ゴキゴキ殲滅作戦!

ゴキゴキ殲滅作戦!

念のために言っておくが、私はゴキブリではない。
さらに念のために言っておきますが、このブログはコックローチやゴキブリホイホイとは何の関係もありません。
本と映画と渋谷とフランスについての日記です。

ヴォルフガング・シュトレークの『資本主義はどう終わるのか』(村澤・信友訳、河出書房新社、2017年)を読了(したことにw)しました。

 

著者は(本書「あとがき」には経歴が紹介されておらず、ウィキペディア日本語ヴァージョンにもないのですが)、1946年生まれのドイツの社会学者で、元ケルン大学教授。本邦では本書の前に『時間かせぎの資本主義』(鈴木訳、みすず書房、2016年)が出ていて、この本はその「続編」という位置づけのようです。

 

60頁もある「序文/資本主義――その死と来世」と11の章(それぞれ個別の論文)からなる論文集で、私は最初の三つの論文と序文(訳者の勧めで最後に読みました)だけ読んで、「読了」です(残りはヨーロッパ社会・経済についての「具体的な」分析のようなので)。

 

シュトレークは資本主義を単なる経済システムではなく、「無際限に進行する民間の資本蓄積」に基づく「社会秩序であるとともに生活様式」と定義します。

 

その上で彼は、現在の最先端資本主義諸国における三つの「長期的傾向」に着目する。経済成長率の低下、政府・民間における膨大な債務、そして経済格差の拡大である。反復する経済危機や民主主義の劣化など、それらに付随する諸問題にも言及した後、エリートたちもそうした問題を解決する手段を知らないことを明言する。このことから著者は、近い将来における資本主義の「死」を予言します。ここで言う「死」とは、ひとつの「出来事」ではなく「過程」であって、資本主義は「長期にわたって苦しみながら朽ちていく」。そしてその後に到来するのは、「別の秩序ではなく無秩序と混乱」だと言うのです。

 

そうした事態が生じたのは何故なのか。かつてカール・ポランニー(1886-1964)は、三つの「偽りの商品」を列挙した。労働・土地(自然)・貨幣である。これら三者は厳しい制限の下でのみ商品として扱うことが許されるものであって、もしも全面的に商品化されてしまったら、それ自体が「破壊されるか、あるいは利用不可能になってしまう」。ところがグローバリゼーションの進展によって、「それらの領域を完全な市場化から守るための諸制度は次々と破壊されている」。

 

換言すれば、資本主義の市場経済は、各国政府による規制、労働組合や社会主義思想など、市場経済を抑制するものによってこそその安定性を維持してきた。ところがグローバル化した市場は、そうしうたものを消去し、あるいは無効・骨抜きにしてしまったのである。著者は特に「労働」を例にして解説しています。労働規制の撤廃、発展途上国の労働者の劣悪な労働環境、不当な低賃金で働く移民たち、等々です。

 

前回紹介したフレイザーとは異なって、シュトレークは「社会主義」に希望を託してはいません。そのため、内容は徹底的に悲観的になっています。

 

・・・原著が出版されたのは2016年夏ごろのようで、未だ世界経済は「グレート・リッセション(大不況/日本は被害があまり大きくなかったためリーマン・ショックと呼んでいますが)」の影響から完全には立ち直っていない時代です。それからすでに10年が経過しましたが、少なくとも日本では資本主義が「死んだ」ようには見えません。まあ、トランプの戦争のため、これから「死ぬ」のかもしれませんがw。

 

しかし非常に興味深い議論で、面白かったです。訳文もこなれていて読みやすい。

 

お薦めですね。

 

ナンシー・フレイザーの『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(江口泰子訳、ちくま新書、2023年)を読了しました。著者は1947年生まれのアメリカの政治学者で、巻末の解説は白井聡さんです。

 

