『普通』な事がコンプレックスだ。


私は思春期真っ盛りの様な悩みを抱えた中年なのだ。


とはいえ、40を越えて諦めがついた部分でもある。


20代の頃は自分が普通だなんて口が裂けても言えなかった。認めたくなかった。

そんな事を言ったら、戦場で『俺は丸腰だ!』と宣言するようなもの。


・・戦場で丸腰アピールするやつは一番普通じゃないが・・とにかく、クレイジーで面白い人達が集まる世界で俺の方が面白いと信じて戦うのに、普通だなんて負けを認めるようなもの。

そう思い込み、無駄に尖ったり、心にもないクレイジーな発言をしたり、場を盛り上げる為に自分の考えとは違う側に立って喋ったり、あいつは変わってて面白いと言われたかった。


でも心の中では『思ってもない事を言って傷つけてしまった』『ヤバい奴に思われたくて失礼な態度をとってしまった』今さらやり直す事の出来ない思いが常にある。


私がやっていた頃の漫才は、キャラクターを出さないと売れないと言われていた。

漫才のキャラクターがそのまま平場で使えないと売れない。

漫才が面白くてそのキャラがそのままバラエティー番組でも使える。MCやいじる側も漫才のイメージでいじって平場も成立する方が分かりやすい。

漫才と平場のキャラが変わってしまったらどう見ていいか分からない。


みんな漫才にキャラをつけようと必死だった。

それに迷い続けた。

俺は悲しいくらいに普通なのだ。


元相方であり、甥っ子の一誠。

あいつは特別だった。普通じゃなかった。漫才は自分が輝くものを持ってなくても隣にいる人間が輝いていたらそれでいい。ただ、普通である事を認める事が出来ない俺はその輝きを際立たせる影にもなりきれなかった。


とはいえ、そんな考え一つで売れるほど甘い世界ではないのでそれが出来たら売れてたというみっともない事を言ってるわけではない。


落語は素晴らしい。

私は師匠と落語に拾ってもらった事を心から感謝している。


落語は自分というキャラクターではなく、噺の中のキャラクターをそれぞれ活かしてあげる事が重要だ。


とはいえ、落語の世界でもキャラクターのある芸人は魅力的である。『フラ』という。

人間性、芸人そのもののキャラが滲み出てる人の事をフラのある芸と言ったりする。

フラがカタカナでいいのかは分からない。調べて下さい。


落語のフラは滲み出るもので、明確なキャラではない。笑点に出るともなると見てる人が分かりやすく言葉に出来るキャラが必要なのだと思うが、落語のフラはそれとは違う。


なんとなく感じるくらいでいい。


明確なキャラがあっても色んな噺をする落語には活きない。


キャラではなく、一つの噺に向き合って、その日のお客さんに向き合って笑いを作る。同じお笑いでも取り組み方が全く違う。


落語界も生き抜くのは大変だ。厳しい。

でも、落語が出来てとても幸せだ。時間をかけて明確なキャラではなく、フラのある芸人になっていければと思う。


しかし、落語界にもフラを超えてクレイジーさが溢れているそんな芸人が沢山いる。


その中の一人が、小とりである。


彼のはフラでは収まらない。私が心から欲したクレイジーを持った芸人である。


落語家になる前にDJをしていたが、ミキサーとかを使えないのでDJブースに自前のラジカセを持ち込んで曲を流したら、音が小さくて聴こえないからとフロアにいた客がみんなブースの近くに集まってきた、というエピソードをもつ小とり。


羨ましい。普通じゃない。


そんなクレイジーな小とりの会。


『 個  鳥 』

2/14(月)

【会場】

浅草なまらく亭

台東区西浅草2-10-2

18:30開場/19:00開演

【完全予約制10名1500円ステッカー付】

《ゲスト笑福亭茶光》

【番組】

絵にまつわる噺・解説

ライブドローイング

三題噺  

今から予約受付開始

ws.formzu.net/fgen/S24449038/


毎回どこか変なところがあります。


前回は指にガムテープ巻いたまま落語してました。


本寸法を求めないお客様のお越しをお待ちしてます。