へと「書き込み直す」作業だと主張します。

 

私は『精神現象学』は解説書を何冊か読んだだけで、原典は読んでいませんし、『内的体験』についてはほとんで何も知らないので、デリダのこの論文を読んでも、なかなか「ピン」と来ないのですが、それでも勉強にはなりました。

 

二箇所だけ引用しておきましょう。

 

・他のテクストと同様、ヘーゲルのテクストも一個の部品からできているわけではない。このテクストの欠陥なき一貫性を尊重しつつも、それでもこれを複数の地層に分解して、テクストが自分自身を解釈しているということを示すことが可能なのである。それゆえ、各々の命題はどれも一つの解釈であって、それは解釈に関する一個の決断に従属している。(←これが「脱構築」の作業です/邦訳524頁)

 

・ 絶対知の地平の中を、あるいは「ロゴス」の循環性に従って、進んでいた精神の現象学がこうして転倒されるというわけではない。単純に転倒されるのではなく、それは包含されるのである。ただし、認識的な理解によって理解され包含されるのではなく、現象学に備わる諸々の知の地平と、諸々の意味の形象と共に、一般的経済の開けの中に書き込まれるのである。(←「脱構築」の定義です/550頁)

 

ジャック・デリダ著『哲学における最近の黙示録的語調について』(白井健三郎訳、朝日出版社)を読了しました。1980年、スリジー・ラ・サール(フランス)で開かれたデリダについての研究討論会で、デリダ自身が行った講演の記録です。学生時代に仲間たちとの原書講読会で読み、翻訳が出た直後に再読し、今回は三回目の読書でした。

 

タイトルはカントの小論文「哲学における最近の尊大な語調について」(1796年)を変形したものです。カントはこの論文で、合理的な理性を軽視し「超自然的な啓示」に訴える「奥義伝授者」たちを告発しつつ、そこに「哲学の死」(カント自身の言葉)を見て取ります。デリダはこのことから「終末論」へと議論を進め、「人間の終末」「歴史の終末」「哲学の終末」など、「終末」一般について分析します。そして最後に、「終末論」を「脱構築」し、「差延」こそが「黙示録」としての「現前性の領野」を開くこと、「黙示録=現前性」は「差延」の効果であることを主張します。

 

この書物で著者は、「黙示」「黙示録」「黙示録的なもの」という用語を、多種多様な意味で用いています(「破局」「覆い取り=真理の開示」「終末としての真理」「真理の終末=真理の不可能性」「言説一般」「形而上学=制限されたテクスト」「一般的テクスト」「脱構築」など)。そのため「黙示なき黙示録」(「形而上学の囲い」のない「一般的テクスト」の意か)や「黙示録の黙示録」(「制限されたテクスト」の「脱構築」の意か)など、奇怪な表現が出現し、内容は相当に難解です。さらに邦訳では明白な誤訳も頻出。

 

大変勉強になりましたが、お読みになるなら「邦訳」は「参考」程度と考え、フランス語原典か、もしくは英訳でどうぞ。