著者はマルクス、ローザ・ルクセンブルクの後を受けて、資本主義を単なる経済システムとしてではなく、「制度化された社会秩序」と捉えます。そこにおいて「経済領域」は、それを支え、それを可能にする背景としての「非経済領域」に依存している。しかもこの依存関係は「ただ乗り」で、資本の蓄積・増殖を至上命令とする「経済領域」は、自らの可能性の条件である「非経済領域」を「貪り食って」いるのです。

 

著者はこの「非経済領域」を四つに分類します。まず植民地、独立後は発展途上国からの「収奪」。これによって先進諸国は、それらの国(およびその国民/ほぼ全てが有色人種)から莫大な富を移転している。

 

第二に、「社会的再生産」。出産、育児、教育および老親の介護。労働者に食事を与え、疲れを癒やし、労働力を回復させるための家事労働。これらはそのほとんどが、女性による無償労働で成り立っています。

 

第三に「自然」。それは「経済領域」に原材料やエネルギーを大量に供給し、同時に廃棄物の処分場となる。あるいは資本が熱低雨林を伐採し、単一作物を栽培する農場に変える。森林の二酸化炭素吸収力は弱まり、それが地球温暖化の一因となる。ここでも主要な代価を支払うのは、発展途上国とその国民です。

 

第四に「公的政治」。資本主義の「経済領域」は、法規制、治安の維持、インフラの整備など、多くの面で公的権力に依存している。しかしこの公的権力は、多国籍企業とグローバルな資金の流れによって「骨抜き」にされてしまいます。

 

著者によれば、資本主義の「経済領域」はこうして己が「貪り食った」もの(=自己自身の可能性の条件)を、補充したり回復させさせたりは決してしない。そのような資本主義は必然的に不安定になり、危機を孕んだものとなる。そしてその危機が頂点に達し、もはや誰の目にも明らかになったとき、資本主義はその体制を転換します。かくして、資本主義の「歴史」ができる。重商主義、植民地資本主義、国家管理型資本主義(フォーディズムに代表される)、そして現代の金融資本主義、と。

 

さらに著者が強調するのは、上の四つの「ただ乗り」は相互に関連し合っている、ということです。例えば、発展途上国の労働者が非常に安い賃金で自然を改変したり、先進国で不法移民の女性が法外に低い給与でベビー・シッターをする、といったケースです。このように四つの「ただ乗り」は互いに複雑に絡み合っているので、個別に対処しても対症療法にしかならず、根治することはできないません。

 

そこで、著者が求めるのは全面的な変革、つまり資本主義そのものの解体です。こうして著者は、資本が社会を「貪り食う」のではなく、社会が資本を統制するような「社会主義」の社会秩序を提案します。それが非常に困難な道であることは著者も理解しており、またそうした社会がどのような社会なのか、著者自身も具体的な構想は持っていないようです。

 

しかし彼女は、バーニー・サンダースやアレクサンドリア・オカシオ=コルテス、そして「アメリカ民主社会主義者(DSA/党員は激増しているらしい)」に希望を託します。

 

議論の内容は具体性に富んで分かりやすく、訳文もこなれていて読みやすい。

 

良書だと思います。お薦めですね。

エミリー・ブロンテの『嵐が丘』(鴻巣友季子訳)を読了しました。

 

サマーセット・モームが『世界の十大小説』の一つに選んだ、世界文学史上燦然と輝く名作で、私は大学生のとき旧訳を購入したのですが、その後読む機会がなく、「ブック・オフ」で落手した新訳(2003年)で読みました。

 

古典的名作ですし、「あらすじ」はネット上に星の数ほどあるので、ここでは省きます。

 

数多の研究者が発表した優れた研究が、これも「星の数」ほどあることも承知していますが、ここで何も書かないというわけにも行かないので、個人的な(あくまでも「個人的な」)感想をいくつか書いておきましょう。

 

・「性愛」の要素が希薄、と言うか「ほとんど無い」。主人公のヒースクリフとヒロインのキャサリンは、互いにセックスしたいと思っているように見えない。このことは作者のエミリーが結婚することなく、30歳で(おそらく性経験なく)死亡したことと関係しているのかもしれない。

