あの、一連の苦しい気持ちは結局のところ、先生のことが大好きすぎるからだ。

 

 

ここを読んでくれている人の中には、私がどこの誰かなのかを知っている人もいる。

ブログの宣伝をしたことはないけれど、かといって内緒でも秘密でもない。

そもそも世界中の誰もが読める場所に書くということは、秘密にはなり得ない。

文章はいつも誰かに読まれる前提で書いている。

他人の目を意識して書くからこそ、ようやく気づけることがあって、読者のみなさんの存在に助けられながら考えを深めていける。

 

 

きっと読んでくれていて、でも会っても直接触れることはなく、品よく心広く温かく言葉を選んで励ましてくれた人たちにありがとう。

ご心配をおかけしてすみません。

 


続きを書くなら、あの、一連の苦しい気持ちは結局のところ、先生のことが大好きすぎるからで、そしてやっぱりお別れが寂しすぎて、なんか最近ちょっとレッスンがバグっている気もする。

 

 

この秋に日曜先生は生活の拠点をアメリカに移される。

二度と会えないわけではないと思うけれど、全てのクラスがなくなる。

だからカウントダウンされていく毎回のクラスで、いよいよ先生が教えてくださることを無駄にしないように自分の中で総括しようとして、感度をぎゅんぎゅんに上げていたら、通常なら自動的にフィルタリングされるようなところも素通りして、完全にキャパオーバー。

先生のおっしゃることは絶対で、もちろんレッスン中はそうなのだけれど、どこかその考え方が意図しない方向に働いてしまっていたのは反省点だ。

自分の中に根付いている悪い意味での昭和風味のお稽古事としてのバレエが、むっくりと頭をもたげていた。

 

 

今、令和ですけど?

 

 

急につらく感じるようになったというのは、その、封印していたはずの昭和風味が喚起されてしまったからかもしれない。

これは私のバレエに関する黒歴史の中でも、いちばん厄介な部分だろう。

 

 

バレエで、こわい、って思いたくない。

自分の容姿や性格、家族のことなどを言い募られてもどうしようもなかった、あの時の気持ちを思い出したくない。