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くさかはるの日記

小説『常世の君の物語』と『現世(うつしよ)の君の物語』を手掛けています。
ここでは日常のなんでもないことを書き綴っております。

私は耳が聞こえない。

 

これは生まれつきなのだけれど、生まれつきだからこそ、私は音を知らずに生きてきた。

多くの人に聞こえている「音」ってどんなだろう。

音楽に合わせて踊っている人を見ると、独特のリズムがあるのが分かる。

けれど健常者の妹によると、音楽の持つリズムと、人がしゃべっている時のリズムは種類が違うということだ。

ふうん。

どうせ聞こえないから興味ないけど。

私が障碍者だとわかると、人は困った顔をする。

扱いに困るのだろう。

それまでしゃべっていた口を閉じ、スマホでのコミュニケーションをはかろうとする人もいた。

それはそれで親切だとは思うけれど、スムーズでなくてもよいなら私はしゃべれる。

ただ耳が聞こえないだけで、声は出るのだ。

私は普通に接してほしいだけなのに。

でもそれも無理な話だ。

多くの人が当たり前のように使っている声を、私は拾えないのだから。

そうして私はひきこもるようになった。

それが10代の頃のこと。

しかし転機が訪れる。

20歳になった頃、今の夫と出会ったのだ。

夫も、耳が聞こえない。

私たちは地域の手話サークルで出会った。

お互い耳が聞こえないものだから、手話での会話など、健常者の人より相手のペースが読みやすい。

それで、何度か交流を重ね、デートを重ね、逢瀬を重ねていき、昨年、結婚に至った。

私と夫に子供はいない。

二人で話し合い、持つことをあきらめたのだ。

私は何度も泣いた。

悔しかった。

そのたびに夫がなぐさめてくれた。

そのおかげで、今この年になるまで夫とはラブラブである。

私たちの世界に音はないけれど、それでも世界は鮮やかに語りかける。

せめてその色を、振動を、思い切り感じて生きていこうと思う。

恋人のヒナに誘われて、今日、僕は人生ではじめてジムにやってきた。

どのマシンをどのタイミングで使ったらいいのかもわからなかったので、恥をしのんでヒナに教わる。

「デスクワークばかりじゃあすぐにメタボになっちゃうよ。健太には健康的でいてほしいの」とヒナは言う。

惚れた弱みもあるが、今回ばかりはヒナが正しい、僕はおとなしく言うことをきく。

本格的にジムに通うとなると、専用のスポーツウェアが欲しい。

まずは形を整えたいのだ。

というわけでヒナと一緒にスポーツ店へと向かった。

店内を見渡して驚いたのだが、今は本当におしゃれなウェアがたくさんある。

僕が学生だった頃は学校のジャージみたいなのしかなかったのに。

ウェアは適当に見繕って、シューズは気合を入れてマラソン用のものを購入した。

帰宅して早速パソコンで筋トレについて調べだす。

そうして好奇心のままにサイトをいくつかはしごしていると、長距離走について書かれたサイトに行き着いた。

「初心者からフルマラソンをめざそう」という文字がおどっている。

どうせ達成できないのだからと、勉強でも仕事でも、昔から最初にたてる目標はとても高いものが多かった僕である。

ソファでスマホをいじっているヒナに「フルマラソンて大変?」とアホな質問をしてみる。

するとヒナは「やったことないけど、いいじゃん、今から二人で完走めざしてみようよ」とすぐに乗り気になってくれた。

早速サイトを見ながら二人でウォーキングとランニングのスケジュールを決める。

まずは30分、ウォーキングとランニングを交互に行い無理のない範囲でスタートする。

ヒナは元々陸上部だったので大丈夫だが、問題は僕だ。

「一緒に頑張ろうね」

とヒナが言う。

僕は単純なので、このフルマラソンへの挑戦がすでに達成できた気になる。

その日の夕方、さっそくヒナと二人、走りに出たが、僕は30分という時間が果てしなく長いことを知るのだった。

 

 

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よく言われる「楽しんで取り組む」とか「自分との闘いに勝てばいい」とかどこの世界のきれいごとかと思う。

陸上競技では、競争相手に勝たないと意味が無いのだ。

順位がすべて。

だからこそ、日本一や世界一の選手は特別なのだ。

何が特別って、まず体の出来が違う。

黒人選手はそもそも骨格と筋肉のバネが違う。

アジア人である私があれに勝てるとは思わない。

努力でなんとかできる差ではないのだ。

残酷なまでの現実が、そこには横たわっている。

であるならどうするか。

日本一なら目指せるのではないか、とヒナは思った。

ネットで女子100m日本一の記録を検索する。

もう何度も見たその記録は、夢の中にも表れるほどだった。

一年前のヒナは、一年あれば、努力さえすればこれを超えられると思っていた。

一年が経ち、なんと浅はかだったのだろうと思った。

おそらく、この記録を持つ選手と、ヒナの体では、黒人選手ほどではないにせよ、明確な差が存在する。

ヒナはそう感じた。

それほどまでに、日本一の記録ははるか遠くに感じられた。

日本一なんて、無理じゃん。

じゃあ、どうする?