・ストーリー展開は、不自然な箇所も多いが、すごくスリリングで面白い。

・情念の激しさが凄まじい。ヒースクリフとキャサリンは愛し合っていると同時に、憎み合っている。

・語りの構造は現代文学に通じるものがある。物語はすべてを知る「神」の視点で語られるのではない。冒頭第四章の半ばまでと終盤の数ヶ所は「鶫(ツグミ)の辻(←元リントン家の邸宅)」の賃借人ロックウッドの視点で語られ、それを除く大部分は「嵐が丘」および「鶫の辻」の家政婦ネリーがロックウッドに語った「証言」という形式である。ネリーの証言は出来事についても他者の発言についても詳細を究め、すべてが真実であるとは到底思えない。

・キャサリンの死の18年後、ヒースクリフが彼女の墓を掘り返す有名な場面は、ヒースクリフ自身がそのように言った(とネリーが言っている)だけで、本当であるか否かはわからない。

 

モームの『世界の十大小説』、私が読破したのはこれでようやく六冊目(読んだ順に書けば『赤と黒』『ゴリオ爺さん』『ボヴァリー夫人』『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』『嵐が丘』)。残りの四冊も今年か、遅くても来年中には読みたいですね。

 

 

半日後の追記

上で「性愛の要素が希薄」と書きましたが、それもネリーの語り方の故と考えることもできそうです。つまり、ヒースクリフもキャサリンも「したくてしたくて堪らない」のですが、おそらく性経験のないネリーにはそれがわからない、あるいはわかっているが「はしたない」から言わない、という解釈です。

 

本年も最後の日となりましたが、今年は「仕事納め」にならないようです。

 

大学の授業は19日(金)で終了。例年通り、今の時点でできる仕事(1月の授業用資料および後期試験問題とその正解の作成、来年度の授業計画を大学のサイトに入力、通信講座のレポートを添削し大学に返送、確定申告のための決算書と医療費明細書の作成等)をすべて終えたのが、28日(日)の午後2時ごろ。

 

ところが今年は論文を書いた関係で、読み残した新聞が山のようにあったのです。11月10日に論文の「修正ヴァージョン」を提出後、逆の順序で(in reverse order/今日→昨日→一昨日...)読んできたのですが、8月7日(論文を書き出した日)の新聞が終わったのが12月21日(日)。それからはまた新聞を読まずに上の(↑)仕事を終わらせ、29日からは当日の新聞は読まずにまた逆順序で古新聞を読んでいます。

 

今残っている新聞は、19日夕刊、20日、21日と、29日から今日31日まで。とても今年中には終わりません。

 

ということで、皆さま、よいお年をお迎えください。

 

昨日午後電子メールがあり、某学会誌に投稿した新論文の採用が決定しました。3年前も6年前も採用されたので、今回も大丈夫だとは思っていましたが、やはり少しホッとしています。

 

「第10稿/決定稿(本文31,801字)」が完成したのが9月22日(月)の午後。アメリカの政治哲学者ウィリアム・コノリーのいう「脱構築」を本家ジャック・デリダの脱構築と比較した上で、コノリーのそれを「広義の脱構築」として受け入れて、彼の戦略と具体的な手法を分析したものです。すぐに、編集委員会にワード原稿とPDFをメールで送付しました。

 

その後、資料を読んだり、執筆中全く読めなかった新聞を逆順序で(今日の新聞→昨日の新聞→一昨日のそれ・・・のように)読んだりしていると、10月31日夕刻に二つの「査読意見書」が届きました。一方は非常に好意的で「学術的価値が高い」とまで書いてくれたのですが、他方は「先行研究との異同についての節を加えて下さい」等、いろいろと注文が多い。

 

もともと本邦ではコノリーについての「先行研究」はあまりなく、特に脱構築との関係で書かれたものは京大名誉教授の「大家」が書いたわずか6頁の解説(正直な話、多少論点がズレていると思う)ぐらいしか見当たりませんが、そうした事情を書いてみると、文字数が34,000を超えてしまいました。制限文字数が「原則32,000字(少しくらいなら超過してもいいらしい)」なので、重要度の低い「註」を削除したり、「引用」を短縮したりして(一文を削除し、「・・・」で代替したりする)、31,986字まで短縮し、11月10日に再提出。そして昨日、上で書いたように採用通知を受け取ったという次第です。

