自分で、こうしよう、と決めたことなのに、自信がない。

この方向性で合っているのかどうか。

正解はひとつではないから、それでもたぶん間違ってはいないのだろうけれど、なにせ自信がない。

 

 

だから、話せる人には折を見て話している。

大きく間違っていれば、変な顔をして知らせてくれるだろうし、間違いというほどでもなければそっと背中を押してくれるはず。

 

 

何が起きるかわからないから怖い。

自分のことだけならどうにでもなるのに、他人に降りかかるそれを最小限にしようとするのはとても難しく、その怖さを何とか回避したくて、先回りしたくなる。

でも人生、先回りなんて本当のところは、できない。

 

 

目の前のトラブルに対処しながら、頭の中はあーでもないこーでもないとこねくり回している。

そういうときに出会ったちょっと長めの文章と、短めの文章。

 

 

▼ちょっと長めの方。

 

 

歌人・穂村弘さんは短歌よりエッセイに親しみがあって、以前はよく読んだ。

エッセイはうじうじと煮え切らなくて、でも短歌をよむ人ならではの観察眼と表現の妙がたまらない。

 

 

ひさしぶりに触れた穂村さんのエッセイは、少し歳を取った分やや達観していて、でもまだ青く新鮮な切り取り方もある。

「偶然性」を「凡庸と表裏一体」とも言っていて、ああそうか、凡庸でいられるか、凡庸でいいと思えるか、というところに引っかかっているのか、と思考があらぬ方向に飛んでいく。

 

 

或るタイミングで理想への拘りを手放して偶然に委ねることを「凡庸と表裏一体」と言いました。でも、「偶然性」というのは、別な意味において、やはりとても大事なものなんです。

偶然に頼らず、コスパを気にしたり、入念に準備をしたうえで「いい状態」を目指す方が、失敗のリスクは下がるかもしれません。例えば、旅行をするとなると、人はだいたい事前に調べて「ここに行こう」「この店でご飯を食べよう」といった計画を練りますよね。これによって「間違った選択をしない」という安心感を得ることはできる。でも同時に、「初めて」の感動が奪われてしまうという大きな欠点を抱えているとも言えるし、「偶然の出会い」の可能性を消してしまうことだってあるでしょう。(抜粋:偶然が差配する世界に委ねる。歌人・穂村弘さんの幸福論、より)

 



▼もうひとつの、短い方。

 

 

「観察力が鋭ければ普段の日常の情景に祝福を見出すことができる」ということと、「それを描写する文章力があれば誰かに伝えてその祝福を何倍にも増幅させることができる」ということを、わたくしは『枕草子』で学びました。(抜粋:たらればさんのポストより)

 

 

Twitter(X、だっけ?)で見かけたツイート(ポスト)。

つまりどんな日々を過ごそうと、そこに色を与えるのは出来事そのものよりも観察力・観察眼で、そういう人に私はなりたいんだった、とハッとした文章。

 

 

それならとりあえず自分がこうしてみようと決めた方向でやったらいい。

もし途中で大きく事情が変わったなら、方向転換すればいいし、私はきっとそこから何かを見出したいのだと思う。

 

 

自分で自分の目を曇らせないように、怖さに負けないように。

すごいトレーニングだな。

 


ベランダのレインリリー


花がらを取るのも追いつかないくらい、次々と咲く。