高校総体で一位?

いやいや、今の私の記録は12秒ジャスト。

県でベスト4を目指すくらいがちょうどいい。

県でベスト4なんて、日本一と比べれば、なんとも地味に感じられる。

そもそも、私はなんで100m走をしているんだっけ。

そりゃあ、走るのが好きだからだ。

他人より早く走るのが、単純に気持ちがいいのだ。

でも県でベスト4にもなれていないのが現実だ。

やっぱりこの秋で陸上競技を引退しよう。

将来を見据えて大学受験に専念しよう。

私みたいな人、たくさんいるんだろうな。

ジョギングの足をゆるめ、ヒナは静かに星空をあおいだ。

 

 

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「男やもめに蛆がわき、女やもめに花が咲く」

 

和子が声を張り上げる。

「なんだ、大げさにことわざなんか持ち出して。嫌われるんだぞ、そういうの」

俺がそう言うと、和子は一度顔をくしゃっと寄せて「別にこの年だ、誰に嫌われようがかまわないよ」と言ってことわりもせずリビングの椅子に座った。

ここのところの雨模様で、部屋の中はじっとりと湿り気を帯びたようにしずんでいる。

俺はリビングのテーブルの上に大きさの違う湯呑を二つ出し、茶を注ぐ。

「一人暮らしは寂しいだろう、だから来てやってるんだ」

「別に頼んじゃいないがな」

「そんなこと言って、孤独死してもいいっていうのか」

「死んだ後のことは知らん」

いつも同じやりとりをして笑う。

4畳のリビングに6畳のフローリングがついたこの家に、俺はかれこれ30年住んでいる。

6畳の部屋にはテレビと万年床、小さなちゃぶだいにグラウンドゴルフの道具、それにいつのものだか分からないコンビニの袋とその中身が散乱している。

「ちょっとは掃除でもしたの」

と和子が問う。

「ちょっとはな」

と俺は答える。

和子は「どれ」と言って奥の部屋へと移動し、床に散らばったビニール袋を集めだす。

「いいって、自分でやるから」

俺が声を荒げると、「いいからいいから、こういうのは年長者に甘えておくもんだ」と返事がする。

俺は傷む膝をさすりながら和子の働きを眺める。

「まるで押しかけ女房だな」

冗談交じりに言う。

「ありがたく思いなさい」

と顔もあげずに和子が答える。

張りのあるその声はわずかに笑っている。

「雨が上がったらすぐにグラウンドゴルフだ。また一緒にやろう」

「早くやんだらいいけどね」

45Lの袋をいっぱいにして、和子は腰を伸ばして外を見る。

俺はそんな和子に心の中で手を合わせながら茶をすするのだった。

 

 

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駅前のデパートに新作のコスメが並んだ。

 

そう噂を聞きつけ、結衣は日曜を待って意気揚々とでかけた。

天気は晴れ、十月に入って気温はぐっと下がり、長袖でちょうどよく感じられる。

自転車でもよかったのだが、あまりにも天気がいいものだから、結衣はスニーカーを履いて歩きを選んだ。

てくてくと線路沿いを歩く。

道路沿いに植えられた木々は既に色づき始めており、秋の訪れを感じさせた。

結衣の頬を涼やかな風がなでてゆく。

あまりにも心地よいので、結衣はめいっぱい息を吸ってみる。

目を細めて辺りを見渡す。

すると、道路の脇にある溝をふさいでいた鉄格子の間から、草花がのぞいるのが目に入った。

青い可憐なその花は、暗い溝の中から太陽の光を求めてめいっぱいに茎を伸ばしていた。

きっとこの青い花を見つけたのは、この世の中で私しかいないだろうと、結衣は思った。

それぐらいひっそりと、その青い花は咲いていた。

結衣はなんとなくその場を通り過ぎるのがもったいなくなり、ポケットからスマホを取り出すと青い花に向かってパシャリとシャッターをきった。

角度を変えて三、四枚撮る。

画像を見て満足すると、結衣はやっとその場を後にした。

 

それからちょうど一年後、結衣は職場でしこたま叱られてへこんでいた。

トイレに入り、あふれ出てくる涙をハンカチでぬぐう。

どうして私はこんなに駄目なんだろう。

悔しさと自己嫌悪で胸がいっぱいになる。

しばらくしてスマホをのぞいてみると、「一年前の今日」というタイトルで通知が入っていた。

それは画像アプリからの通知だった。

アプリを開くと、そこにはたくましく咲くあの花の姿があった。

ああ。

結衣は思った。

負けてられないな。

結衣は勢いよく水を流すとメイクを整え、強い足取りで職場へと戻って行った。