 

読み残した新聞はまだ9月12日までしか遡っていません。まだ当面は「新聞漬け」の生活が続きそうです。

新論文の「第三稿」が完成しました。29,000字超。

 

ここで、今までの経緯を振り返っておきましょう。

 

2月、ウィリアム・コノリーの『アイデンティティ\差異』(邦訳)を、原書を参照しながら読み返す。5回目です(最初の2回は途中で放棄したがw)。

3月、『アイデンティティ\差異』のノート(引用集)を作成する。A4で43頁。

4月~7月、参考資料を読む。

8月9日、「第零(ゼロ)稿」の作成を始める。午前中~午後2時はノートを読み、午後3時~5時まで執筆しました。

8月21日、第零稿が完成。18,000字。

8月24日、第一稿が完成。21,000字。

8月27日、第二稿が完成、24,000字。

 

論文の登場人物は今のところ

ウィリアム・コノリー(主役)

ジャック・デリダ(sidekick/助手)

井上達夫(2シーンだけ)

のみ。

 

名前だけ登場するのが

フーコー、ニーチェ、シャンタル・ムフ、リチャード・ローティ、齋藤純一、大川正彦。

 

大川さんには今後、台詞付きの役を演じてもらう予定です。

 

これからしばらくは資料を読みながら、少しずつ手を加えて行こうと考えています。

 

本日、午後1時過ぎ、新論文の「第零(ゼロ)稿」を完成しました。タイトルは秘密ですが(発表後、そのタイトルでネット検索されると、私の素性がバレてしまうのでw)、アメリカの政治哲学者ウィリアム・コノリーについて、ジャック・デリダの「脱構築」という観点から分析した論文です。

 

論文を書くとき、私はいつもまず、ただ「最初の一文」から「最後の一文」まであるだけの、メチャクチャな草稿を作ります。それが私が「第零(ゼロ)稿」と呼んでいるものです。

 

これは、私の頭の中にある粗雑なプランを書き出しただけの殴り書きだから、比較的簡単にできる。また、ほとんど何も考えていないから、書いていてもあまり面白くない。

 

問題はこれからです。論旨が整って内容も精緻な「第一稿」を作るに当たって、初めて「考える」わけだから。いつも大変苦労しますが、実は、これが面白い。

 

これから遅めの昼食を取って、それから始めましょう!

 

 

PS

「第零稿」は18,000字強。三年ぶりの論文なので、30,000字程度(=10,000字×三年)まで膨らませたいと思っています。

 

仲正昌樹さんの『集中講義!アメリカ現代思想/リベラリズムの冒険』(NHKブックス)を読了しました。2008年に刊行された書物で、タイトルに「アメリカ現代思想」とありますが、扱っているのは専ら、リベラリズムを中心とする20世紀中盤以降の「政治哲学」です。

 

リベラリズムの旗手、ジョン・ロールズの思想の変遷を軸に、その前史、彼の盟友ロナルド・ドゥウォーキン、コミュニタリアニズム(共同体主義)やリバタリアニズム(自由至上主義)からのロールズ批判、カルチュラル・スタディーズやフェミニズムなどフランス現代思想に触発された「差異の政治」、リチャード・ローティとウイリアム・コノリーによるリベラリズム乗り越えの試み、さらには世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリ=マイケル・ハートの『帝国』まで、アメリカの社会・政治的背景をも一瞥しつつ、イギリス・カナダも含めた英語圏の戦後政治思想を網羅的に論じます。

 

個々の思想家について踏み込んで分析するのではなく、あくまでも戦後の英語圏の政治哲学をザックリと解説する「入門書」という形式ですが、それにしても著者の博識ぶりには驚嘆しました。

 

前回も書いたように、学期中はまとまった勉強時間を取ることができません。そこで現在構想中の論文の「前提」として、平易な本でアメリカの現代政治哲学の全体像を見ておこうと考えて読んでみた次第ですが、思いのほか勉強になりました。

 

小野紀明さんの『二十世紀の政治思想』(岩波書店/1996年)を読了(したことにw)しました。

 

「岩波テキストブックス」という双書の一冊で、大学の「教科書」として書かれた書物のようです。著者は執筆当時、京都大学の教授。現在絶版中ですが、アマゾンで「中古」を注文したところ、届いたのは「新品」でした。

 

古代ギリシャにおける形而上学の成立から筆を起こし(序章)、その形而上学の批判者としてのニーチェを、まずはファシズムの思想的根拠として、次にポスト・モダン哲学の源流として記述します(第1章)。さらに、ハイデガーについて詳述した(第2章)後、サルトル、レヴィ=ストロース、ポスト・モダンへと筆を進めて行く(第3章)。

 

今回は、「序章」「第1章」と、「第3章」の末尾、「第4章」の最初(フーコーについて)を読んだ後、続くハンナ・アーレントは飛ばして、リチャード・ローティとウィリアム・コノリーについての解説と「結びに代えて」を読んで「読了」しました。

 

著者の博識ぶりに驚嘆し、同時に自分の不勉強ぶりに愕然としています。何より、「アゴニズム(=闘技民主主義)」の「アゴーン(=闘技)」という語がニーチェに由来するとは、知りませんでした。

 

実は、私は大学二年の夏休み、「新聞は隅から隅まで読む」ことと「語学(英語・フランス語)は徹底的に勉強する」ことを決意しました。それ以降、私はこの決意を、修士課程の学生だったとき(←周囲との競争のため)とフランス留学中を除いて、ずっと実践しています。

 

学期中は授業とその準備もあり、自分の研究に割けるのは日曜と月曜(+運が良ければ土曜の夕方)のみ。現在計画中の「コノリー論」は前途多難に思えてきましたが、何とかやってみる所存です。

 

前回の投稿から2ヶ月以上が経過しましたが、この間、ウイリアム・コノリーの『アイデンティティ\差異――他者性の政治』(杉田・齋藤・権左訳/岩波書店)を読了し、A4で42頁のノート(≑引用集)を作りました。

 

2月の終わりに始め、4月8日に一旦終了。その後、読めなかった一ヶ月以上の新聞を読み(授業が始まったこともあって、二週間以上かかりましたw)、4月27日から「ノート」を読み返して誤植の訂正と加筆を行い、たった今、終了した次第です。

 

私にとっては一種「因縁」の書物です。2010年の秋に購入し、直後に読み始めたのですが、100頁を過ぎたあたり(全体で400頁超のうち)で放棄。数年後、再び最初から読み、今度は50頁を過ぎたあたりで放棄。更に数年後、また最初から読み、このときは全体を読了。コロナ禍が始まる前年か前々年には、英語の原書を取り寄せた上で、理解できない箇所は原文を参照するという仕方で、通読。今回は5度目のトライアルでした。

 

「闘技民主主義」の旗手(flag bearer)とされる著者の代表作。闘技者たちがアリーナで、互いに敵に対する敬意を抱きつつ正々堂々と闘うように、異なる立場、異なる意見を持った者たちが、互いに相手に対する敬意を忘れずに、正々堂々と議論することを民主主義の「規制理念」とします。

 

著者は、自己のアイデンティティを「真理」と考え、それと異なるアイデンティティ(=「差異」)、異なる慣習や思想・信条を持つ者たちを「悪」をみなして、征服もしくは改宗させようとする衝動を、人間にとって不可避的なものだと主張します。そうした前提の下、この衝動を緩和し(←「滅却」することは不可能なので)、「アゴーン(競争)的な敬意」を涵養するための倫理を探求するのが、本書です。

 

実は私は、この本について論文を書こうと計画しています。非常に難解なので、完成できるか否か分かりませんが、この夏休みに書き始めてみるつもりです。